マジで恋する五秒前【後半】
エルザの顔が、固まった。
「怒って……?」
「ああ。怒ってる。顔、真っ赤だぞ。この前とは、違う赤さだ」
俺は、赤い結晶を握りしめた。
残響が鳴る。
腹を立てて、それでも爆発する前に、自分で自分をなだめるみたいな、ぎりぎりの女の子の声。
あいつは、怒りを知らなかった。
何百人もの怒った顔を記録してきたのに、自分では一度も怒ったことがなかった。
今、初めて、怒っている。
だったら、この言葉が、届く。
「MK5」
腹の底から、声を出す。
「マジで――」
「訂正します」
エルザが、指を立てた。0・七秒。
「『MK5』。マジで、切れる、五秒前。標準語訳――『怒りが限界に達するまで、残り五秒です』」
赤い文字が、俺の口から噴き出した。
訳された。予想どおりだ。
最初の意味は、怒りだ。あいつは、もう怒りを知っている。だから、訳せる。
でも、まだ終わってない。
「五」
赤い文字が、空中で数字になった。
「四」
エルザの指が、宙で止まったまま、わずかに震えた。
訳し終えたはずの言葉が、まだ消えていない。
「三」
「なぜ……訂正は、完了して……」
「二」
ここだ。
俺は、エルザの顔をまっすぐに見た。
真っ赤で、眉をつり上げて、それでも涙をこらえている、初めて怒った人間の顔。
その顔が、きれいだと思った。
心の底から、そう思った。
「一」
赤い数字が、ほどけた。
「――マジで、恋する、五秒前ッ!!」
数字の「0」が、ぱちんと弾けた。
赤い文字が、ひと文字残らず、薄桃色に変わった。
「訂正、しま――『恋、する』……?」
エルザの声が、裏返った。
「切れる、では、なく……恋……? 訳が、変わ……最初の、訳が、誤り……訂正の、訂正を――」
できなかった。
途中で意味が変わる言葉を、あいつの訂正は追いかけられない。
最初に出した答えが、最後の一言で、間違いになる。
薄桃色の文字が、エルザの胸に、まっすぐ吸いこまれていった。
『警告。感情値、急変。分類「怒り」を、分類「動揺」に上書き――』
スーツの音声が、悲鳴みたいに鳴った。
エルザが、よろめいた。
さっきまで突き上げていた怒りが、そっくりそのまま、別のものにすり替わっていく。
それが、外から見ていてもわかった。
つり上がっていた眉が、ゆっくりと下がる。
噛みしめていた唇が、ほどける。
真っ赤な顔はそのままで、赤さの種類だけが、変わっていく。
「これ、は……」
エルザが、胸を押さえた。
「さっきのは……怒り、でした。私は、怒って、いました。今、わかりました。そして、これは……」
青い目が、俺を見て、それから、さっと逸れた。
「私は、三日前、広場で……あなたの前で、あんな……あんな言葉を……」
あいつは、今、知ったのだ。
怒りの名前と、それから、恥の名前を。
『警告。感情値、上限を大幅に超過。フィルタースーツ、全機能の維持が困難です』
白と紺のスーツの縁が、光り始めた。
エルザは、震える手を、胸の前で組んだ。養成院で習った、いちばん正しい姿勢で。
そして、校閲官の正式な降伏定型文を、口にした。
「くっ……殺せ……!」
『降伏定型文を受理』
スーツが、まばゆい光に包まれた。
俺は、一歩、前に出た。
あいつの、怒った顔を見た。
動揺した顔を見た。恥ずかしくて、泣きそうになっている顔を見た。
どれも、九日前のガラスの上では、ひとつも見られなかった顔だ。
まだ、足りない。
もっと、見たい。
「俺には君は殺せないよ」
気づいたら、口から出ていた。
「性癖的な意味では、徹底的にやるかもしれないが…」
――言ってから、俺は、自分が何を言ったのか理解した。
殺さない。そのかわり、死語で、言葉で、おまえの訂正できない顔を、全部見るまで揺さぶり続ける。
徹底的に。
それが、俺の、たぶん一生治らない癖だった。
『フィルタースーツを、強制解除します』
白と紺のスーツが、ほどけた。
襟も、袖も、肩も、ひと文字ずつばらばらになって、光る粒になって、空へ舞い上がっていく。
広場じゅうの住人が、息をのんで、逆さまに降る言葉の雨を見上げていた。
「見てねえ!」
俺は、目をそらしながら、ジャージを脱いで放り投げた。
ジャージは、エルザの肩に、ふわりとかかった。
金色の「綺羅星」の刺繍が、あいつの胸の上で光った。
エルザは、ジャージの前をぎゅっとかき合わせて、うつむいたまま、肩を震わせた。
それから、顔を上げて、真っ赤な顔のまま、叫んだ。
今度は、言葉の意味を、全部わかった上で。
「この……スケベッ!!」
『廃語を検知。発話者、エルザ・ノルム。減点、百。現在スコア、七百九十八』
スーツの音声ではなかった。空の、ずっと上から降ってくる、ロゴスの声だった。
『上層区基準、八百を下回りました』
降下艇から、朱崎の声がした。楽しそうな声だった。
「監査官権限により、申請する。一等治安官エルザ・ノルムを――『誤字』と認定せよ」
一秒の、沈黙。
『申請を受理。一等治安官エルザ・ノルムを、誤字と認定します』
エルザの顔から、色が消えた。
『誤字認定により、粛清の保留を解除します』
広場の空が、白く光り始めた。
『第七街区、市場広場。本日この広場で検知された、すべての廃語に対し――三百秒後に、粛清を執行します』
二百人の住人が、広場に並んだまま、空を見上げていた。
タクトが、俺のジャージの裾をつかもうとして、つかむものがなくて、俺の手を握った。
ジャージを羽織ったエルザが、白くなっていく空を見上げて、小さくつぶやいた。
「……私の、せいで」
三百秒。
カウントが、始まった。
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