読めない名前【中盤】
俺は、すぐには答えられなかった。
「……なんで、知ってる」
「読んでたから」
ルビは、膝を抱えたまま言った。
「十四のときから、一年だけ。名簿の、三百十二番。灰村ハナ」
三百十二番。
保管所の職員が、ハナの番号をそう呼んでいたのを、俺は一度だけ聞いたことがある。
「毎朝、読んでた。『灰村ハナ』って。そしたら、『はい』って」
ルビは、少しだけ、笑った。
今日、初めての笑い方だった。
「その子の『はい』だけ、ちがったの。週に一回だけ。ほかの日は、みんなと同じ『はい』なのに、その日の朝だけ、ちょっとだけ、弾むの」
俺の手が、屋根の板を、ぎゅっとつかんだ。
「あたし、意味、わかんなかった。でも、好きだった。毎朝、名簿の三百十二番まで来ると、今日は弾む日かなって、ちょっとだけ、わくわくした」
ルビは、首をかしげた。
「……あれ、なんの日だったの」
声が、出なかった。
喉の奥に、何かが詰まって、息が通らなかった。
「……面会日だ」
やっと、それだけ言った。
「俺が、会いに行く日」
ルビの目が、まるくなった。
五年間。
職員は、気のせいだと言った。ロゴスの記録にも、残っていなかった。
俺にしか、聞こえないと思っていた。
聞こえていたやつが、いた。
毎朝、名簿の三百十二番で、わくわくしていたやつが。
「……そっか」
ルビが、小さく言った。
「あれ、うれしい『はい』だったんだ」
俺は、袖で顔をこすった。
風のせいにした。
「……ハナはさ」
気がつくと、口が勝手に動いていた。
「パンが好きなんだ。三字のやつじゃなくて、五字のやつ。毎週、買っていく。食べられないのに」
「食べられないの?」
「保管所の決まりで、持ちこみは禁止なんだ。だから、見せるだけ。袋のまま。……それでも、毎週、買っていく」
ルビは、黙って聞いていた。
それから、ぽつりと言った。
「三百十二番の『はい』、また、聞きたいな」
「……審査、通ったら、聞かせてやる」
「通らなかったら?」
俺は、答えられなかった。
読み上げ院に戻れば、ルビはまた、毎朝、三百十二番を読むのかもしれない。
弾む「はい」を、名簿越しに聞くのかもしれない。
それが救いなのか、罰なのか、俺には、わからなかった。
少し離れたところで、エルザが、正座したまま、動かなくなっていた。
膝の上の手が、白くなるほど握られている。
「エルザ?」
「……いえ」
エルザは、顔を上げなかった。
「何でも、ありません。……記録、できません。今は」
カナが、屋根の端から、エルザの横顔を、じっと見ていた。
何も言わなかった。
しばらくして、カナは、屋根の端をよじのぼってきた。
エルザの隣に座って、缶を一本、差し出す。
「飲む。顔、白い」
エルザは、缶を受け取った。
両手で、そっと握る。
「……ありがとうございます、黄泉坂カナ」
「カナでいい」
カナは、前を向いたまま言った。
「フルネームで呼ばれると、取り調べみたい」
エルザが、ほんの少しだけ、目を細めた。
「……では。ありがとうございます、カナ」
「うん」
☆☆☆
「十五のとき、養成院に移ったの」
ルビは、話を続けた。
「字がいちばん読めたから、首席。養成院でも、番号だった。十九で、三校。そのとき、初めて名前をもらった」
「朱鷺羽ルビ」
「そう」
ルビは、地面のほうを見下ろした。
「ルビって、知ってる? 字の横に、ちっちゃく振る読み仮名のこと。初校の仕事が、ルビ振りだから、ルビ」
「……仕事の名前かよ」
「うん。本文の横に、ちっちゃくくっついてる字。主役の字が読めない人のために、横から、そっと読み方を教える字」
ルビは、膝の上で、自分の指をからめた。
「あたしの名前は、いつも、誰かの名前の横にあるの。誰かの名前を読むための、字」
「……」
「だから、変なの。あたし、この街の字、全部読めるのに。自分の名前を、誰かに読んでもらったこと、ないの」
それから、ルビは、ちらりと俺を見た。
「で、あんたの■だけ、読めない」
「瓊、か」
「その■。名簿にも、記録にも、全部■。上の辞書に入ってないんだって。あたしの目でも、読めない字」
「音は、知ってるだろ。エルザが毎日、言ってる」
「知ってる。でも、あたしが言おうとすると、口の中で、ピーって消えちゃうの」
ルビは、自分の喉に、指を当てた。
「あたしたちの読み上げは、チップがやるの。目で見た字を、チップが声にする。辞書にない字は、声にならない。だから、■」
ルビは、ふてくされたみたいに言った。
「悔しくて、最初の夜、寝られなかった。……でも、ほんとはね」
声が、小さくなった。
「読めない字があるの、ちょっと、うれしかった。誰の横にもくっつけない字が、この街に、ひとつだけあるんだって」
ルビは、膝に顎をのせた。
「読み上げ院に戻ったら、もう、ここには来られない。……あたし、ここ、ちょっと好きだった」
「ちょっと、か」
「ちょっと。……ううん。けっこう」
そのときだった。
ドローンの羽音がした。
路地の屋根の上に、白い卵形の機体が浮かんでいた。この前の監査機より、さらに大きい。
腹のスピーカーから、やわらかい女の声が流れた。
『初校。見つけました』
ルビの肩が、びくっと跳ねた。
『審査は、前倒しになりました。今すぐ、お戻りなさい。……それと、もうひとつ』
声は、とても、やさしかった。
『最後のお仕事。その路地に書いてある字を、全部読んでから、帰っていらっしゃい。そうしたら、読み上げ院の話は、なかったことにしてあげます』
声は、くすりと笑った。
『観測不能、って便利な言葉ね。でも、わたしの耳には、ちゃんと子どもの笑い声が届いていたわ。……かわいい字ばかりね。きれいに読んで、きれいに終わらせてあげて』
再校の声だった。
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