微レ存【前半】
「お客様ですね」
エルザが、すっと立ち上がった。
縮んだ白衣の背筋が、ぴんと伸びる。
「来客の記録をとります。お名前、スコア、本日の目的を」
「取り調べすんな」
「中層区の靴。高いやつ」
床板のすきまから、カナが言った。
「一足で、缶コーヒー三百本」
「値踏みもすんな」
男は、戸口で困ったように笑った。
笑い方が、上手ではなかった。
男は、真壁と名乗った。
中層区の、物流会社の係長。四十六歳。
顔を隠していた布を外すと、どこにでもいそうな、くたびれた父親の顔が出てきた。
「スコアは、四百十二です」
エルザに聞かれる前に、自分から言った。
「三年前までは、六百八十ありました。娘のことがあってから、毎月、少しずつ」
下層区に落ちる一歩手前の数字だった。
この人は、それを承知で、毎週、下層区に通ってきている。
「お茶を、どうぞ」
エルザが、空き缶に湯を注いで差し出した。
「下層区の標準的な、おもてなしです。茶葉はありません」
「……お湯ですね」
「お湯です」
真壁さんは、少しだけ笑った。
それから、缶を両手で包んだまま、話し始めた。
「三年前、娘が校正されました。ユイ。当時、九歳でした」
床下で、カナが缶を置く音がした。
「給食に、好物の揚げパンが出た日だったそうです。娘は、うれしくて、教室で言ったんです」
真壁さんは、手のひらの結晶を見下ろした。
「『キタコレ』と」
子どもの仮スコアは五百。死語ひとつで、マイナス五百。
その日のうちに、ゼロだ。
「絵を描くのが好きな子でした。笑うと、右の頬にだけ、えくぼができて」
真壁さんは、自分の右の頬を、指でそっと押さえた。
「その日の朝も、行ってきます、って、手を振って出ていきました」
「あの言葉を、娘に教えたのは、私です」
真壁さんの声は、静かだった。
何百回も、自分の中で繰り返してきた声だった。
「若いころから、こっそり残響屋に通っていました。ある晩、酒に酔って、娘が百点の答案を見せてくれたときに……ふざけて、言ったんです。『キタコレ』と」
娘は、目をまんまるにして笑ったという。
「なにそれ、おとうさん、もう一回、って」
俺は、何も言えなかった。
知っている話だった。
細かいところが違うだけで、全部、知っている話だった。
十四歳の俺が、拾った言葉を冗談で妹に教えた。
妹は、その言葉を、外で言った。
それから先のことは、今でも、うまく思い出せない。
思い出さないように、五年間、ずっと気をつけてきた。
☆☆☆
「娘は今、下層区の北の保管所にいます」
真壁さんは続けた。
「週に一度、面会に来ています。ユイは、『はい』と『いいえ』と『了解しました』しか、言いません」
俺の妹と、同じ建物だ。
同じ面会室の、どこかの椅子に、この人の娘も座っている。
「半年前、残響屋で、この結晶に触れました」
真壁さんは、結晶を、そっとテーブルに置いた。
緑色の、小指の先ほどの粒。
光は、ろうそくの燃えさしみたいに弱かった。
「娘の声でした」
「……結晶に、本人の声が?」
「校正された子どもの言葉は、結晶になって、下に降る。残響屋の主人が、そう教えてくれました」
床下で、缶をすする音が、ぴたりと止まった。
カナは、何も言わなかった。
「三年間、毎週、何百個も触らせてもらって、半年前に、やっと見つけたんです。全財産で買いました。それから毎晩、これを耳に当てて寝ています」
真壁さんは、結晶を耳に当てた。
目を閉じる。
しばらくして、ほんの少しだけ、口もとがゆるんだ。
「……まだ、聞こえます。小さいけれど」
それから、目を開けた。
「でも、三日前から、急に暗くなったんです。一晩で、半分くらいに」
三日前。
ルビが、ガキどもの字を、片っぱしから読み上げた日だ。
『キタコレ《まちのぞんだものがきた》』
あの付箋を、俺は見ていた。
一瞬だけ、ルビを怒鳴りつけたい気持ちが、腹の底で湧いた。
すぐに、しぼんだ。
あいつは、読んだだけだ。
五年前の俺が、妹の前で、チョベリバと言っただけだったのと、同じで。
「灰村瓊心」
エルザの声が、少しだけ硬かった。
「既読です」
「……ああ」
「既読になった言葉は、ロゴスの辞書に戻ります。辞書に戻った言葉は、もう、結晶でいる理由がありません」
エルザは、言葉を選ぶみたいに、一拍おいた。
「この街のすべての『キタコレ』の結晶が、少しずつ、光を返しています。……この結晶は、もともと弱っていました。たぶん、いちばん先に、消えます」
「どれくらいで」
床板が、五センチ持ち上がった。
カナが、結晶をじっと見ていた。
「明日の夜」
平坦な声だった。
いつもより、少しだけ、平坦すぎた。
真壁さんは、うなずいた。驚かなかった。たぶん、ここへ来る前から、わかっていたんだろう。
「直せませんか」
それでも、聞いた。
「何でもします。お金は、もうありませんが……何でも」
俺は、結晶を見た。
俺の在庫にも、キタコレがある。あれも、もう軽い。
何か、方法はないのか。
言葉を戻す言葉は、ないのか。
「……一晩、考えさせてください」
それしか、言えなかった。
真壁さんは、その夜、うちの床の上で眠った。
エルザが、自分の毛布をそっとかけていた。
「来客の記録。……目的の欄は、空けておきます」
小さな声で、エルザはそう言った。
俺は、朝まで、天井を見ていた。
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