チョメチョメ【前半】
「灰村瓊心。朝の報告をします」
目を開けると、エルザが、俺の毛布の中にいた。
「……なんで中にいる」
「昨夜から、あなたへの好意の数値を、測定しています。測定には、接触が必要です」
エルザは、俺の胸に、ぺたりと耳を当てていた。
縮んだ白衣の胸もとが、俺の腹の上で、むにゅっとつぶれている。
「心拍、九十八。寝起きにしては、高い値です」
「おまえのせいだよ!」
「結果を報告します。三日前の蒸し風呂の日に、私の好意は、最高値を更新しました。昨日も、更新しました。今朝も、更新しました」
エルザは、真顔で、指を三本立てた。
「上限が、見えません」
「……報告すんな、そういうのは」
「次に、比較対照のため、私の心拍を測定してください」
「は?」
返事をする前に、後頭部をつかまれた。
ぐい、と引き寄せられる。
顔が、やわらかいものに、うまった。
縮んだ白衣の、いちばん苦しそうなところだった。
左右から、むにっと頬をはさまれる。
息ができない。
石けんの匂いしかしない。
とくとくとくとく、と、ものすごい速さの音が、耳の奥で鳴っていた。
「どうですか」
「ふぐっ、ふががっ」
「百二十。……私のほうが、高いですね」
エルザは、俺の頭を抱えたまま、なぜか勝ちほこった声を出した。
それから、遅れて、首まで、じわじわと赤くなった。
「……測定終了。この実験は、記録から、削除します」
「自分でやっといて照れんな!」
床板が、五センチ持ち上がった。
「上限なら、私が先に超えてる」
カナだった。缶コーヒーを、ずずっとすする。
「半年前に。測定不能で、計器が壊れた。……あと、それ、測定じゃない。添い寝」
「先行研究の、共有です」
「共有すんな!」
☆☆☆
朝飯の干し芋をかじっていると、エルザが戸口の地面を指さした。
三日前、ラジ爺が書き残していった字が、まだ消えずに残っている。
『チョメチョメ』
「灰村瓊心。あの言葉の、意味を教えてください」
干し芋が、のどに詰まった。
「……昭和のテレビの言葉だ。人前で言えないことを、言わずにすませるための言葉」
「言えないこと、とは」
「いろいろだよ。言ったら気まずいこととか。恥ずかしいこととか」
「具体的に」
「具体的に言えないから、チョメチョメなんだよ!」
エルザは、しばらく考えた。
それから、まっすぐ俺を見た。
「では。今朝の測定は、チョメチョメですか」
「ちがう」
答えたのは、床下だった。
「ちがう。全然、ちがう。チョメチョメじゃない」
「三回言ったな」
「大事なことだから」
エルザは、手帳もないのに、何かを書き留める仕草をした。
「記録します。チョメチョメ。意味、言えないこと。……今朝の測定、保留」
「保留もすんな」
☆☆☆
ミヤビは、三日、来なかった。
蒸し風呂の日の夜、「お姉さまがたに、知られましたわ」とつぶやいて帰っていったきりだ。
いつもなら一日おきに、変装になっていない外套で現れて、刺繍入りの何かを置いていくのに。
昼前、シズカが屋根から降りてきた。
いつもより、顔が固かった。
「ルビから。また、掲示板」
端末の画面に、ふにゃふにゃの、目隠しの字。
『ユキノさん きょう くる
かさね 二十四まい
ひがさ ていちゃく
かきなおし きかない』
「……二十四枚」
「倍にして参ります、って言ってたからね。
あの人、約束は守る」
シズカは、空を見上げた。雲ひとつない。
からからに乾いた風が、路地のごみを転がしていく。
「今日は、湿度二十一パーセント。この街で、いちばん乾いた日。湿気で布がはがれる手は、使えない」
☆☆☆
「ご、ごきげんよう……皆さま……」
路地の入り口から、声がした。
声だけがした。
見ると、入り口に、白と薄桃と若草と藤色の、巨大な丸いかたまりが、ぎっちりとはさまっていた。
「……鏡餅?」
「白妙ユキノ、ですわ……」
かたまりのてっぺんから、ユキノの顔だけが、ちょこんと出ていた。
日傘を持った手が、横から一本だけ突き出ている。
二十四枚重ねは、花びらの段というより、もう、布団だった。
「倍にしましたら……路地の幅を、計算に、入れておりませんでしたの……」
「入れとけよ!」
ユキノは、汗だくの笑顔のまま、じたばたと身をよじった。
かたまり全体が、ぽよん、ぽよんと揺れる。一ミリも進まない。
「お、押してくださいまし。いえ、引いてくださいまし」
「どっちだよ」
路地の奥で、ラジ爺が、すっと立ち上がった。
何かを察したらしい。
ガキどもを、ひょいひょいと床下の穴へ放りこんで、地面に書いていく。
『こども いったん ゆかした』
「……なにが起きる予定なんだよ」
俺はユキノの手をつかんで、引いた。エルザが、俺の腰をつかんで、引いた。
床下から、カナが俺の足首をつかんで、なぜか、引いた。
「なんでおまえまで」
「流れで」
「せーのっ」
すぽんっ。
栓が抜けたみたいな音がして、かたまりが、こっち側に飛び出してきた。
そのまま、俺の上に、倒れこんできた。
「――っ!」
全身が、やわらかいものに、うまった。
ふかふかだった。
どこまでも、ふかふかだった。
顔の上に乗っているやわらかいものが、布なのか、布じゃないのか、二十四枚ごしでは、まったくわからない。
わからないのが、逆に、まずかった。
「……あらあら」
真上で、ユキノの声がした。
にっこり笑ったまま、固まっている気配がした。
それから、たっぷり三秒たってから。
「あら。……あらあら、あら」
布ごしに伝わる体温が、じわっと、上がった。
「……い、今、お顔は、どのあたりに」
「言えるか!」
「チョメチョメ、ですね」
すぐ横で、エルザが冷たい声で言った。
「記録します」
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