バグワード・バザー開店【前半】
朝、目を覚ますと、床の上で白衣が正座していた。
中身は、エルザ・ノルムだった。
カナの予備の白衣は、こいつには小さすぎる。
袖はひじまで、裾は膝の上までしかない。
それでも背筋だけは、上層区の朝礼みたいにまっすぐだった。
「おはようございます、灰村瓊心。現在時刻は午前六時二分です。あなたの起床は、予測より二分遅れました」
「……朝から採点すんな」
「訂正しま――」
言いかけて、エルザは口を閉じた。
訂正は、もう出てこないらしい。
かわりに、こほん、と小さく咳払いをした。
「失礼しました。おはようございます。以上です」
床下から、ごとん、と音がした。
床板が五センチだけ持ち上がって、隙間からクマのひどい目がのぞいた。
「……この人、二分前から起きてた。寝たふりして、その女の顔、見てた」
「見てねえよ!」
「見てた。私は、床下から全部見てる」
それはそれで問題だろ。
ただ、否定はしきれなかった。
寝起きのエルザは、銀髪のひと筋だけがぴょこんとはねていて、本人がそれに気づいていない。
完璧な女の、完璧じゃない一か所。
それが、なんというか、ものすごくよかった。
俺は、自分の癖が朝から元気なことを確認して、静かに絶望した。
「朝食は、私が用意します。居候の義務です」
エルザは立ち上がると、部屋の隅の拾い物のコンロに向かった。
へこんだ鍋に、米と水を入れる。動きに迷いがない。
「標準調理手順に従います。米一に対して、水一・二。加熱は強火で――」
「そのコンロ、強火しかねえぞ」
「問題ありません。手順どおりです」
五分後、部屋は黒い煙でいっぱいになった。
鍋の底で、米が炭になっていた。
エルザは、炭を見下ろしたまま動かなくなった。
手順どおりにやったのに、結果が予測と一致しない。
たぶん、こいつの人生で初めての経験だ。
白い頬が、じわじわと赤くなっていく。
唇がふるえる。
青い目に、なにか熱いものが込み上げてくる。
「……チョ」
あ、まずい。
「チョベリバ、です……!」
ぱきん。
鍋が、まっぷたつに割れた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……鍋、それしかないのに」
床下から、カナの冷たい声がした。
「も、申し訳ありません。弁償します。私の所持金は、字に換算すると――」
エルザは、白衣のポケットを両手で探った。何も出てこなかった。
「……ゼロです」
真っ赤な顔で、割れた鍋を両手で持ったまま、エルザはうつむいた。
いい顔だった。
――いや、だから、そうじゃなくて。
そのとき、窓の外のスピーカーが鳴った。
『おはようございます。第七街区のみなさん。本日も、正しい言葉で、よい一日を』
いつもと、一字一句同じ放送だった。
昨日、この街の空で何が起きたのか、ひとことも触れない。
二百人に光を落としかけたことも、その光が言葉の雨に変わったことも、まるで最初からなかったみたいに。
「ロゴスは、自分の負けを記録しない」
床下で、カナが缶コーヒーを開けた。
「学習だけする。……再審査は、保留のまま。ラジオでも、何も言ってない」
何も言わないのが、いちばん気味が悪い。
「兄ちゃん!」
戸口が勢いよく開いて、タクトが飛びこんできた。
「広場! 来て! すげえの!」
☆☆☆
広場は、きらきらしていた。
大人たちが夜のうちにだいぶ拾ったはずなのに、石畳のすきまには、まだ結晶がいくらでも転がっていた。
朝の光を受けて、青や紫や赤がちかちかと光っている。
その真ん中で、子どもたちが輪になってしゃがんでいた。
十人くらい。
声は、ひとつも聞こえない。
「何してんだ、あれ」
「ざんきょう、あてっこ」
タクトが、小さな声で言った。
「ひとりが結晶をさわって、残響を聞いて、顔で気持ちをやる。
ほかのやつが、なんの言葉か当てる。当てるときは――」
タクトは、棒きれで地面をとんとんと叩いた。
「書くだけ。言っちゃだめ。ドローンが来たら、足で消す」
輪のはしで、ラジ爺が木箱に座っていた。地面に、指で大きく書いてある。
『しんぱん』
審判かよ。
輪の中の女の子が、紫の結晶を耳に当てた。
とたんに、顔がぎゅうっとしかめっつらになる。
この世の終わりみたいな顔だった。
子どもたちが、いっせいに棒きれを走らせた。
地面に、ふにゃふにゃのカタカナが並ぶ。
『チョベリバ』『チョベリバ』『ちょべりば』
ラジ爺が、指で丸を描いた。
次の男の子は、緑の結晶を握ったとたん、両手を突き上げて、目をきらきらさせた。
待ちに待った何かが、やっと来た顔だ。
『キタコレ』
丸。
その次の子は、青い結晶をさわったとたん、両手と両ひざを地面について、がっくりとうなだれた。
全員が、一秒で書いた。
『orz』
ラジ爺が、ものすごく大きな丸を描いた。
俺は、笑いそうになって、それから、笑えなくなった。
子どもが廃語を一つ口にしたら、五百の減点。即、校正。
五年前、ハナはそれで消えた。俺が冗談で教えた、たった一つの言葉で。
この中の誰か一人でも、うっかり声に出したら。
「おい、おまえら――」
止めようとした俺の足もとに、ラジ爺の指が先回りした。
『とめるな』
その下に、もう一行。
『はじめたのは おまえだ』
俺は、何も言えなくなった。
「興味深い」
背中で、聞き覚えのある声がした。
白鷺シズカが、輪の外にしゃがみこんで、子どもたちの手から手へ回っている紫の結晶を、じっと見ていた。
「あの結晶、昨日の夜より、光が少し暗い」
「……気のせいだろ」
「僕の目は、気のせいを言わない」
シズカは、メモ帳に何かを書きつけた。
「まだ仮説だけど。――同じ言葉を、たくさんの人が使うと、言葉は、何かを失うのかもしれない」
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