マジで恋する五秒前【中盤】
その朝、エルザ・ノルムが髪をまとめるのにかかった時間は、四十八秒だった。
医務官は、感情値は減衰していると言った。
四十八時間以内に収まるはずだった数値は、たしかに下がっていた。
下がっていたのに、鏡の中の自分は、二日前より、三日前より、どこか知らない顔をしていた。
演台に立ってからも、同じだった。
審査は、順調だった。
住人たちは、一人ずつ前に出て、定型文を言った。
基準を満たした者は、列に戻った。
ただ、エルザは、気づいてしまっていた。
魚売りの老女の声が、最後の一音で、ほんのわずかに震えたこと。
それを、聴音網の基準値がぎりぎりで見逃したこと。
老女が列に戻るとき、隣の男が、そっと彼女の背中に手を当てたこと。
以前の自分なら、どれひとつ、目に入らなかったはずだった。
耳の奥で、通信が鳴った。朱崎の、私的な回線だった。
『次の子どもは、つっかえたら即座に校正だ。例外は認めない。いいね』
「……了解しました」
返事をするまでに、0・五秒かかった。
☆☆☆
エルザ・ノルムは、演台の上で、ケイシンを見た。
胸に、金色の刺繍の入った、ジャージ。
――来た。
予測どおりだった。
朱崎の言ったとおりだった。
それなのに、胸の奥で、心拍がひとつ跳ねた。
予測どおりのことが起きて心拍が跳ねる理由を、エルザは知らなかった。
ケイシンは、少年とドローンのあいだに、両手を広げて立ちはだかっていた。
「灰村、瓊心」
自分の声が、広場に響いた。
平常の高さだった。少なくとも、彼女はそう判定しようとした。
「審査の妨害は、推奨されません」
「推奨なんか、知るか」
ケイシンは、まっすぐにこちらを見上げていた。
泥はついていない。
骨格標本の白衣でもない。
けれど、目だけは、あの日と同じだった。
降下艇から、朱崎の声がした。
「ノルム一等治安官。審査を続行しろ。妨害者は、確保だ」
「了解しました」
エルザは、演台を降りた。一歩。二歩。
ケイシンの口が開く。
「チョベリバッ!!」
「訂正します。『非常に悪い』」
0・七秒。訓練より、さらに速い。青い文字は、彼女の指先の手前で消えた。
「超、マジ、ムカつく!」
「訂正します。『非常に不快です』」
「激おこ、ぷんぷん丸ッ!」
「訂正します」
「ムカ着火、ファイヤーッ!!」
「訂正します」
「キタ、コレッ!!」
「訂正します。『待ち望んだものが、到来した』」
言えた。
三日前には訳せなかった言葉が、今は訳せた。
待ち望んだものが来たときの気持ち。
その答えを、彼女はこの三日間で、自分の中に見つけてしまっていた。
それがなぜなのかは、考えないことにした。
緑の文字が、消えた。
ケイシンが、膝をついた。息が上がっている。
在庫が、尽きかけているのがわかった。
それでも、ケイシンは、少年の前から一歩も動かなかった。
エルザは、気づいた。
ケイシンは、勝つために戦っていない。
少年の前に立ち続けるために、戦っている。
訂正されるとわかっている言葉を、それでも一つずつ投げてくるのは、時間を稼ぐためだ。
自分が倒れるまで、少年の順番を後ろにずらすためだ。
そんな戦い方を、エルザは、どの教本でも読んだことがなかった。
「終わりです」
エルザは、ケイシンの前に立った。
ケイシンの背中の後ろで、少年が震えていた。
「退いてください。審査の続行に、支障があります」
「退かねえよ」
「その子は、定型文を誤りました。規則に従い、校正します」
「こいつは、九歳だぞ」
「年齢は、規則に関係ありません」
「知ってるよ。五年前も、そうだった」
ケイシンの声が、低くなった。
「十歳の女の子が、たった一言で校正された。そのときも、誰も、関係ないって言った」
エルザの胸の奥で、何かが、きしんだ。
五年前。十歳の少女。下層区第七街区。
――見習いだったころ、一度だけ任務で降りたことのある場所。
干物のにおいがした、市場。
泣いていた大人たち。
白い手袋ごしに触れた、小さな額。
少女は、最後に誰かのほうを見て、首を横に振った。
その誰かの顔は、思い出せない。
記録を開けば、わかる。開く必要はない。
終わった任務は、終わった任務だ。
そう、自分に言い聞かせてきた。
「……退いて、ください」
声が、揺れた。
「退かねえ」
「退いてください」
「退かねえって言ってんだろ」
「退いて――」
胸の奥から、熱いものが、せり上がってきた。
体温が上がる。心拍が上がる。
それは、三日前の広場のときと似ていた。
けれど、違った。
あのときの熱は、ふわふわと上に昇っていく熱だった。
今のは、腹の底から突き上げてくる、硬くて、重い熱だった。
なぜ、ケイシンは退かないのか。
なぜ、私の言うことを聞かないのか。
なぜ、私に、五年前のことを思い出させるのか。
「――退きなさいッ!!」
広場が、静まりかえった。
エルザ・ノルムが、声を荒らげた。
二十二年間で、初めてのことだった。
自分の声の大きさに、自分がいちばん驚いていた。
喉が、ひりひりと痛んだ。こんなふうに声を出すと喉が痛むことを、彼女は今日まで知らなかった。
ケイシンが、ゆっくりと立ち上がった。
そして、ジャージのポケットから、赤く光る結晶を取り出した。
「……おまえ、今、怒ってるな」
最後までお読みいただきありがとうございました。
やばい、眠い眠い眠い。
他の作家さんは凄いと思う。この常に眠い状態で書いているのかと…
みんな根性半端ないなと。
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