読めない名前【後半】
ルビは、屋根から降りた。
誰も、止められなかった。
路地の行き止まりに、ガキどもの書いた字が、いつものように並んでいる。
『ワロタ』『アウトオブ眼中』ふにゃふにゃのカタカナ。
ルビが、それを読めば、全部、既読になる。
真壁さんの結晶みたいに、少しずつ光を返して、消えていく。
読まなければ、ルビは、読み上げ院に戻される。
一生、知らない誰かの名前を読んで、『はい』を聞くだけの場所に。
「……読まなきゃ」
ルビは、地面の前に立った。
「読まなきゃ、ね。あたし、初校だもん。読むのが、仕事だもん」
目が、真っ赤だった。
「ごめんね。……ごめんね」
『いい子ね』
頭の上で、再校の声が、やさしく言った。
そのとき。
ルビの前に、タクトが、とことこと出てきた。
後ろに、ガキどもが九人、ずらりと並ぶ。
「ルビねえちゃん。こっち」
タクトが、ルビの灰色の袖を引っぱった。
地面の、いちばん奥。看板の陰。
昼間、ガキどもが輪になって隠していた場所だった。
そこに、でっかい字が書いてあった。
九人ぶんの、ふにゃふにゃの字で。
『バイブスアゲ』
その下に、もう一行。
『ルビねえちゃんに あげる』
そのまた下に、小さく。
『よんで いいよ』
ルビの動きが、止まった。
「……なに、これ」
「にいちゃんに、ないしょで、ラジ爺に教わった」
タクトが、小声で言った。
声に出したら、マイクに拾われる。だから、ガキどもは、ずっと、ささやき声だ。
「気分が、すっごく上がるときの言葉なんだって。いちばん新しい死語なんだって」
「……読んだら、死んじゃうんだよ」
ルビの声が、震えた。
「あたしが読んだら、この字、ほんとに死んじゃうんだよ。わかってる? タクトの、チョベリバみたいに――」
「わかってる」
タクトは、うなずいた。
ポケットを、ぎゅっと押さえていた。暗くなりかけた、青い結晶が入っているポケットを。
「だから、あげる。ねえちゃんが読むなら、いい」
ガキどもが、全員、こくこくとうなずいた。
「ねえちゃん、ずっと、ほかの人の名前ばっかり読んでたんでしょ」
いつのまにか、ガキどもは、屋根の上の話を、全部聞いていたらしい。
「だから、これは、ねえちゃんが、ねえちゃんのために読む字」
ルビは、地面の字を見下ろしていた。
肩が、小さく震えていた。
見たものは、読まずにいられない女だ。
「……ばい、ぶす」
声が、しゃくりあげた。
読み上げの声じゃなかった。
番号で呼ばれて、名簿を順番に読んできた声じゃなかった。
自分の気持ちで、自分のために、字を読む声だった。
「――バイブス、アゲッ!!」
桃色の文字が、ルビの口から、はじけた。
花火みたいに、路地いっぱいに広がった。
付箋は――一枚も、出なかった。
『……初校?』
再校の声が、とまどった。
桃色の文字が、ドローンの腹に、まっすぐ吸いこまれた。
『機体、出力上昇。上昇。上昇――』
ドローンが、くるくると回りだした。
止まらない。どんどん速くなる。
『テンション、上昇――制御、不能――』
白い機体は、きりもみしながら、夕焼けの空のてっぺんへ、すっ飛んでいった。
再校の声が、遠ざかりながら、最後に一言だけ言った。
『――あら』
空の、ずっと上で、ぽん、と小さな音がした。
☆☆☆
「付箋が、出てない」
いつのまにか、路地の屋根に、シズカがしゃがんでいた。
目を、まるくしている。
「既読に、なってない。……本気で読んだ字には、ルビが振れないんだ。訳すんじゃなくて、自分の気持ちで読んだから」
「減点は」
「初校の読み上げは、業務の記録になる。減点の対象外。……でも、こんな読み上げ、記録のほうがびっくりしてると思うよ」
ガキどもの『バイブスアゲ』は、地面の上で、まだ、ちゃんと光っていた。
ルビは、それを、ぽかんと見ていた。
それから、ゆっくり、俺のほうを振り返った。
「……ねえ、■心」
涙で、顔がぐしゃぐしゃだった。
「教えて。その■。……今なら、読める気がする」
俺は、棒きれを拾った。
地面に、一画ずつ、書いた。
『瓊』
「けい、だ」
「……知ってる。音は」
「知ってるのと、読めるのは、ちがうんだろ」
ルビが、息をのんだ。
「玉、って意味だ。きれいな、宝石みたいな石。……親父がつけた。玉みたいな心で生きろ、ってさ」
俺は、頭をかいた。
「ゴミ山育ちだけどな」
ルビは、地面の字を見つめた。
チップにじゃなく、自分の目で。自分の気持ちで。
唇が、ゆっくり動いた。
「……けい」
ピーという音は、しなかった。
それから、もう一度。
「はいむら、けいしん」
読めた。
この街で、たったひとつ、ルビが読めなかった字。
「……やっと、読んだな」
「うん」
ルビは、泣きながら、うなずいた。
「読めた。……読めたよ」
俺は、その隣に、もう一つ書いた。
大きく。
『朱鷺羽ルビ』
それから、その上に、小さく、読み仮名を振った。
『ときわ るび』
「……え」
「ルビってのは、本文の横の、ちっちゃい字なんだろ」
俺は、棒きれで、上の小さな字をとんとん叩いた。
「今日は、おまえが本文だ。ルビは、俺が振ってやる」
そして、読んだ。
声に出して。
「朱鷺羽、ルビ」
ルビの顔が、くしゃっと崩れた。
「ときわ、るび!」
タクトが、続けた。
「ルビねえちゃん!」
「ルビねえちゃん!」
ささやき声で、九人ぶん。
マイクに拾われないくらいの、小さな、小さな声で。
それでも、路地じゅうに、ちゃんと聞こえた。
ルビは、地面にしゃがみこんで、自分の名前の上で、声を上げて泣いた。
「……はい」
しゃくりあげながら、ルビは言った。
「はい。……はい……っ」
何百人分の名前を読んできた女が、初めて、自分の名前に、返事をしていた。
「記録します」
エルザが、静かに言った。
目が、少しだけ赤かった。
「朱鷺羽ルビ。……名前を、記録します」
床下の穴から、カナが首を出した。
開けていなかった甘い缶を、ルビの前に、ことりと置く。
「……泣き顔、ダッサ」
それから、小さく付け足した。
「でも、いい名前」
☆☆☆
ルビは、その夜のうちに、上へ戻ると言った。
「あたしがいなくなったら、次は、ユキノさんが来る。……でも、あたしが中にいれば、ちょっとは、先に教えてあげられる」
ルビは、首のリボンを、ぎゅっと結び直した。
「あんたたちの字は、もう読まない。かわりに、上の字を、こっそり読んでくる。あんたたちのために」
「……危ねえぞ」
「平気。あたし、読むの、得意だもん」
ルビは、自分で通信を入れて、上から迎えの小型艇を呼んだ。
それから、タラップへ、自分の足で歩いていった。
途中で、一度だけ、振り返った。
「ねえ、瓊心」
初めて、■じゃない呼び方だった。
「あたしの名前、また、読んでね」
俺は、手を挙げた。
「朱鷺羽ルビ」
ルビは、笑った。
いつもの「ダッサ!」の顔じゃない、いちばんいい顔で。
地面の上で、『バイブスアゲ』と『朱鷺羽ルビ』が、月の光を受けて、並んで光っていた。
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