ギャフンと言わせてやる【後半】
「――チョベリバッ!!」
青い文字が飛ぶ。
「ちょべりば!」
ルビの指が一本。
付箋が、ぺたり。青い字は紙くずみたいに地面に落ちた。
〇・三秒。エルザより、速い。
「激おこ、ぷんぷん丸ッ!!」
「げきおこ、ぷんぷんまる! あはは、まるって何!?」
ぺたり。落ちる。
――訳してすらいない。読んでいるだけだ。
「灰村瓊心」
エルザが、俺の横に来ていた。
「彼女は、目に入った文字を、すべて声に出して読んでいます。看板、猫、私の刺繍。例外は、一つもありません」
「初校は、全部読む。止められない。そういう人」
床板のすきまから、カナ。
――読まずにいられない。
俺は、足もとの棒きれを拾った。
ルビの目の前の地面に、でかでかと書く。
『orz』
「おーあーるぜっと」
読んだ瞬間、ルビの膝が、かくんと折れた。
両手が地面につき、頭ががっくり垂れる。
完璧な「orz」の形で、初校が路地の真ん中にひれ伏した。
「え、なにこれ!? 体が、勝手に!?」
二〇〇〇年代の言葉は、書いたほうが強い。
画面の上で生まれた言葉だからだ。
床下から、ガキどもの押し殺した笑い声がした。
カナが、すきまから実況しているらしい。
俺は、もう一行書いた。
『ルビ こえが いい』
「る、るび、こえが、いい。……は?」
『ツインテール にあってる』
「ついんてーる、にあってる。……ちょ、まって」
『わらうと かわいい』
「わらうと、かわいい。……やめて、やめてよ、なにこれ!?」
読むたびに、ルビの耳が赤くなっていく。
目をそらそうとして、そらせない。
読んだ自分の声で、自分を褒めてしまう。
付箋だらけのスーツが、ふるふると震えていた。
「や、やめ……読みたくない、読みたくないのに……っ」
いい。
すげえ、いい。
さっきまで、何でも読めて、何にも動じなかった顔だ。
それが、自分の声に崩されていく。
――もっと読め。
その顔、もっと見せろ。
口には出していない。出していないのに。
「灰村瓊心。顔が、犯罪者です」
「前から」
床下から、カナが即答した。
「前からって言うな!」
「……私のときより、楽しそうです」
エルザが、小さくつけ足した。
「も、もう読まない! 見なきゃいいんでしょ!」
ルビが、両手で目を覆った。
指の隙間から、目がのぞいていた。
俺は、地面の真ん中に、いちばん大きく書いた。
ラジ爺が昔、地面に書いて教えてくれた言葉。
昭和の、負けた人間が漏らす、情けない声。
『ギャフン』
「ぎゃ……ぎゃ、ふ……っ」
唇が、勝手に動く。負けた。恥ずかしい。悔しい。でも、ちょっとだけ、うれしい。
その全部が、真っ赤な顔の上で、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
「――ギャフンッ!!」
本気の声だった。生まれて初めて、本気で負けを認めた人間の声だった。
『警告。初校スーツ、感情値の上限を超過。未登録の廃語を本人が発話。――付箋、剥離』
肩の付箋が、袖の付箋が、いっせいにほどけて、光る文字の粒になって舞い上がった。
上着が溶ける。袖が溶ける。
「わっ……あ、で、でも、下は残って――セーフ!」
ルビが、ほっと胸をなでおろした。
その手の下で、スカートの付箋が、さらさらとほどけていった。
☆☆☆
ルビは、気づいていなかった。
「ねえ、ずるくない!? あんな書き方されたら、誰だって読むじゃん!」
腰に手を当てて、俺に詰め寄ってくる。
「初校」
エルザが、静かに言った。
「報告します。現在のあなたの着衣は、標準の約十五パーセントです」
「……へ?」
ルビは、自分の体を見下ろした。
残っていたのは、白いレースの下着だけだった。胸もとに朱色の細いリボン。
光の粒が、肌の上をすべっていく。
思っていたより、ずっと大人の体つきだった。
レースの縁から、やわらかなふくらみがこぼれそうになっている。
きゅっとくびれた腰。白い太もも。ツインテールの先が、むき出しの肩で跳ねた。
剥がれ残った付箋が、何枚か、肌に貼りついていた。動揺するたびに勝手に飛んで、目についたものに名前を貼る、あの付箋だ。
ルビは、それを、反射で読んだ。
「むね。……おへそ。……ふともも。……ぱ、ぱん――」
最後の一枚で、止まった。
「ぎゃーーーーっ!!」
色気のかけらもない悲鳴だった。
両腕で胸を抱えて、その場にしゃがみこむ。
しゃがんだ拍子に、背中から腰へ続く、なめらかな線がまるごとこっちを向いた。
腰の付箋が一枚、ひらりとはがれた。
『おしり』
「読むな読むな、あたしを読むなぁっ!! ……って、読んでるの、あたしじゃん!!」
見下ろした胸もとのタグまで、目に入った。
「し、しー、ななじゅう……って、読むなあたしいいいっ!!」
「見てねえ!」
俺は、全力で目をそらした。
そらす直前に、全部見た。
涙目で、唇を噛んで、耳の先まで真っ赤になった顔。
――最高だった。
いや、ちがう。最低だ、俺。
「灰村瓊心。今、見ましたね。瞳孔の開き方が、見た人のものです」
「見てた。三秒」
床下から、カナが補足した。
「わたくしのときより、ずっと長いですわ!」
路地の陰から、ミヤビまで。床板の上のラジ爺だけが、帽子を顔にかぶせて、地面に『みてない』と書いていた。
ルビが、しゃがんだまま、涙目で俺をにらみ上げた。
「……ね、ねえ」
声が、ひっくり返っていた。
「あたしの体……ダッサく、ないよね? ねえ、感想、読んで。書いて。ちゃんと読むから」
「なんで書くんだよ!」
「口で言われたら、信じらんないもん!」
しかたなく、目をそらしたまま、棒きれで地面に書いた。
ルビが、読んだ。
「き、きれい、だった……」
読んでから、ぼんっと音がしそうなほど、全身が赤くなった。
「って、あたしに読ませんなあああっ!!」
付箋が、顔に飛んできた。ぺたり。
『へんたい《けいしん》』
「記録します」
エルザが言った。
俺は、ジャージを脱いで、後ろ向きのまま放り投げた。ルビが、頭からかぶる。
裾は、太ももの半ばまでしかなかった。
そこから下が、やけにまぶしい。
ルビは、胸もとを見下ろして、また反射で読んだ。
「き、きらぼし……!? なんでここにも!? ダッサ!!」
路地の陰で、外套のミヤビが、またしても小さく抗議の声を上げた。
☆☆☆
ルビは、ドローンに飛び乗った。
ジャージの裾を両手で押さえて、真っ赤な顔のまま、俺を見下ろす。
「お、覚えてなさいよ! その■、次は絶対、読んでやるんだからね!」
「教えねえよ」
「あと! 次は……次は、もっとかわいいの着てくるから! ……って、何言ってんのあたしいいい!!」
ドローンが、空へ逃げていった。
床板が開いて、ガキどもが出てきた。
タクトは、曇りガラスみたいになった結晶を、手のひらにのせていた。
「……にいちゃん。おれのチョベリバ、死んじゃった?」
俺は、隣にしゃがんだ。かすかに、残響が鳴った。
――チョベリバ!
小さい。遠い。でも、まだ、どこかの誰かが、最悪を笑い飛ばしている声だった。
「まだ、生きてる。だから、大事に持ってろ」
タクトは、結晶を両手で包んで、ポケットにしまった。
☆☆☆
その夜。床の上で、エルザが正座していた。
縮んだ白衣に、安全ピンが一本。
「報告があります。今日、あなたが初校の顔を見ているあいだ、私の胸に、痛みが生じました。心拍の上昇とは、ちがいます。締めつけられるような。この感情の名前を、知りたいです」
「それは――」
「嫉妬」
床板が持ち上がって、カナが一語だけ言った。
「……嫉妬」
「そう。私は、半年前から毎日なってる」
「なるほど。記録します。嫉妬。初回、本日。対象、灰村瓊心」
「言わなくていい!」
床下で、缶をすする音がした。いつもより、長かった。
ざざっ、と、床下のラジオが鳴った。
『初校、ご苦労さま。……あら、ジャージ? 下層区の服は湿気を吸うでしょう。風邪をひかないように』
『うるさい、再校! 読んだもん! 全部読んだもん!』
『はいはい。次は、わたしが行きますね。……あの子たちの言葉、きれいに、差し替えてあげましょう』
ぶつり、と通信が切れた。
窓の外、月明かりの下で、付箋の貼られていない『ワロタ』が、ほんの少し、笑っているように見えた。
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