今がいちばんナウい【前半】
『粛清まで、残り、二百九十秒』
鈴の声が、広場に響いた。
最初に動いたのは、誰だったのかわからない。
気づいたら、列が崩れていた。
二百人の住人が、いっせいに広場の出口に向かって走りだした。
声は出ない。こんなときでも、この街の人間は声を出さない。
足音と、荒い息だけが、石畳の上を流れていく。
その流れの先で、白いドローンが、壁になった。
『退避は推奨されません。粛清の対象は、本広場に所在する全員です』
二十機のドローンが、広場の四つの出口をふさいでいた。
アームを広げて、ぴたりと宙に止まっている。
押し返された人の波が、広場の真ん中に戻ってくる。
「……閉じこめる気かよ」
半径五十メートル。
広場は、すっぽりその中に入る。
俺は、タクトの手を握ったまま、空を見上げた。
白い光が、ゆっくりと濃くなっていく。
「カナ!」
屋台の陰から、白衣が飛び出してきた。
息が上がっている。
「光は、止められない。私の手じゃ、無理」
「わかってる。ドローンだけでも、どうにかならねえか」
「煙幕で目をふさいでも、出口のドローンは動かない。座標で止まってるから」
カナは、唇を噛んだ。
こいつが、こんな顔をするのを初めて見た。
それから、カナは白衣のポケットから、古い端末を引っぱり出した。
「……裏口を使う。広場の全員の減点を、まとめて誤検知にする」
「待て。今日それ使ったら、その場で見つかるんだろ」
「見つかってもいい」
「だめだ」
俺は、カナの手首をつかんだ。細い手首だった。
「それに、減点を消しても、光は止まらねえ。おまえが自分で言ったんだ」
カナは、しばらく俺を見上げていた。
それから、端末を握った指から、ゆっくり力を抜いた。
「……わかった」
広場の向かいの屋根から、白と灰色の影が飛び降りてきた。
シズカだった。
「解析結果。光の照準は、人じゃなくて広場の座標に固定されてる。誤字認定は、監査官の申請でしか取り消せない。――つまり、今ここにある手段では、どれも止められない」
いつもきらきらしている目が、今は笑っていなかった。
「僕にできるのは、ここまでだ。ごめん」
「謝るな。わかったことがあるだけ、ましだ」
シズカは、こくんとうなずいた。
それから、ぽつりと言った。
「君の語彙に、まだ一度も使ってない言葉はある? ロゴスがまだ見たことのない、とびきり古いやつ」
「……ある、かもしれねえ」
頭の奥で、何かが引っかかった。
でも、それが何なのか、まだ形にならなかった。
『残り、二百六十秒』
足もとで、魚売りの婆さんがへたりこんでいた。
人の波に押されて、転んだらしい。
俺が腕を引いて立たせると、婆さんは、しわだらけの手で俺の手を一度だけぎゅっと握って、それから、タクトのほうを顎でしゃくった。
その子を、頼む。そう言っていた。
「にいちゃん……」
タクトが、俺の手を握り返した。震えていた。
「大丈夫だ」
何が大丈夫なのか、自分でもわからなかった。
でも、言わずにはいられなかった。
そのとき、俺の背中で、声がした。
「一等治安官、エルザ・ノルムより、ロゴスへ」
振り返ると、エルザが立っていた。
俺のジャージを羽織って、ほどけた銀髪のまま、白くなっていく空をまっすぐ見上げていた。
「粛清の執行を、中止してください。対象地区の住人に、廃語の発話者はいません。責任は、すべて、指揮官である私に――」
『誤字の発話は、受理されません』
ロゴスの声は、やさしかった。
エルザの唇が、震えた。
『エルザ・ノルム。あなたは本日、誤字と認定されました。あなたの言葉には、もう権限がありません。安心してください。校正後は、あなたも、心穏やかに過ごせます』
エルザは、何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
二十二年間、正しい言葉だけを話してきた女が、自分の言葉が誰にも届かないことを、今、知った。
その横顔は、俺がこの十日間で見たどの顔よりも、小さく見えた。
「……私の、せいです」
小さな声だった。
「私が、指揮官を引き受けなければ。私が、あの言葉を、言わなければ」
「違う」
俺は、あいつの前に立った。
「おまえのせいじゃねえ。おまえにあの言葉を言わせたのは、俺だ」
エルザの青い目が、俺を見た。
「それに、本当に悪いのは、上で笑ってるやつだ」
俺は、空を指さした。
広場の上空に浮かぶ白い降下艇。
その窓の向こうで、朱崎監査官が、こちらを見下ろしていた。
拡声器から、楽しそうな声が降ってきた。
「すばらしい。実にすばらしいよ、ノルム一等治安官――いや、元、一等治安官か。君は、私が見たかったものを、全部見せてくれた」
それから、赤ペンは、ついでのように言った。
「ドローン各機に告ぐ。誤字、エルザ・ノルムを、先に確保しろ。粛清の前に、校正所へ移送する。貴重な検体だ」
四機のドローンが、出口を離れた。
アームを広げて、まっすぐに、エルザへ向かってきた。
『残り、二百二十秒』
ふざけるな、と思った。
あいつは、ついさっきまで、おまえの部下だっただろう。
腹の底で、怒りが、もう一段上がった。
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