止まらない言葉【中盤】
週に一度の面会日だった。
保管所までの道を、俺は骨格標本の白衣のまま歩いた。
すれ違う住人が、ちらちらとこっちを見る。
昨日の広場の件は、もう第七街区じゅうに知れ渡っているらしい。
声に出す人間はいない。
でも、目が言っている。
あれが、一等治安官を追い返した男だ、と。
それから、もうひとつ、目が言っている。
あの白衣は、なんだ、と。
俺は、昨日の広場のことを考えないようにしながら歩いた。
考えると、エルザの顔が浮かぶ。
顔が浮かぶと、自分が笑っていたことを思い出す。
思い出すと、穴があったら入りたくなる。
床下の住人が、今朝、出がけにぼそっと言った。
「今日は面会日。妹さんの前で、変な顔しないでね」
「しねえよ」
「昨日はしてた」
返す言葉がなかった。
保管所の面会室は、いつ来ても同じにおいがする。
消毒液と、何もないにおい。
「よう、ハナ」
「はい」
ハナは、いつもの椅子に、いつもの姿勢で座っていた。
まっすぐな黒髪。
きれいに揃えた膝。
「この一週間、いろいろあったんだよ」
俺は向かいの椅子に座った。
「タクトっていうガキがいてな。ドローンに連れてかれそうになったのを、助けた」
「はい」
「隣のラジ爺、覚えてるか。おまえが小さいころ、地面に変な字を書いて見せてくれた爺さん。あの人も、助けた」
「はい」
「あと、床下に変なやつが住んでる。二十五歳だって言い張る、缶コーヒーばっかり飲んでるやつ」
「はい」
「それから――」
エルザの顔が浮かんだ。
真っ赤になって、目に涙をためて、ほどけた髪の中で叫んだ顔。
俺は、口をつぐんだ。
あれは、ハナに話すことじゃない。
話していいのかどうかも、わからない。
「……まあ、いろいろだ」
「はい」
ほら、弾んだ。
「なあ、ハナ。来週、また来るからな。その前に、ちょっと大きい用事がある。第七街区の、みんなに関わる用事だ」
「はい」
「心配すんな。ちゃんと、帰ってくる」
ハナは、まっすぐ前を向いたまま、もう一度だけ言った。
「はい」
さっきより、ほんの少しだけ、強い「はい」だった。
気のせいかもしれない。
でも、俺には、そう聞こえた。
この一週間で、俺は五年分より多く、死語を叫んだ。
ハナから言葉を奪った言葉で、人を助けた。それが正しいのかどうか、俺にはまだわからない。
でも、ハナの「はい」は、今日もちゃんと弾んでいる。
「――興味深い」
背中から、知らない声がした。
振り返ると、面会室の入り口に、誰かが立っていた。
細い体に、白と灰色のスーツ。
肩までの黒髪を、耳の後ろでひとつに結んでいる。
上層区の人間だ。
でも、エルザやミヤビとは、どこか違う。
表情が、ある。
目が、きらきらしている。
「君の妹さんの『はい』君が話しかけたときだけ、音程が0.三半音上がる。保管所の記録には残っていない。記録の解像度が粗すぎるんだ。僕の耳でしか、拾えない」
「……誰だ、おまえ」
「白鷺シズカ。養成院の生徒だよ」
シズカと名乗ったそいつは、すたすたと部屋に入ってきて、俺の隣の椅子にちょこんと座った。
「安心して。捕まえに来たんじゃない。僕の任務は、解析だ。君という現象を、理解すること」
「現象って言うな」
「じゃあ、言い直す。君という、興味深い人間を」
そいつは、ハナのほうを向いて、軽く頭を下げた。
「はじめまして、ハナさん。お兄さんを、少しだけ借りるね」
「はい」
ハナの「はい」は、弾まなかった。
俺にしか、わからない程度に。
「なあ、ここ、保管所だぞ。どうやって入った」
「面会者の名簿に、僕の名前を一行書き足しただけ。養成院の解析権限で、そのくらいはできる」
さらっと言う。
上層区の人間は、みんなこうなのか。
シズカは、膝の上で両手を組んで、ぐっと身を乗り出した。
「それで、君に聞きたいことが、山ほどあるんだ。まず一つ目」
目が、ますますきらきらした。
「チョベリバ。――それ、語源は?」
「……は? おい、今それ言ったら――」
「平気だよ。養成院の解析担当には、研究用の発話許可がある。解析目的なら、一日十語までは廃語を口にしても減点されない。もちろん、感情は乗せないけどね」
便利な許可だ。
そういうものがあるなんて、知らなかった。
「チョ・ベリ・バ。三つの音のかたまりだ。でも、どの音も標準語の辞書にない。いや、正確には、『ベリ』と『バ』は、大校正より前の外来語の断片に似ている。どこから来た言葉なんだ。誰が、最初に言った」
なんだこいつ。
俺は、ハナのほうを見た。ハナは、いつもの姿勢のまま、俺たちを見ていた。
「……超、ベリー、バッド。超はそのまま。ベリーとバッドは、昔の外国語だ。『とても悪い』。九〇年代の女子高生が、短くして使った」
「女子高生!」
シズカは、手を打った。
「若い女性の集団が、自分たちの気持ちを表すために、既存の語を切り貼りして作った――つまり、ロゴスの辞書の外で、勝手に言葉が生まれていた時代があったんだ。興味深い。ものすごく、興味深い」
そいつは、本気で喜んでいた。
上層区の人間が、こんな顔で喜ぶのを、俺は初めて見た。
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