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バグワード・バザー〜死語しか使えない底辺の俺が、完璧な管理都市をチョベリバにしてやる〜  作者: 則本潮


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チョベリグ、です【中盤】 

エルザは、ケイシンの枕もとに正座した。

背筋を伸ばし、両手を膝の上にそろえる。

養成院で習った、いちばん正しい姿勢で。


それから、正確な発音で言った。


「チョベリグ、です」


何も起きなかった。


「……丁寧に言えばいいってもんじゃない」


床下の穴のふちから、カナの冷たい声が飛んできた。


「本気で、褒めるの」


「本気で、褒める」


エルザは、その言葉を口の中で繰り返した。


褒める。


上層区で、人は人を褒めない。

評価はする。スコアをつける。予測一致率を伝える。

けれど、誰かの何かをいいと思って、それを本人に伝えるということを、エルザは一度もしたことがなかった。

されたことも、なかった。


「やってみます」


エルザは、ケイシンの顔を見下ろした。


「灰村瓊心。あなたの本日の廃語の発話数は十一回。感情強度は平均して基準値の四倍。発話から効果発現までの時間は〇・二秒。特筆すべき数値です」


何も起きなかった。


「それ、報告書」


カナが言った。


「……では。あなたの戦闘中の判断は、合理的とは言えませんが、結果として――」


「報告書」


「あなたの、行動の、成果は――」


「だから、報告書」


エルザは、口を閉じた。


「あなたの、ええと……発声は、明瞭です」


「それは、褒めてるんじゃなくて、採点」


「あなたの、体重は、推定六十一キロで、身長に対して適正――」


「健康診断」


タクトが、吹き出しかけて、ラジ爺に口をふさがれた。


わからない。どうすればいいのか、まったくわからない。


エルザは、自分の子どものころを思い出そうとした。

上層区の、標準語モデル家庭。

父も母も、正しい言葉しか話さなかった。

テストで満点を取った日、父は言った。

「予測どおりの結果です」

母は言った。「記録しておきます」

それで、おしまいだった。


それを、寂しいと思ったことはなかった。

寂しいという言葉を、知らなかったからだ。


――あの綺羅星の三女は、さっき、真っ赤な顔で「借りがある」と言った。

報告書には「散歩」としか書かれていなかったけれど、きっと、あの子もケイシンに、何かを言われたのだ。


あのとき、あの子の胸の中で、何が起きていたのだろう。


「……ひとつ、確認させてください」


エルザは、床下の穴のふちのカナに向き直った。


「褒める、とは。相手の価値を、数値ではなく伝えること、で合っていますか」


カナは、少しだけ考えた。


「半分あってる」


「残りの半分は」


「自分が、どう感じたか。相手のどこが、自分の胸に刺さったか。――それを、ちゃんと自分の言葉で言うこと」


自分が、どう感じたか。


それは、エルザがいちばん苦手なことだった。

感じたことを言葉にしたことなど、二十二年間、一度もない。

訂正なら、〇・七秒でできる。

でも、褒めるための言葉を、彼女は一つも持っていなかった。


ラジ爺が、床のほこりに、ゆっくりと書いた。


『ほめるのは すうじじゃない』


その下に。


『おまえさんが こいつを どう おもったかだ』


どう、思ったか。


エルザは、部屋の中を見回した。考えるための時間が欲しかった。


狭い部屋だった。

壁の板は、ところどころ反っている。

窓には、拾ってきたらしいガラスがはまっている。

そして、部屋の隅の柱に、小さな刻み目がいくつも並んでいた。


背丈を測った跡だった。


刻み目の横に、子どもの字で、名前と数字が彫ってあった。


『ハナ 五さい』『ハナ 七さい』『ハナ 九さい』


そして、いちばん上の刻み目。


『ハナ 十さい』


それより上には、何もなかった。


「……ハナ」


エルザは、自分の口からその名前がこぼれたことに、気づかなかった。


ラジ爺が、指で書いた。


『ケイ坊の いもうと。五年まえ 市場で 校正された。十のとし』


五年前。市場。十歳。


干物のにおいがした、市場。

泣いていた大人たち。

白い手袋ごしに触れた、小さな額。

誰かのほうを見て、首を横に振った少女。


エルザの指先が、冷たくなった。


――記録を開けば、わかる。


開く必要は、ない。


開くのが、怖かった。


なぜ怖いのか、わからなかった。わからないことにしたかった。


柱のいちばん下、子どもの目の高さのところに、小さな落書きが彫ってあった。

丸い顔がふたつ。

大きいほうと、小さいほう。

大きいほうの下に、たどたどしい字で。


『にいちゃん』


エルザは、柱から目をそらした。


ケイシンの顔に、視線を戻す。


目を閉じたままの顔は、思っていたより、ずっと幼く見えた。

十九歳。自分より、三つも年下だ。

その顔で、二百人の前に立ち、あの赤ペンを見上げて、怒鳴った。


ケイシンの右手の拳に、乾いた血がこびりついていた。広場の石畳を叩いたときの傷だ。


エルザは、ジャージの袖口で、その血をそっとぬぐった。


ぬぐいながら、思った。


この手が、タクトの前に立った。この手が、自分の前に立った。

この手の持ち主は、くだらない言葉しか持っていないのに、その言葉で、誰ひとり見捨てなかった。


胸の奥で、何かが、ゆっくりと形になっていった。


訂正の言葉ではない。報告の言葉でもない。


この人に、伝えたい言葉だった。


エルザは、もう一度、ケイシンの顔をまっすぐに見た。


「……あなたは」


最後までお読みいただきありがとうございました。

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