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バグワード・バザー〜死語しか使えない底辺の俺が、完璧な管理都市をチョベリバにしてやる〜  作者: 則本潮


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止まらない言葉【前半】

四時五十八分。

エルザ・ノルムは目を開けた。


二分、早かった。


二十二年間、一度も外したことのない時刻を、彼女の体は外していた。

白い天井を見上げたまま、エルザは自分の心拍を数えた。

一分あたり、八十二。平常値より、十四多い。


目を閉じると、顔が浮かぶ。


骨格標本のような白衣を着て、こちらをまっすぐ見て笑っている男の顔。


――顔、真っ赤だぞ。


エルザは、寝台の上で起き上がった。心拍、八十九。


鏡の前で髪をまとめる。

所要時間、四十六秒。

昨日より、さらに二秒遅い。

指が、同じ毛束を三度結び直していた。


『おはようございます、エルザ・ノルム。本日の言語信用スコア、八百九十八』


「おはようございます」


声は、平常だった。

少なくとも、彼女はそう判定した。


朝食の白い固形食を、三十回噛む。

十七回目で、数がわからなくなった。

もう一度、一から数え直した。


通勤路の歩道では、今朝も市民が同じ角度で会釈を交わしていた。

「おはようございます」「おはようございます」よく調律された楽器のような音。


その中に、ひとりだけ、会釈の角度が二度浅い男がいた。


エルザは、思わずその男を目で追った。

二度浅い会釈。

きっと、寝不足なのだろう。

あるいは、何か気がかりなことがあるのだろう。


――今まで、そんなことに気づいたことがあっただろうか。


上層区の朝は、昨日までと何も変わらない。変わったのは、それを見ている自分のほうだった。


☆☆☆


午前の健康診断で、医務官は端末の数値を見て、二度まばたきをした。


『感情値、残留を確認。昨日の戦闘時の数値の、約四割が残っています』


「原因は」


『未定義の感情の流入による一時的な残響と推定されます。通常、四十八時間以内に減衰します』


「了解しました」


『なお、念のため確認します。昨日以降、廃語を口にしたいという衝動はありますか』


エルザは、答える前に一秒止まった。


その一秒のあいだに、頭の中で、あの言葉が鳴った。


――このスケベ。


自分の声だった。広場いっぱいに響いた、上ずった、自分の声。


「ありません」


『了解しました。経過を観察します。なお、本日の任務遂行には支障なしと判定します』


支障なし。

数値の上では、そうなのだろう。


医務室を出て、エルザは廊下の壁に手をついた。


ある。言いたいのではない。

ただ、止まらない。

頭の中で、あの言葉が、勝手に何度も何度も繰り返される。

止めようとすると、あの男の顔が浮かぶ。

顔が浮かぶと、体温が上がる。

体温が上がると、また言葉が鳴る。


報告書を書こうとしても、同じだった。


『対象、灰村瓊心は、』


そこで指が止まる。

その先に続ける正しい言葉が、見つからない。


昼休み、エルザは校閲局の保管庫に降りた。


大校正以前の字書の記録を開く。

二日前に「瓊」を調べたのと同じ端末だ。

業務上の必要がある、と、また自分に説明した。


検索欄に、あの言葉を入れる。


――すけべ。

好色であること。また、そのような人。


エルザは、三秒、その説明文を見つめた。


それから、端末を閉じた。


耳が、熱かった。

自分が昨日、何百人もの住人が窓から見ている前で、いったい何を叫んだのか。

意味を知ったとたん、昨日の広場の光景が、まったく違うものに見えてきた。


――いいえ。


あれは、感染による一時的な誤作動だ。

意味など、関係ない。


関係ないはずなのに、保管庫を出るまで、心拍は九十を下回らなかった。


☆☆☆


「指揮官は、君だ」


司令室で、朱崎監査官はあっさりと言った。


エルザは、まばたきをひとつした。


「私は、昨日、確保に失敗しました」


「知っている」


「廃語を、口にしました。記録も残っています」


「それも知っている」


朱崎は、窓の外を見たまま、楽しそうに言った。


「だからこそ、だよ。明後日の一斉再審査、第七街区の全住人を、君の手で審査しろ。基準を満たさない者は、その場で校正だ」


「……理由を、伺ってもよろしいですか」


「あの男は、必ず来る。そして、君の前に立つ」


朱崎は、ようやく振り返った。


「君があの男に何をされたのか。あの男が君に何を見たのか。私は、それを見てみたいんだ。――餌は、目立つほうがいい」


その目は、赤いペンの先のように、細く光っていた。


「ああ、それと」


朱崎は、机の上の書類を一枚、指で叩いた。


「君のスコアは、八百九十八。上層区の基準まで、あと九十八だ。もし当日、君がまた廃語を口にしたら――ロゴスは、君をどう分類するだろうね」


「口にしません」


「そう願っているよ」


朱崎は、笑った。

エルザは笑わなかった。

笑う理由は、やはり見つからなかった。


「了解しました」


エルザは一礼した。


昇降機の中で、ひとりになった。


扉が閉まった瞬間、唇が、勝手に動いた。


「この、ス――」


エルザは、両手で自分の口を押さえた。

指の隙間から、熱い息だけがこぼれた。


言葉は、そこで止まった。

最後まで言わなければ、チップは廃語と判定しない。


鏡張りの壁に、自分の顔が映っていた。


頬が、赤かった。


昇降機が止まるまで、エルザは、その顔から目をそらせなかった。


最後までお読みいただきありがとうございました。

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