アウトオブ眼中【後半】
「ガキども、床下だ!」
俺の声で、角の向こうの空き地にいた九人が、いっせいに駆け戻ってきた。
カナが開けた床板の穴へ、次々と飛びこんでいく。
三日前に覚えた動きだ。
最後のタクトが、看板のほうを振り返った。
「にいちゃん、字が……」
「いい。俺が消す」
間に合わなかった。
路地の屋根の上に、白い卵形のドローンが、音もなく浮かんでいた。
三日前のより、一回り大きい。腹に、赤い単眼のレンズがひとつ。
『校閲局、監査機です。初校、朱鷺羽ルビ。偵察記録を確認します。……本日の既読件数、ゼロ』
ルビの肩が、びくりと跳ねた。
『職務怠慢の疑い。三校の規定により、初校を本部へ召還します。
また、周辺に未登録の廃語の反応。記録を開始します』
赤いレンズが、地面に向いた。
ガキどもが書いた、ふにゃふにゃのカタカナに。
あれを記録されたら、ここは終わりだ。
俺が口を開くより、早かった。
「お、お待ちなさい!」
ミヤビが、ドローンの真下に飛び出していた。
透けかけたスーツのまま。
外套も、着ていない。
『照合。綺羅星家、三女。綺羅星ミヤビ。スコア九百三十一』
「そうですわ! 上層区のエリートですわ! わたくしは、たまたま通りかかっただけですの!」
膝が、がくがく震えているのが、ここからでも見えた。
「こんな、汚くて、狭くて、ダサい店など――」
ミヤビは、ぎゅっと目をつぶった。
ほんの一瞬だけ、俺のほうを見た。
「――わたくしの、アウトオブ眼中ですわっ!!」
金色の文字が、あふれた。
うそだった。
全部、うそだった。
気になって、気になって、どうしようもない奴の、精いっぱいの強がり。
だから、本気だった。
赤いレンズが、ちかちかと点滅した。
『……対象を、視認できません。店舗、確認できず。廃語の反応、確認できず。……対象は、眼中に、ありません。初校の偵察記録を、観測不能として受理します』
白いドローンは、くるりと向きを変えて、空へ帰っていった。
☆☆☆
『警告』
今度は、ミヤビのスーツが鳴った。
『未登録の廃語を、本人が本気で発話。感情値、上限を大幅に超過。――《玲瓏》、強制解除します』
「えっ、ちょ、待っ――」
真珠色のスーツが、ほどけた。
体に沿っていた生地が、ひと文字ずつ金色の粒になって、昼の空へ舞い上がっていく。
ミヤビは、まだドローンの消えた空を見上げていた。
「……やりましたわ。わたくし、守りましたわ……!」
胸の前で、両手を組む。その手の下に、もう、真珠色はなかった。
昼の風が、白い肌をなでた。
「……あら? なんだか、背中が、すうすう――」
残っていたのは、金色のレースの下着だけだった。
豊かな胸を包む、花模様のレース。白い肌の上で、細い肩ひもがきらきら光っている。すらりと長い脚。くびれた腰の、小さなリボン。
ミヤビは、自分の体を見下ろした。それから、俺の視線の先を目でなぞって――腰のリボンのすぐ横で、止まった。
金糸の刺繍が、あった。
『綺羅星』
「下着にまで刺繍してんのか!!」
「きゃあああああああですわーーーーっ!!」
ミヤビは、布を探して走り出した。
干してある毛布。届かない。
カナの白衣。床下に引っこんだ。
看板。
小さい。走り回るたびに、金色のレースが、あっちこっちから丸見えになった。
「見ないでくださいまし! き、今日のは、勝負用ですのに……っ、あ、いえ、なんでもありませんわ!!」
「勝負用ってなんだよ!」
「聞かないでくださいましいいっ!!」
走り回ったあげく、ミヤビは、俺に正面から飛びついてきた。
「なんで来るんだよ!?」
「くっついていれば、見えませんでしょう!?」
理屈は、合っていた。
そのかわり、いろいろなものが、ぴったり当たっていた。柔らかくて、あたたかくて、ものすごく心臓に悪いものが、俺の胸に押しつけられている。
腕の中で、ミヤビが小さく震えていた。
真っ赤な顔で、涙目で、それでも俺のジャージを、ぎゅっとつかんで離さない。
いつもは高飛車に巻き毛を揺らしている女の、本気で崩れた顔。
……いい。すげえ、いい。
「接触面積が、私より広いです。抗議します」
すぐ横で、エルザが言った。
「顔。三回目」
床板のすきまから、カナが言った。
目隠しのルビが、そろそろとリボンをずらした。
片目だけで、ミヤビの腰を見る。
「き、きらぼし……下着にも……。……ダッサ!!」
「読まないでくださいましいいいっ!!」
カナの手が、床下から、予備の白衣を差し出した。
ミヤビが袖を通すと、丈が、おへその上で終わっていた。
「……本日を、記念日に指定いたしますわ」
白衣のすそを必死で引っぱりながら、ミヤビが、ぼそっと言った。
「何の記念日だよ」
「み、見られた日、ですわ!」
☆☆☆
「……なあ。アウトオブ眼中って、眼中にありまくりの奴が言う言葉だぞ」
ミヤビの動きが、止まった。そっぽを向く。
「……ええ。ありまくり、ですわ」
金色の巻き毛のすきまから、真っ赤な耳が見えた。
「わたくしの眼中には、ずっと、あなたしか入っていませんわ」
俺は、何も言えなかった。
腕の中に、まだ、さっきのぬくもりが残っている。
「お、お返事は、結構ですわ」
ミヤビが、白衣のすそを握りしめたまま、早口で言った。
「今日は、まだ。……でも、いつか、眼中に入れていただきますわ」
「記録します。宣戦布告」
エルザが、手帳もないのに背筋を伸ばした。
それから、俺の袖を、指先でちょんとつまんだ。
「……私も、布告します。負けません」
「あたしも! よくわかんないけど、負けない!」
目隠しをずらしたルビが、意味もわからず手を挙げた。
夕方、ルビは目隠しのリボンをぎゅっと握って、ドローンに乗った。
「これ、借りとく! 明日も来るから! あんたのことなんか、アウトオブ眼中だから!」
「眼中にありまくりじゃねえか」
「……っ、ダッサ!! ……あと、かわいいって言ったの、忘れないから!」
その夜。床の上で、エルザが正座していた。
「本日、嫉妬を三回、記録しました。増加傾向です。対策として、今夜は、あなたの隣で寝ることを申請します」
「却下」
答えたのは、床下だった。
「床、薄いから。全部、聞こえてる」
とん、とん。
戸が、二回、叩かれた。
礼儀正しいノック。
下層区には、ないはずの音。
戸を開けると、上等な灰色のコートの男が立っていた。
前に、結晶の市の列で、結晶を握って泣いていた男だった。男の手の中で、結晶が、今にも消えそうに光っていた。
「夜分に、すみません。……娘の声が、消えかけているんです」
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