チョベリグ、です【前半】
言葉の雨は、しばらく降りやまなかった。
光の粒は、石畳に落ちると、小さな硬い音を立てて転がった。
青。紫。緑。赤。それから、エルザが一度も見たことのない色。
結晶だった。
広場いっぱいに、死語の結晶が散らばっていた。
月に一度、下層区に降るという「言葉の雨」の記録映像なら、エルザも見たことがある。
けれど、こんな量ではなかった。
『……思考、再開……まで……』
遠い空で、ロゴスの声が途切れ途切れに鳴っていた。
「ロゴスが捨てた言葉が、呼び戻されたんだ」
屋根から降りてきた白鷺シズカが、足もとの結晶をひとつ拾い上げて、目を細めた。
「『ナウい』は、古いものを『今』に引き戻す言葉だった。
ロゴスは『今』を定義し直そうとして、捨てた言葉を全部読み直した。
その結果が、これ。
……興味深い。ものすごく、興味深い」
けれど、エルザには、結晶を見ている余裕はなかった。
腕の中で、灰村瓊心が、ぴくりとも動かなかった。
「家に運ぶ。マイクのないところへ」
白衣の小柄な女が言った。
エルザはケイシンの肩を担ごうとして、よろめいた。
思っていたより、ずっと重い。
「お、お貸しなさいな!」
広場の端の路地から、金色の何かが転がり出てきた。
綺羅星ミヤビだった。
いつもの白と金のスーツではなく、地味な灰色の外套を頭からかぶっている。
変装のつもりらしい。
くるくる巻いた金髪が、外套の裾から盛大にはみ出していた。
「綺羅星……三女……?」
「ち、違いますわ! 通りすがりの、ただの力持ちですわ!」
ミヤビは、ケイシンの反対側の肩に腕を回した。
二人がかりで、ようやくケイシンの体が持ち上がる。
「……なぜ、ここに」
「さ、散歩ですわ!」
ミヤビは、真っ赤な顔でそっぽを向いた。
それから、小さな声で付け足した。
「……この方には、ジャージの借りがありますの。借りは返すのが、綺羅星の流儀ですわ」
路地の入り口までケイシンを運ぶと、ミヤビは「わたくしがここにいたことは、ご内密に!」と叫んで、外套をひるがえして走り去っていった。
エルザは、その背中を、しばらく見送っていた。
上層区の人間が、下層区の人間のために走っている。
三日前の自分なら、理解できなかった光景だった。
『……ロゴス……思考の再開まで……推定……三時間……』
空の声は、まだ途切れ途切れだった。
☆☆☆
ケイシンの家は、路地の行き止まりにあった。
狭い部屋の真ん中に、ケイシンを寝かせた。
ラジ爺が、戸口の脇に座りこんだ。
タクトが、ケイシンの手を握ったまま離さなかった。
そして、床板が一枚外れていて、そこから白衣の小柄な女が出入りしていた。
床下に、人が住んでいる。
エルザは、その事実を記録しようとして、やめた。もう、記録する権限はない。
「息はある。脈も、ある」
白衣の女――黄泉坂カナは、ケイシンの手首から指を離した。
「でも、言葉が、空っぽ」
「空っぽ……とは」
「S級の言葉は、体の中の言葉を、根こそぎ持っていく。今のこの人の中には、何も残ってない。だから、目が覚めない」
カナの声は、いつもと同じ平坦な声だった。
けれど、缶コーヒーを持つ指が、白くなっていた。
「どうすれば、目を覚ましますか」
「言葉を、注ぎ返す。外から」
カナは、ケイシンの顔を見下ろした。
「回復の言葉。――チョベリグ」
チョベリグ。超ベリーグッド。
本気で褒めると、相手を元気にする言葉。
記録で見た。ケイシンが、ラジ爺に向かって叫んでいた。
「では、あなたが」
カナは、首を横に振った。
「私には、出せない」
「なぜですか。あなたは、誰よりも死語に詳しいように見えます」
「詳しいよ。たぶん、この街の誰よりも」
カナは、ケイシンの額にかかった前髪を、指でそっとどけた。
そこに、古い傷跡があった。
「でも、私は、一度も死語を発動できたことがない。知ってるだけ。データとしてしか、使えない」
その言葉は、エルザの胸の奥の、どこかに刺さった。
知っているだけ。記録としてしか、知らない。三日前までの、自分と同じだった。
カナは、もう一度、小さく「ケイシン」と呼んで、それから口を開いた。
「チョベリグ」
何も起きなかった。
「チョベリグ。……チョベリグ」
何も、起きなかった。
カナは口を閉じた。床下へ続く穴のふちに座って、膝を抱えた。
白衣の背中が、小さく丸まった。
ラジ爺が、床のほこりに指で書いた。
『わしは だめだ 点が たりん』
タクトが、ケイシンの手を握ったまま顔を上げた。
「おれが言う! チョベリ――」
ラジ爺の手が、タクトの口をふさいだ。
タクトのスコアは三十一。
子どもが廃語を一つ口にすれば、五百の減点。
家の中にマイクはなくても、チップは聞いている。
部屋じゅうの目が、ゆっくりと、ひとりに集まった。
ジャージを羽織った、誤字に。
「……私、ですか」
カナが、膝を抱えたまま言った。
「あなたは、誤字。ロゴスは、もうあなたの言葉を受け取らない。だから、減点もされない。この部屋にはマイクもないから、光も落ちない」
言葉の権限を失ったことが、ここでは、言葉を使える理由になる。
「それに、あなたは感染してる。もう二回、自分で死語を言った。――出せるはず。本気なら」
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