シャレオツ【後半】
最初に落ちたのは、白い布だった。
ユキノのスーツの、いちばん外側の一枚。
襟もとから、するりとすべって、湿った地面にぺたりと落ちた。
「あら」
ユキノは、にっこりと笑ったまま、落ちた布を見下ろした。
二枚目。薄桃の布が、肩からすべり落ちる。三枚目。若草色。
「……まあ」
笑顔のまま、固まっていた。
布が落ちるたびに、次の色が現れる。重なりが薄くなるにつれて、肩のまるみと、鎖骨のくぼみが、はっきりしてくる。
四枚目が落ちて、白い肩が、湯気の中でむき出しになった。
そこで、ようやく。
ユキノの顔に、遅れて、さあっと赤い色がのぼってきた。
「……あ、あら。あらあら」
ゆっくりと、片手で胸もとを押さえる。
余裕のある、上品なしぐさだった。
ただ、その指が、小さく震えていた。
五枚目。六枚目。
藤色の布の下から、胸もとのふくらみの、深い谷間の始まりがのぞいた。
押さえた指のあいだから、湿った薄布が、肌にぴったりと吸いついているのが見えた。
「お見苦しいところを。……恥ずかしい、いえ、きまりが悪い、いえ、ばつが悪い、いえ、面映ゆい、いえ……」
言い換えが、止まらなくなっていた。
類語辞書が、口から漏れていた。
「……年下の殿方に見られるのは、初めてですのよ」
ユキノは、潤んだ目で、俺を見上げた。
「優しくしてくださいな。……言葉の上で」
その一言で、俺の頭の中の、何かが、ぐらっと揺れた。
年上の、何があっても崩れない女が、湯気の中で、潤んだ目で、俺に頼んでいる。
「灰村瓊心。瞳孔が、不健全です」
エルザが、地面に座りこんだまま言った。
「今だ」
シズカが、しゃがみこんだまま、小さく言った。
「外側の三枚が、類語辞書。全部、落ちた」
俺は、息を吸った。
チョベリバでも、ムカ着火でもない。
今、この女に言うべき言葉は、ひとつだった。
「――あんたも、シャレオツだな。重ね着の色の合わせ方。花びらみたいで、いいと思った。最初に見たときから」
金色の文字が、湯気の中を、まっすぐ飛んだ。
ユキノの指が、反射的に動いた。
何も、起きなかった。
差し替えの光は、どこにも灯らなかった。金色の字が、ユキノの胸もとに、ふわりと吸いこまれた。
「……え」
ユキノの笑顔が、初めて、止まった。
「……わ、わたし、ですか。い、今のは、差し替えて、照れずに済むはずで……」
目が泳ぐ。
唇が、何か言いかけて、閉じる。
何があっても崩れなかった大人の顔が、湯気の中で、ぐらぐらと揺れていた。
それから、ユキノは、すっと立ち上がった。
一歩、俺に近づいた。
もう一歩。
湿った薄布一枚の胸もとが、俺の胸に触れそうな距離で、止まった。
「……でしたら、責任を持って、わたしのことも、もっと見てくださる?」
耳もとで、ささやかれた。
「ちょ、待て、近い近い近い!」
今度は、俺が後ずさる番だった。
背中が、壁にぶつかる。
ユキノは、ふふっと笑った。
年上の余裕を取り戻した――と思った瞬間、その体が、ふらりと揺れた。
「……あら。暑くて、頭が、ぼうっとして……わたし、なんだか……」
ずるずると、俺の胸にもたれかかってきた。
やわらかくて、熱くて、甘い香の匂いがした。
「――グロッキー、ですわ……」
言ってから、ユキノは、自分の口を押さえた。
遅かった。
『警告。再校スーツ、本人による廃語の発話を検知。差し替え先が、ありません。……第七層から第十一層まで、強制解除します』
しゅるしゅると、五枚の布が、いっせいにほどけた。色とりどりの文字の粒になって、湯気の中へ舞い上がっていく。
残ったのは、いちばん内側の、薄い白の一枚だけだった。
湿気を吸ったその一枚は、肌にぴったりと張りついて、豊かな胸の丸みも、なだらかなおなかの線も、隠しているのか見せているのか、わからなかった。
それが、俺の胸に、ぴったりくっついていた。
「み、見ないでくださいましっ……!」
「見えねえよ! この距離じゃ!」
「では、見えない距離のまま、離れないでくださいまし!」
「どっちだよ!」
「接触面積、増加中。抗議します」
エルザが、湯気の中から言った。
「わたくしのときより、くっつき方がいやらしいですわ!」
ミヤビが、湯気を噴きながら言った。
「……変態の顔。今日、五回目」
カナが、床板のすきまから言った。
ユキノは、日傘をばっと開いて、自分の前に立てた。日傘の陰から、真っ赤な顔だけがのぞく。
「……今日は、このくらいにしておきましょう。次は、湿気のない日に参りますわね。重ね着も、倍にして」
それから、日傘ごしに、ミヤビのほうを見た。
「綺羅星の三女さん。お姉さまがたには、いつもお世話になっております。……よろしく、お伝えしておきますわね」
ミヤビの湯気が、ぴたりと止まった。
顔から、さっと血の気が引いた。
ユキノは、日傘で全身を隠したまま、ふらふらと路地を出ていった。
☆☆☆
湯気が晴れて、床下からガキどもが顔を出した。
タクトが、灰色の『笑った』の上に、もう一度書いた。
『ワロタ』
ふにゃふにゃのカタカナが、かすかに、光った。
「差し替えは、上書き。だから、書き直せる。……今回は、まだ」
カナが言った。
ガキどもが、いっせいに棒きれを握って、地面に飛びついた。
その夜。床の上に、四人が転がっていた。
ミヤビは湯気を出しすぎて伸びている。
シズカは、乾かない上着を頭からかぶって、壁の隅で丸くなっている。
「……今日の僕のデータ、全部、削除したい。とくに、朝の着地」と、ぶつぶつ言っていた。エルザは、濡れたワンピースの上にカナの白衣を羽織って、膝を抱えていた。
「……全員、グロッキーだな」
エルザが、小さく笑った。
「灰村瓊心。先ほどの発言について。あなたが、私の顔が崩れるのを見て楽しいのなら。……私は、崩れても、いいです」
「……は?」
「記録します。……今のは、記録しないでください」
「どっちだよ」
「……お姉さまがたに、知られましたわ」
ミヤビが、ぐったりしたまま、小さくつぶやいた。
誰も、すぐには返事ができなかった。
とん、と床板が鳴った。
ラジ爺が這い出してきて、戸口の土の上に、満面の笑みで書いた。
『つぎは これ』
『チョメチョメ』
類語の、ない言葉だった。
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