今がいちばんナウい【中盤】
ドローンが来る。
エルザ・ノルムは、それを、他人ごとのように見ていた。
四機。アームの開く角度。接近速度。
逃げられないことは、計算するまでもなかった。
抵抗する理由も、もう見つからなかった。
言葉の権限を失った治安官に、できることは何もない。
校正されれば、楽になる。心穏やかに過ごせる。
ロゴスは、そう言った。
それは、たぶん、正しい。
――正しい、はずだった。
――貴重な検体だ。
朱崎の声が、耳の奥に残っていた。
検体。自分は、もう人ではなく、調べられる物になったのだ。
五年前、自分が額に触れた少女も、こんなふうに呼ばれたのだろうか。
十歳の少女も、最後に、こんなふうに、何もかもをあきらめたのだろうか。
いいえ。
あの少女は、あきらめていなかった。
誰かのほうを見て、首を横に振った。
誰かを、守ろうとしていた。
それなのに、自分は、ここで立ち止まっている。
「マジ、卍ッ!!」
目の前に、背中が割りこんだ。
上半身裸の、痩せた背中。
その向こうで、白い文字が噴き上がって、先頭のドローンの目をくらませた。
「おまえ、なに突っ立ってんだよ!」
灰村瓊心が、振り返りもせずに怒鳴った。
「なぜ……」
エルザは、自分の声が、かすれているのを聞いた。
「なぜ、私を、守るのですか。私は、あなたの敵です。あなたを捕まえに来ました。あなたの言葉を、何度も訂正しました」
「知ってるよ」
「では、なぜ」
「超、MMッ!!」
紫の文字が、二機目のドローンを包む。
ローターの回転が落ちて、ドローンがふらふらと高度を下げた。
ケイシンは、肩で息をしながら、ようやく半分だけ振り返った。
「おまえの顔、まだ全部見てねえからな」
エルザは、一瞬、意味がわからなかった。
それから、わかった。
さっき、ケイシンが言った言葉。
性癖的な意味では、徹底的に。
顔が、熱くなった。こんなときに。
三百秒後に、全部終わるかもしれないときに。
「……あなたは、本当に、最低です」
「よく言われる」
ケイシンは、そう言って、少しだけ笑った。
こんなときに、なぜ笑えるのか。
エルザには、わからなかった。
けれど、その笑い顔を見た瞬間、胸の奥の、名前のわからない熱が、また一段、上がった。
まわりでは、住人たちが動いていた。
倒れた老人を、知らない男が助け起こしている。
泣いている子どもの耳を、母親が両手でふさいでいる。
誰も、声は出していない。それでも、誰ひとり、ひとりきりではなかった。
ロゴスの記録には、残らない光景だった。
けれど、エルザの目には、ひとつ残らず焼きついた。
『残り、百九十秒――再特定。残り、二百十秒』
エルザは、空の声に耳を澄ませた。
耳を澄ませることだけは、まだできた。
カウントが、延びた。
ケイシンが、まだ今日使っていない廃語を本気で叫ぶたびに、ロゴスは位置を測り直す。
そのぶんだけ、粛清が遅れる。
ケイシンは、それを知っていて、時間を稼いでいる。タクトの前に立ち続けたときと、同じように。
でも、延ばせるのは、数十秒ずつだ。
ケイシンの言葉には、限りがある。
「チョベリグ!」
ケイシンは、膝をついていたあの老人に向かって叫んだ。
金色の文字が老人の胸に吸いこまれ、老人が、ふらつきながらも立ち上がる。
『再特定。残り、二百秒』
「カム着火――インフェルノォォォォウッ!!」
炎の渦が、四機のドローンをまとめてはじき飛ばした。
『再特定。残り、二百二十秒』
そこで、ケイシンの膝が、がくんと折れた。
「……くそ。在庫、切れた」
ケイシンは、地面を拳で叩いた。
その拳から、血がにじんでいた。
息が、ひゅうひゅうと鳴っていた。
今日、まだ使っていない言葉は、もうない。
『残り、二百秒』
壊れた四機のかわりに、別の四機のドローンが出口を離れて、こちらへ向かってくる。
エルザは、ケイシンの背中を見下ろした。
ケイシンは、言葉で戦っている。
言葉しか持っていない。
そして自分は、もう、言葉の権限を持たない。
けれど、言葉の知識なら、持っている。
ロゴスのいちばん近くで、二十二年間、ロゴスの言葉だけを聞いて生きてきた。
ロゴスが何を処理できて、何を処理できないのか。
誰よりも、知っている。
――さっき、自分は、なぜ訂正できなかったのか。
「灰村、瓊心」
エルザは、ケイシンの隣に膝をついた。
「聞いてください。MK5のように、途中で意味が変わる言葉なら、答えを出し直せば、ロゴスはまだ追いつけます。けれど、ロゴスには、もっと根っこの弱点があります」
ケイシンが、顔を上げた。
「ロゴスは、言葉を二つの数字で管理しています。意味と、使用頻度です。使われなくなった言葉は、古い言葉として、辞書から捨てられます」
エルザは、自分の胸を押さえた。
さっき、この体の中で、怒りと恥と、名前のわからないものが、同時に鳴っていた。
「もし、言葉の意味そのものが『今、使われている』だったら。意味は新しいと言い、使用頻度は古いと言う。どちらの答えも正しくて、どちらの答えも間違い。ロゴスは、その言葉を、捨てることも、残すこともできません。分類を終えられないあいだ、ロゴスの思考は、止まります」
『残り、百八十秒』
ケイシンの目が、見開かれた。
「……今っぽい、って意味の……いちばん古い言葉」
ケイシンは、広場を見回した。
その視線が、列のうしろで、地面にかがみこんでいるラジ爺に止まった。
ラジ爺が、震える指で、石畳の砂の上に、何かを書いていた。
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