アウトオブ眼中【前半】
「洗ってないから!」
夜明け前に戸を叩いたのは、赤いツインテールだった。
朱鷺羽ルビ。
校閲局、三校の一人。
初校。
三日前、俺の店の前で「ギャフン」と叫んで、付箋のスーツを全部なくした女だ。
今日は、新しい白と朱のスーツを着ていた。
肩から裾まで、また光の付箋がびっしり貼りついている。
その両手に、たたんだジャージが乗っていた。
胸に、金糸で「綺羅星」俺のジャージだ。
「……返しに来たのか」
「そう! 返しに来ただけ! で、洗ってないから!」
「なんで二回言うんだよ」
「べ、別に、においが落ちるのがもったいないとかじゃないから! 三日間、寝るときに着てたとかじゃないから! あと、今日、かわいいの着てきたとかでもないから!」
聞いてない情報が、全部出た。
「……何をだよ」
「何って、し、下着――」
ルビは、そこで自分の口を両手でふさいだ。
耳の先から、首まで、みるみる赤くなっていく。
三日前、去り際に叫んでいた。
次は、もっとかわいいの着てくるから。
本当に、着てきたらしい。
「灰村瓊心」
背中で、静かな声がした。
エルザ・ノルムが、床の上に正座していた。
縮んだ白衣の胸もとに、安全ピンが一本。
「三日間、就寝時に着用。本日、かわいいものを着用。記録します」
「記録すんなああっ!」
「次は、私の番です」
エルザは、まっすぐ手を挙げた。
「ジャージの着用について、順番を申請します」
「順番なら、私が先」
床板が、ことりと五センチ持ち上がった。
隙間から、クマのひどい目がのぞく。
黄泉坂カナ。
この家の床下の住人だ。
「私は、半年前から、洗濯の前に一回着てる」
「おまえ、そんなことしてたのか!?」
「してた。私の方が、先に見つけたのに」
俺のジャージは、いつのまにか共有財産になっていた。
☆☆☆
「で。本当は、何しに来た」
ルビは、ぎゅっと唇を結んで、大きく息を吸った。
「あたし、今日から、ここの生徒になる」
「は?」
「あんたが書いた字。『orz』とか、『ギャフン』とか。読めるの。全部、読めるのに……わかんないの。あんなに体が勝手に動いて、あんなに声が出たのに、なんでなのか、わかんない」
悔しそうな顔だった。
「読めるのにわかんない字なんて、生まれて初めて。……だから、教えて」
「上には、なんて言ってんだ」
「偵察。毎日、店を見張って報告するって」
「三校がいるあいだ、ロゴスは光を落とさない。……つまり、用心棒」
床下から、カナが言った。
なるほど。
こいつが店にいるあいだは、ガキどもが粛清の光に怯えなくていい。
「わかった。ただし、ガキどもの書いた字は、読むな」
「無理。目に入ったら、読んじゃうもん」
即答だった。それが、こいつの一番の問題だった。
ルビは、きょろきょろと部屋を見回した。
「ゆか。かべ。あきかん。あきかん。あきかん。……ねえ、なんで空き缶こんなにあんの」
「私の」
「床の下に人がいる!? ダッサ! ……ちょっと、うらやましい」
「あげない。ここは、私の席」
カナは床板を閉める直前、ルビをじろりとにらんだ。新しい生徒は、床下の先輩に、さっそく目をつけられていた。
☆☆☆
とりあえず、店を開ける準備だ。
俺は、裏の共同ポンプまで水をくみに出た。
バケツを二つ下げて戻る。
家の裏手には、布を一枚垂らしただけの水場がある。下層区の、風呂のかわりだ。
バケツを置こうと、俺は布をめくった。
「おかえりなさい、灰村瓊心」
エルザがいた。
水場の真ん中に膝をついて、こっちを向いていた。
何も着ていなかった。
濡れた銀髪が、白い肩から胸の前へ、ぺったりと張りついている。
腰のくびれを、水のしずくが一本、ゆっくり伝っていく。
長い髪と、とっさに上がった片腕が、胸の真ん中だけを、かろうじて隠していた。
隠しきれていない、やわらかそうなふくらみの輪郭が、朝の光の中で白く光っていた。
「水浴びをしていました。上層区の規定では、起床後三十分以内に身体を――」
エルザは、いつもの声で説明しようとした。
そこで、止まった。
俺を見る。自分を見る。
もう一度、俺を見る。
悲鳴は、出なかった。
かわりに、無表情のまま、首から、耳から、胸もとまで、じわじわと赤くなっていった。
「……状況を、報告します」
両腕で、胸を抱いた。
抱いた腕に押されて、胸のふくらみが寄せられ、谷間が、かえって深くなった。
「状況を……」
エルザは自分の腕の中を見下ろして、それに気づいた。
あわてて体をひねる。
今度は、背骨から腰へ続く、なめらかな背中の線が、まるごとこっちを向いた。
「……報告、できません」
エルザは、水の中にしゃがみこんだ。
水面から、真っ赤な肩と、真っ赤な耳だけが出ている。
「上層区には、『恥ずかしい』という規定がありませんでした。……今、自分で登録しました」
声が、震えていた。
「発生条件は……灰村瓊心に、見られたとき、です」
そんな登録、するな。
上層区の完璧な治安官が、水場の隅で、耳まで真っ赤にして縮こまっている。
いい顔だった。
――いや、待て。
今それを考えるのは、人として最低だ、俺。
「見たら、缶」
後頭部に、ごん、と硬いものが当たった。
中身入りの空き缶だった。
振り向くと、裏口から上半身を出したカナが、二本目を構えていた。
「見てねえ!」
「見てた。四秒。あと、顔。一回目」
エルザが、水をすくって、俺の顔にばしゃりとかけた。
「……このスケベッ! 見た部位と秒数を、書面で提出してください!」
「書けるか!」
俺の背中から、ルビがひょいとのぞきこんでいた。
目に入ったものは、読まずにいられない女だ。
「えっと……ぎん、ぱつ。しろ、い、せな――」
「読むなああっ!!」
俺は反射で、ルビの目を手のひらでふさいだ。
「……っ」
手の下で、ルビのまつげが、ぱちぱちと動いた。
「……あんたの手、あったかい。あと、字が、見えない」
なぜか、ルビの声が小さくなった。耳が赤い。
☆☆☆
朝飯の干し芋を、四人で囲んだ。
紺のワンピースに着替えたエルザが、俺の隣に座った。いつもより、近い。肩が、触れそうで触れない。
「……距離、十センチ。昨日より、二十センチ近い」
床板のすきまから、カナが言った。
「測定に誤差があります。訂正――」
言いかけて、エルザは口を閉じた。それから、干し芋を小さくかじって、俺のほうを見ないまま言った。
「……誤差では、ありません」
銀髪のすきまの耳が、また赤かった。今朝の水場から、ずっと戻っていない。
ルビが、空き缶のラベルを読もうとして、あわてて裏返した。
「ねえ。ここ、毎朝、こんななの?」
「今日が特別おかしいんだよ」
朝の六時半。店は、まだ一秒も開いていなかった。
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