チョベリグ、です【後半】
暗い。
何もない。言葉が一個もない場所で、俺は浮かんでいた。
遠くで、誰かが俺の数字を読み上げていた。
発話数。感情強度。発現時間。報告書みたいな声だった。
それが、ふっと途切れた。
しばらく、何も聞こえなかった。
それから、さっきと同じ声が、ぜんぜん違う調子で、言った。
「……あなたは」
震えていた。
「あなたは、タクトの前に立ちました。勝てないとわかっていて、立ち続けました。私の前にも、立ちました。私は、あなたの敵だったのに」
声が、少しずつ近づいてくる。
「私は、二十二年間、正しい言葉だけを話してきました。でも、誰かを守る言葉を、一つも知りませんでした。あなたは、くだらない言葉しか持っていないのに、その言葉で、二百人を守りました」
息を吸う音がした。
「あなたは――すごい人です」
腹の底に、何かが、ぽたりと落ちてきた。
あったかい。
「本当に、すごいと、思いました。だから――」
一拍、間があった。
「チョベリグ、です」
金色の光が、真っ暗な場所に、どっと流れこんできた。
空っぽだった体の中に、言葉が満ちていく。
――目を開けると、目の前に、エルザの顔があった。
真っ赤だった。
耳の先まで、首まで、真っ赤だった。
青い目に涙がたまっていて、唇が震えていて、ほどけた銀髪が頬に張りついていた。
俺のジャージの「綺羅星」の刺繍が、あいつの胸で光っていた。
いい顔だった。
起き抜けの頭で、俺は心の底から、そう思った。
「……おまえ、その顔」
「――っ」
エルザは、ばっと両手で顔を覆った。
「い、今のは、業務上の、救命措置です」
「チョベリグ、ですって言ってたよな」
「言っていません」
「言ってた。すげえ丁寧に」
「訂正します。言って――」
訂正は、出てこなかった。
「……一回目だから、全力で効いてる」
床下の穴のふちから、カナがじとっとした目で言った。
「私が、先に見つけたのに。私の方が、先に、言いたかったのに」
「カナ……」
「……おかえり」
カナは、それだけ言って、床下に引っこんだ。床板が、ことりと閉まった。
タクトが、泣きながら俺の腹の上に飛び乗ってきた。
爺さんが、床のほこりに『おそい』と書いた。
「……広場は。みんなは」
「全員、無事」
床下から、くぐもった声が返ってきた。
「それと、広場に、結晶が山ほど落ちてる。あなたのナウいで、ロゴスが捨てた言葉を全部吐き出した。シズカさんが、今ごろ興奮して拾い集めてる」
「……ナウい、そんなことまでしたのか」
爺さんが、ほこりに書き足した。
『ナウいは ふるいものを いまに する ことばだ』
古いものを、今にする言葉。
古い言葉を捨てつづけてきた街を止めたのが、いちばん古い「今」だった。
俺は、自分の手のひらを見た。拳の血が、きれいにぬぐわれていた。
「……誰か、拭いてくれたのか」
エルザが、なぜか、ものすごい勢いで目をそらした。
――その横顔も、なかなか、いい顔だった。
俺は、自分の癖が、目覚めたばかりの体の中でもちゃんと元気に生きていることを確認して、少しだけ絶望した。
☆☆☆
夜になって、シズカが戸口に来た。
「伝言を預かってきた。赤ペンから、ノルム先輩へ」
部屋の空気が、ぴんと張った。
「『上層区に戻って、灰村瓊心の解析に協力するなら、誤字認定を取り消してやる』――だってさ」
エルザは、俺の枕もとに正座したまま、しばらく黙っていた。
誤字のままなら、この女は、もう上層区には戻れない。
家も、仕事も、二十二年間積み上げてきた正しさも、全部向こうに置いたままだ。
言葉の権限もない。
下層区で、ドローンに見つからないように、隠れて暮らすしかない。
戻れば、全部、元どおりだ。
「お断りします」
エルザは、はっきりと言った。
「上層区には、戻りません」
「理由を聞いても?」
「まだ、この街の顔を、全部見ていませんから」
シズカは、目をまるくした。それから、ふっと笑った。
「了解。そう伝えておく」
シズカは、戸口で振り返った。
「ちなみに、赤ペンの顔は、とても見ものだと思うよ。僕は、そっちも解析したいくらいだ」
シズカが帰ったあと、エルザは、俺のほうに向き直った。
「灰村瓊心。お願いがあります」
「……なんだよ」
「しばらく、ここに置いていただけませんか。家の中なら、マイクが届かないと聞きました」
床下から、ごとん、と音がした。缶を落とした音だった。
「……床の上なら、空いてる」
「ありがとうございます」
床板が、すうっと持ち上がって、カナの目だけがのぞいた。
ものすごく冷たい目だった。
「……床下は、私の」
「床の上を、お借りします」
「……床の上も、だいたい私の」
「そこは俺んちだろ」
その夜、エルザは、ジャージを俺に返して、カナの予備の白衣を借りて、部屋の隅で眠った。
袖が、ひじまでしかなかった。
眠る前に、エルザが一度だけ、部屋の隅の柱を見ていたのに、俺は気づいた。
ハナの背丈の刻み目を。
その横顔は、何かを言いかけて、のみこんだみたいな顔だった。
俺は、何も聞かなかった。あいつも、何も言わなかった。
あの顔の意味を知るのは、まだずっと先のことになる。
最後までお読みいただきありがとうございました。
よろしければ、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




