チョメチョメ【後半】
ユキノは、たたんだ日傘を胸に抱えて、路地の真ん中に、ぺたんと座りこんでいた。
二十四枚のうち、残りは十六枚。
鏡餅だったのが、ようやく、ふだんのユキノくらいの厚みに戻っていた。
「……あなた」
ユキノは、うつむいたまま、言った。
「さっきの、チョメチョメ。……本当は、何でしたの」
「言えねえから、チョメチョメなんだよ」
「ずるいですわ」
ユキノは、顔を上げた。
澄ました顔を、必死で作ろうとしていた。
作れていなかった。
「わたしばかり、恥ずかしいことを、スーツに読み上げられて。……あなたのは、何も、わからないなんて」
「……ひとつだけなら、言える」
俺は、ユキノの前に、しゃがんだ。
「あんたの、その顔。いつもにこにこして、何があっても崩れない顔が、今みたいに崩れるとこ。……もっと、見たい」
ユキノの唇が、ふるえた。
目が、うるんだ。
おっとりした年上の女の顔が、俺の目の前で、音を立てて崩れていった。
いい。すげえ、いい。
「……そ、そのような、ことを……」
ユキノは、日傘で顔を隠した。
隠しきれなかった声が、こぼれた。
「この気持ち。……うれしい、いえ、恥ずかしい、いえ、くすぐったい、いえ、悔しい、いえ……」
言い換えが、止まらなかった。
探して、探して、見つからなかったらしい。
ユキノは、日傘の陰で、ぽつりと言った。
「――チョメチョメ、ですわ……」
『警告。再校スーツ、本人による廃語の発話を検知』
スーツの音声が、ほとんど泣きそうな声で鳴った。
『差し替え先、ありません。全層、強制解除します』
しゅるるるるるっ。
残りの十六枚が、いっせいにほどけた。
色とりどりの文字の粒になって、乾いた空へ、噴水みたいに舞い上がっていく。
最後に残ったのは、藤色の、大人びたレースの下着だけだった。
透けるような花模様が、白い肌の上に、繊細に浮かんでいる。
二十四枚の下にしまわれていた豊かな胸は、包む布が、少し小さく見えるほどだった。
なだらかな腰の線。正座からくずれた、白い太もも。
ユキノは、にっこり笑ったまま、固まっていた。
一秒。二秒。
乾いた風が、ひゅう、と吹き抜けた。
「……あら。風通しが、よろしいですわね」
三秒。
ユキノは、ゆっくりと、自分の体を見下ろした。
そこでようやく、首から上に、さあっと赤い色がのぼってきた。
「――――っ!!」
声にならない悲鳴が、路地じゅうに響いた。
ユキノは、日傘をばさっと開いて、自分の前に立てた。余裕のある、上品なしぐさだった。
ただ、傘の柄を握る両手が、かたかたかたと、骨が鳴るほど震えていた。
「こ、これは、その……き、季節の……衣替え、ですわ……」
「無理があるだろ」
「ありますわね……っ」
本人も、認めた。
屋根の上では、シズカが、両手で自分の目をふさいでいた。
「僕は、見てない。解析もしてない。データも、取ってない」
指のすきまから、端末の画面が、こっそり光っていた。
「見てねえ!」
俺は、全力で顔をそらした。
そらす直前に、全部見た。
「見てた。五秒」
床下から、カナが言った。
「最長記録」
「数えるな!」
俺は、ジャージを脱いで、日傘ごしに放り投げた。
ユキノは、それを頭からかぶって、袖を通した。
裾が、ちょうど太ももの真ん中あたりで止まる。
胸もとの金糸の「綺羅星」が、胸のいちばん高いところで、むやみに輝いた。
ジャージの襟に、真っ赤な顔をうずめる。
「……殿方の、においが、いたしますわ」
「言わなくていい」
「それに、わたし……」
ユキノは、襟の上から、うるんだ目だけをのぞかせた。
「見られて、いやではなかった自分が、いちばん、恥ずかしいですわ……」
路地が、しん、と静まりかえった。
それから、ユキノは、すっと立ち上がった。
ジャージの裾を押さえて、一歩、俺に近づいた。もう一歩。
にっこりと、いつもの笑顔に戻っていた。
戻ったふりだった。
耳まで、まだ真っ赤だった。
「……でしたら。先ほどの『もっと見たい』は、どこまで、本気ですの?」
「は?」
「確かめて、差しあげましょうか。……チョメチョメの、続きを」
ジャージの胸もとのファスナーに、細い指がかかった。
ちー、と、一センチだけ、下がった。
「ちょ、待て待て待て! ストップ!」
俺は、全力で後ずさった。
かかとが戸口の段差にひっかかって、背中から土間に転がった。
「……あら。逃げましたわね」
ユキノは、ファスナーを、きゅっと上まで戻した。
勝った、という顔をしていた。
崩れたぶんを、きっちり取り返した顔だった。
「灰村瓊心」
エルザが、俺の横に、すとんとしゃがんだ。
「先ほど、私の前で言ったチョメチョメと、今、再校に言った言葉。……同じ、ですか」
「……」
「記録します。……回答、保留」
エルザは、少しだけ、口をとがらせていた。初めて見る顔だった。
「……再校のほうが、測定値が、高そうでした」
「何の測定だよ」
「あなたの、変態の顔の、度合いです」
「おまえまで数えんな!」
床下で、カナが、ふっと鼻を鳴らした。
笑ったのかもしれなかった。
☆☆☆
ユキノは、ジャージ姿のまま、日傘で顔を隠して、帰っていった。
路地の入り口で、一度だけ、振り返った。
「次は、敵として、きちんと参りますわ。……でも、このジャージは、洗ってお返しします」
それから、少しだけ、声を落とした。
「綺羅星のお嬢さんは……もう、いらっしゃらないかもしれませんわね」
「……どういう意味だ」
ユキノは、答えなかった。
日傘が、乾いた風の向こうに、小さくなっていった。
床下から、タクトが顔を出した。
「にいちゃん。結局、チョメチョメって、なに?」
「……大人になったら、教える」
「教えなくていい」
カナが、即座に言った。
「一生、教えなくていい」
その夜。
床の上で、エルザが正座していた。
「灰村瓊心。私の、チョメチョメを、報告します」
「……は?」
エルザは、俺の耳もとに、顔を寄せた。
ささやいた。
三秒くらいの、短い言葉だった。
俺は、何も言えなくなった。顔が熱い。耳まで熱い。
「記録しないでください」
エルザは、それだけ言って、毛布をかぶった。
俺の毛布だった。
「……おい。そこ、俺の」
「本日の測定は、終了しています。……これは、ただの、添い寝です」
床下は、しばらく静かだった。
それから、カナの小さな声がした。
「……聞こえなかった。よかった」
缶をすする音が、いつもより、ずっと長く続いた。
翌朝。
戸を叩いたのは、シズカだった。
いつもの「興味深い」は、なかった。
「綺羅星ミヤビが、家を出された」
シズカは、息を切らしていた。
「お祖母さまの、紙の日記が、見つかったって」
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