微レ存【後半】
夜。
俺たちは、屋根の上に座っていた。
真壁さんと、俺と、エルザ。
少し離れて、ルビ。
下層区の屋根からは、上の街の明かりが、よく見える。
真壁さんの家は、あの光のどこかにあるんだろう。
真壁さんの手の中で、結晶は、もう、ほとんど光っていなかった。
蛍が、最後に一回だけ点くみたいな、弱い緑。
「灰村さんにも、ご家族が?」
真壁さんが、ぽつりと聞いた。
「妹が。同じ保管所に」
「……そうですか」
「俺が教えた言葉で、校正された」
言ってから、自分で驚いた。
この話を、誰かに自分から言ったのは、初めてだった。
真壁さんは、何も言わなかった。
ただ、ゆっくり、一回だけうなずいた。
それで、十分だった。
同じ重さを持っている人間のうなずき方だった。
エルザが、俺の横で、膝を抱えた。その指先が、かすかに震えていた。
「灰村さん」
真壁さんが言った。
「ほとんど無いけれど、無いわけじゃない。……そういうものを言う言葉は、ありませんか」
俺は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「微レ存」
「びれぞん」
「微粒子レベルで、存在している。二〇〇〇年代の、ネットの言葉だ」
俺は、指で、屋根の板に字を書いた。
「可能性は、ほぼゼロ。でも、ゼロじゃない。……正直、ほとんど冗談の言葉だ。ありえない話を、ありえないって言いたくない奴が、笑いながら使った」
「冗談で、いいです」
真壁さんは、結晶を見たまま言った。
「冗談でもいいから、ゼロじゃないと、言いたい」
少し離れたところで、ルビが、膝に顔をうずめた。
真壁さんは、結晶を、耳に当てた。
俺たちにも聞こえるように、少しだけ、手を離した。
かすかな音がした。
雨だれより、小さな音。
『――おとうさん、キタコレ!』
女の子の声だった。
弾んでいて、まるっこくて、世界でいちばんうれしいことが起きたみたいな声だった。
それきり、何も聞こえなくなった。
緑の光が、すうっと、消えた。
真壁さんの手のひらに、ただの、灰色の小石が残った。
真壁さんは、それを、長いこと見ていた。
それから、息を吸った。
「――微レ存ッ!!」
四十六歳の、中層区の係長の、本気の叫びだった。
「ユイは、まだ、いる! 微粒子レベルで、まだ、いるッ!!」
金色の文字が、真壁さんの口から、あふれた。
『微レ存』
文字は、夜空へ、まっすぐ昇っていった。
壊す機械も、ほどくスーツも、そこにはなかった。
届く先は、どこにもなかった。
金色の字は、上の街の明かりの手前で、ほろほろと、ほどけて消えた。
何も、起きなかった。
屋根の下、開けっぱなしの戸口から、小さな声がした。
「……誤検知」
カナだった。
「一日一回。今日の分。……その人の減点、なかったことにした」
「おまえ、足がつくぞ」
「いい」
カナは、それだけ言って、家の中へ引っこんだ。
真壁さんは、灰色の小石を握りしめて、肩を震わせていた。
泣いているのか、笑っているのか、わからなかった。
「……言えました」
かすれた声で、真壁さんは言った。
「三年ぶりに。本気で、何かを」
ルビが、屋根の端から、のろのろと近づいてきた。
「……ごめんなさい」
真壁さんは、首を横に振った。
「最後の声を、ちゃんと聞けました。あの子の声を、一緒に聞いてくれる人が、今夜は何人もいた。……あなたも、その一人です」
ルビは、唇を噛んだ。
それから、子どもみたいに、声を上げて泣いた。
☆☆☆
翌日は、週に一度の面会日だった。
保管所の面会室は、いつ来ても、消毒液と、何もないにおいがする。
俺の隣のテーブルに、真壁さんが座った。
向かいには、十二歳くらいの女の子。
きれいに揃えた膝。まっすぐな目。
ハナと、同じ座り方だった。
右の頬に、えくぼは、なかった。
笑わない顔には、えくぼは出ない。
「ユイ。昨日ね、おとうさん、ユイの声を聞いたよ」
「はい」
「キタコレ、って言ってた。すごく、うれしそうだった」
「はい」
「おとうさんも、言ったよ。大きな声で。……ごめんね。それと、ありがとう」
「はい」
同じ「はい」が、三回続いた。
俺には、違いがわからなかった。
俺のほうのテーブルで、ハナが、俺を見ていた。
「よう、ハナ」
「はい」
いつもの「はい」だった。ほんの少しだけ、弾む「はい」。
「昨日、新しい言葉を覚えた。微レ存っていうんだ。ほとんど無いけど、無いわけじゃない、って意味」
「はい」
「おまえの言葉も、たぶん、そうだ」
「はい」
「……それだけ」
「はい」
ハナのチョベリバも、どこかで結晶になって、この街に降ったんだろうか。
考えたことは、何度もある。
探したことは、一度もない。
見つけたら、きっと、いつか消えるのを、見ることになるからだ。
「灰村くん」
面会室の入り口に、シズカが立っていた。
耳もとに、指を当てている。
「あの子の、三回目の『はい』」
シズカは、ユイのほうを、目で示した。
「〇・二半音、上がった。……記録の解像度じゃ、拾えない。でも、僕の耳には、聞こえた」
真壁さんが、振り返った。
シズカは、少しだけ笑った。
「微粒子レベルだけどね」
保管所の外では、ルビが待っていた。
中には、入れなかったらしい。目隠しのリボンを、首に巻いていた。
「……あたしね」
帰り道、ルビが、ぽつりと言った。
「ちっちゃいころ、こういう建物で、名前を読み上げる係だったの。毎朝、何百人も」
「……」
「だから、字が読めるの。……でも、あたしの名前は」
ルビは、首のリボンを、ぎゅっと握った。
「誰かに読んでもらったこと、一回も、ないかも」
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