今がいちばんナウい【後半】
爺さんが、書いていた。
石畳の隙間に溜まった砂の上に、大きく、でかでかと。
『ケイ坊 あれだ』
その下に、もう一行。
『ナウい』
……は?
いや、待て。わかる。理屈は、わかる。
ナウい。
今風だ。イケてる。
昭和の若者が、新しい服や新しい店を見て、目をきらきらさせて言った言葉。
意味は「今っぽい」なのに、この街で、これほど古い言葉はない。意味が「新しい」と言い、言葉そのものが「古い」と言っている。
エルザの言った弱点に、ぴったりはまる。はまるけど。
「……これで、二百人、救うのか?」
声に出ていた。
爺さんは、真顔でうなずいた。
指が、さらに書き足す。
『さいごの さいごに つかえと いった やつ』
思い出した。
十一年前。この街に落ちてきたばかりで、誰とも口をきけなかった俺に、爺さんが毎朝、地面に変な字を書いてくれた。
おっはー。バッチグー。アッシー。
そのどれもが、くだらなくて、意味がわからなくて、でも見ていると少しだけ笑えた。
ある朝、爺さんは、いつもと違う顔で、ひと言だけ書いた。
『いまが いちばん ナウい』
それから、書き足した。
『おれの ラジオの しめの ことば。こんやが いちばん ナウい。あしたは もっと ナウい。さいごの さいごにしか つかうな』
八歳の俺は、地面を蹴って、その字を消した。
家をなくして、父さんがいなくなって、ゴミ溜めに落ちてきたばかりの朝だ。
今がいちばんいいなんて、そんなわけあるか、と思った。
それきり、十一年間、一度も口にしなかった。
『残り、百五十秒』
「……ナウい」
エルザが、俺の横で、砂の字を読んだ。
「記録があります。先日、波多野氏が、棒読みで『ナウなヤングにバカウケ』と発話し、百の減点を受けています。……けれど、本気の『ナウい』を、ロゴスはまだ一度も聞いていません」
あの日、爺さんは、タクトを守るために、自分の決まり文句を棒読みで差し出した。
三十八年間、胸の中にしまってきた言葉から、感情を全部抜いて、ただの音にして。
その言葉を、今度は、本気で言え、ってことか。
『残り、百二十秒』
俺は、立ち上がった。膝が笑っている。喉が焼けるみたいに痛い。でも、まだ声は出る。
「エルザ。タクトを頼む」
「……はい」
あいつの返事は、ロゴスの「はい」じゃなかった。
俺は、演台に駆け上がった。
広場の全員が見える。
二百人の顔。タクト。カナ。魚売りの婆さん。地面にかがみこんだまま、こっちを見上げている爺さん。
ジャージを羽織って、タクトを抱き寄せているエルザ。
『残り、六十秒』
問題が、ひとつあった。
死語は、本気で言わないと効かない。
ナウい、を本気で言う。
つまり、心の底から「今、これが、いちばんイケてる」と思わなきゃいけない。
空からは光が降ってくる。出口はドローンにふさがれている。
二百人が震えている。
俺は在庫切れで、拳から血が出ている。
これの、どこが、ナウいんだ。
――で、それのどこがエモいんだよ。
いつもの口癖が、頭の中で勝手に鳴った。
俺は、もう一度、広場を見た。
倒れた婆さんを、知らないおっさんが支えていた。
泣いている子の耳を、母親が両手でふさいでいた。
タクトが、エルザの腕の中で、歯を食いしばって泣くのをこらえていた。
カナが、屋台の陰で、空き缶を握りしめていた。
爺さんが、砂の字の前で、俺をまっすぐ見上げていた。
そして、エルザが――あの、一分の乱れもなかった女が、ほどけた髪のまま、俺から目をそらさずにいた。
誰も、声を出していない。
でも、誰ひとり、ひとりきりじゃなかった。
この街に落ちてきて十一年。
こんな広場は、一度も見たことがなかった。
……ああ、くそ。
爺さん。あんた、正しかったよ。
『残り、三十秒』
俺は、息を吸った。
「――ナウい」
広場が、凍りついた。
二百人が、いっせいに、ものすごく微妙な顔をした。この状況で? それ? という顔だった。
顔から火が出そうだった。
今すぐ演台から飛び降りて、排水路に一生こもりたかった。
でも、その恥ずかしさも、本物だった。
だから、止まらなかった。
「今! この広場が! いちばんナウいんだよぉぉぉッ!!」
虹色の文字が、俺の口から噴き上がった。
重くて、古くて、それなのに、今まで見たどの文字よりも、きらきらしていた。昭和の化石。
S級の言葉が、空に向かって、柱みたいにまっすぐ立ちのぼっていく。
『廃語を検知。意味――今風である。最新である。分類――現役語』
ロゴスの声が、答えを出しかけた。
『使用頻度――三十八年間、ゼロ。分類――廃語。……意味――最新。分類――現役語。使用頻度――ゼロ。分類――廃語。意味――』
ロゴスの声が、裏返った。
そのとき、誰かが、ぶふっ、と吹き出した。
魚売りの婆さんだった。
それが、合図になった。
隣のおっさんが、肩を震わせた。タクトが、泣き顔のまま笑い出した。
広場のあちこちで、声のない街の住人たちが、腹を抱えて笑いはじめた。
『笑声を検知。減点――処理――処理――分類――現役語――廃語――現役語――「今」とは――「今」を、再定義――』
空の声が、とんでもないことを言い出した。
『「今」を定義するため、全廃棄語彙を、再照合します』
空の白い光が、ぴたりと止まった。
それから、ゆっくりと、ほどけはじめた。
ロゴスが今まで捨ててきた言葉が、いっぺんに引っぱり出されて、空からこぼれ落ちてくる。
言葉の雨だった。
『残り……三秒……』
カウントは、そこで止まった。
出口をふさいでいたドローンが、一機、また一機と、石畳の上に落ちていった。
降下艇が大きく傾き、拡声器から、朱崎の舌打ちが聞こえた。
「……記録は、取った。次は、ないよ」
白い機体が、よろめきながら、上層区の空へ逃げていった。
「にいちゃーん!!」
広場じゅうに響く、九歳の、でっかい声だった。
誰かが手を叩いた。
笑い声が、拍手に変わった。
ロゴスの思考が止まっている今だけは、笑っても、叫んでも、誰も減点されない。バザーの地下でしか聞けなかったはずの音が、今、地上で鳴っていた。
――よかった。
そう思った瞬間、足から、力が抜けた。
体の中の言葉を、根こそぎ吐き出したみたいだった。演台の上で、世界がぐらりと傾く。
落ちる、と思ったら、誰かに受け止められた。
ジャージの胸に、金色の刺繍が見えた。
「灰村、瓊心」
エルザの声が、遠くで聞こえた。
「目を、開けてください。……お願いです」
あいつの声は、半音どころじゃなく、震えていた。
その顔が見たかった。全部見たいと言ったくせに、まぶたが、どうしても上がらなかった。
遠い空の上で、止まったはずのロゴスの声が、かすかにつぶやいた。
『……学習、完了。この言葉は……二度と……』
そこで、俺の意識は、言葉の雨の中に沈んでいった。
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