読めない名前【前半】
ルビが、二日来なかった。
「本日も、朱鷺羽ルビの来訪は、ありません」
朝、床の上で正座したエルザが報告した。
「不在、二日目。記録します」
「いちいち記録すんな」
「記録します。……少しだけ心配です、とも」
エルザは、自分の言葉に、自分で少し驚いた顔をした。
床板が、五センチ持ち上がった。
「静かでいい」
カナだった。缶コーヒーを、ずずっとすする。
「床の下に人がいる、とか、ダッサ、とか、言われない。快適」
そう言いながら、カナの目は、ずっと戸口のほうを見ていた。
三本目の缶が、開けられないまま、床下に並んでいるのが見えた。
甘いやつだった。
「では、初校の不在による語彙の欠損を、私が補います」
エルザが、なぜか背筋を伸ばした。
「……ダッサ」
「似てない」
カナが、即答した。
「抑揚が、ゼロ。あの子のは、もっと、うるさい」
「練習します」
「すんな」
真壁さんは、面会の翌朝、上の街へ帰っていった。
灰色の小石を、内ポケットに大事にしまって。
「来週も、面会に来ます。……そのときは、お湯を、いただきに寄ります」
そう言って、深く頭を下げていった。
☆☆☆
昼、路地の行き止まりで、ガキどもが輪になっていた。
いつもと様子がちがう。授業の前なのに、誰も俺を呼ばない。
タクトを真ん中に、九人が額を寄せ合って、ひそひそ話をしている。
「何やってんだ」
「にいちゃんは、来ちゃだめ!」
タクトが、両手を広げて通せんぼした。
「ないしょ!」
「ないしょって、おまえ」
輪のはしで、ラジ爺が地面に書いた。
『おとなは あっち』
追い出された。
ラジ爺も大人だろ、と思ったが、爺さんは輪の中で、得意げに腕を組んでいた。
しばらくして、タクトが、こそこそと戸口にやってきた。
「……にいちゃん。ひとつだけ、聞いていい?」
「ないしょじゃなかったのか」
「これは、ないしょの、外がわ」
意味がわからなかった。
「ルビって、どういう意味?」
「字の横に、ちっちゃく振る読み仮名のことだ。難しい漢字が読めないやつのために、読み方を横に書いておく」
タクトは、少し考えてから、こくりとうなずいた。
「……やっぱり」
それだけ言って、輪に戻っていった。
何が、やっぱり、なのか。俺には、さっぱりわからなかった。
しかたなく戸口に戻ると、エルザが首をかしげた。
「子どもたちは、何を」
「知らねえ。俺は締め出された」
「……私もです。先ほど、『エルザねえちゃんも、だめ』と言われました」
エルザは、少しだけ、しょんぼりしていた。
「疎外感、と記録します」
☆☆☆
夕方。
路地の入り口に、人影が立った。
最初は、誰だかわからなかった。
灰色の、飾りのない上下。
付箋は一枚もない。光るものも、何もない。
赤いツインテールだけが、夕日の中で、いつもの色をしていた。
目は、赤く腫れていた。
エルザのリボンは、目隠しじゃなく、首に巻いてあった。
「……よ」
朱鷺羽ルビは、小さく手を挙げた。
いつもの「ダッサ!」も、「ねえ聞いて!」も、なかった。
「スーツ、取り上げられちゃった」
ルビは、自分の灰色の袖を、つまんでみせた。
「報告書、『観測不能』ばっかりだったから。……再校に、ばれた。三日後に、本部で審査だって」
「審査で、どうなる」
「たぶん、三校から外される。それで――」
ルビは、笑おうとして、失敗した。
「読み上げ院に、戻される」
「読み上げ院?」
「あたしが、育ったとこ」
ルビは、屋根を見上げた。
「……ねえ。屋根、上がっていい? ちょっとだけ、話、したい」
路地の奥で、ガキどもの輪が、ぴたりと静かになった。
九つの頭が、看板の陰から、こっちをのぞいている。
ルビは、それに気づかないまま、はしごに手をかけた。
☆☆☆
屋根の上は、風があった。
ルビは、膝を抱えて座った。
エルザが、少し離れて正座する。
カナは、屋根の端から、首だけ出していた。
「読み上げ院ってね、字がすごく読める子を、集めるとこなの」
ルビは、遠くの保管所の、四角い影を見ていた。
「六歳から、十五歳まで。あたし、毎朝、ああいう建物に通ってた。保管所の、点呼係」
「点呼」
「ドールの人たちの名前を、読み上げるの。毎朝、何百人も。名簿の上から順番に」
「六歳で、か」
「うん。演台に手が届かないから、木の箱に乗って読むの。冬の朝は、足が冷たくて、箱の上で、ずっと足踏みしてた」
ルビは、自分のつま先を見た。
「ほめられるのは、速さだけ。三番、速い。三番、正確。……それだけ」
ルビは、指を一本ずつ折るみたいにした。
「名前を読むとね、みんな、『はい』って言うの。何百人分の、『はい』」
風が、ツインテールを揺らした。
「あたし、それしか、したことなかった。毎朝、知らない人の名前を読んで、『はい』を聞いて、帰るの」
「……おまえの名前は」
「呼ばれたこと、ない」
ルビは、あっさり言った。
「読み上げ係は、番号なの。あたし、三番。三番、読め。三番、次。……ずっと、それ」
ルビは、首のリボンの端を、指でいじった。
「別に、ふつうだと思ってた。名前なんて、なくても困らないし。……ここに来るまで」
「ここ?」
「あんたんち、みんな、名前で呼ぶじゃん。灰村■心、とか、カナ、とか。いちいち。うるさいくらい」
ルビは、少しだけ口をとがらせた。
「あれ、ずるい。聞いてると、なんか、胸のへんが、ぎゅってなるの」
エルザが、正座したまま、そっと目を伏せた。
フルネームで呼ぶ癖の、いちばんの常習犯だった。
それから、ルビは、ふっと黙った。
保管所の影を、じっと見ている。
「……ねえ、■心」
「なんだ」
「あんたの妹って、さ」
ルビの声が、少しだけ、震えた。
「――灰村、ハナ?」
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