微レ存【中盤】
「ねえ、聞いて! 今日ね、上に報告書出したら、『観測不能』って書いたら一発で通ったの! あれ、すごい便利!」
昼前、ルビがドローンから飛び降りてきた。
目には、昨日のエルザのリボンを巻いている。
自分で巻いてきたらしい。ちょっと斜めだった。
「目隠し、してきた! これなら、字、読まないでしょ! あたし、えらくない!?」
両手には、上の街の紙袋。
「あと、差し入れ! 上の街の飴! 包み紙の字、読まないように、目隠ししたまま買ってきたの! 店員さん、すごい顔してた!」
「……ああ。えらいよ」
俺の声に、ルビの口が止まった。
「……なに。なんか、あった?」
「ちょっと、こっち来い」
家の中では、真壁さんが、まだテーブルの前に座っていた。
一晩中、結晶を握ったまま、起きていたらしい。
「この人の、娘さんの声だ」
俺は、ルビの手を取って、結晶の上に置いた。
「目隠し、取っていい。読んでいいから、聞け」
ルビは、少し迷ってから、リボンをずらした。
結晶を見る。
見たものは、読まずにいられない女だ。
「……き、た、これ」
読んだ瞬間、ルビの顔から、色が抜けた。
「これ、あたしが……」
「あの日、あんたが読んだ言葉だ」
「で、でも」
ルビは、結晶から手を離そうとした。離せなかった。
「でも、あたし、読んだだけだよ。仕事だもん。読めない字に読み方を振って、わかんない言葉に意味を振るの。それが、あたしの仕事で、それだけで……」
声が、どんどん小さくなっていく。
「誰かの、娘の声とか、そんなの、付箋には書いてないもん……」
「お嬢さん」
真壁さんが、静かに言った。
「あなたのせいでは、ありません」
ルビが、顔を上げた。
「娘にこの言葉を教えたのは、私です。娘を校正させたのは、私です。あなたは、ただ、残っていたものを、読んだだけだ」
責める声では、なかった。
だからこそ、ルビは、泣きそうな顔になった。
「……ずるい」
小さく、それだけ言った。
「怒ってくれたら、言い返せるのに」
それから、ルビは、自分の両手を見た。
「……ねえ、剥がせないの」
宙を、引っかくみたいにする。
「あたしの付箋。あたしが振ったルビ。剥がして、読む前に戻して。……ねえ、誰か、やり方、知らないの」
誰も、答えなかった。
読んだものは、読まなかったことにはならない。
この街で、それを一番よく知っているのは、たぶん、ルビ本人だった。
☆☆☆
俺たちは、できることを全部試した。
シズカを呼んだ。
白と灰色のスーツで、路地の屋根から降りてきたシズカは、結晶を三分間、黙って調べた。
「輝度、九パーセント。減衰の速度は、一時間に〇・四パーセント」
端末を閉じる。
「消えるのは、今夜、九時前後」
そう言ってから、シズカは、口を開きかけた。
「その語源は――」
言いかけて、自分で止めた。
「……今、語源を聞くのは、ちがうね」
「既読化は、ロゴスの辞書への登録だ。登録の取り消しは、ロゴス本体にしかできない。……ごめん。僕には、何もできない」
ミヤビは、外套のまま駆けつけてきた。
「綺羅星家の研究所なら――」
言いかけて、自分で首を振った。
「……研究所は、言葉を消す研究しか、していませんわ」
ミヤビは、戸口の外のルビの隣に、黙って腰をおろした。
上層区の女が二人、下層区の泥の上に並んで座っている。
「わたくしたち、ずっと、消す側でしたのね」
ルビは、答えなかった。
俺は、地面に何十回も「キタコレ」と書いた。
本気で叫べば、結晶に何か届くかもしれないと思った。
「キタコレッ!!」
緑の文字が、口から出た。
いつもより、軽かった。
空中で、ふらふらと揺れて、三秒で消えた。
既読の言葉は、もう、俺の中でも、半分死んでいた。
「……くそ」
エルザが、俺の横に座った。
「灰村瓊心」
「なんだよ」
「私も、そうでした」
エルザは、膝の上で、指をきつく組んでいた。
「訂正していたころ。私は、訳しただけでした。言葉の意味を、標準語に置き換えただけ。誰の言葉なのか、どんな顔で言ったのか、一度も、考えなかった」
エルザの指が、白くなるほど、きつく組まれていた。
「初校の気持ちが、わかります。……わかってしまうのが、とても、いやです」
いつもの、記録します、は出てこなかった。
カナが、床下から、缶コーヒーを一本差し出した。
エルザにではなく、戸口の外で膝を抱えているルビに。
「飲む?」
「……苦いのやだ」
「甘いやつ。一本しかない」
ルビは、受け取った。
飲まずに、両手で握りしめていた。
午後、ガキどもがやってきた。
タクトが、ポケットから、自分の結晶を出した。
あの日に読まれた、青いチョベリバ。
光は、あの日より、また少し暗くなっていた。
「にいちゃん。おれのも、いつか、消える?」
俺は、答えられなかった。
うそをつけば、タクトはたぶん、信じる。
だから、うそは、つけなかった。
タクトは、それ以上、聞かなかった。
結晶を両手で包んで、ポケットに戻した。
ほかのガキどもも、黙って、自分のポケットを押さえていた。
輪のはしで、ラジ爺が、地面に指を走らせた。
『きいて やれ』
それから、もう一行。
『きえるまで ちゃんと』
ラジ爺は、チップのせいで、古い言葉を口にできない。
元ラジオDJなのに、もう何十年も、声で誰かに語りかけたことがない。
だから、その字は、どんな叫びより重かった。
夕方になっても、結晶の光は、戻らなかった。
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