このスケベ!【後半】
なんだ、今のは。
石畳の上に転がったまま、俺は自分の胸の中を確かめた。
怖かったわけじゃない。
腹が立ったわけでもない。
あの完璧な顔が、髪の毛一本で、ほんの少しだけ揺れた。
その揺れを見た瞬間、俺の腹の底で、何かがはっきりと、うれしいと言った。
もっと見たい、と言った。
五年間、俺は、この街の「整った顔」が大嫌いだった。
会釈の角度まで揃った、何も感じていない顔。
ハナの額に手を当てたときの、あの見習い校閲官の、銀色の面の下の、見えない顔。
その整った顔が、崩れる瞬間。
そこからしか、人間の本当の顔は出てこない。
……いや、待て。
それにしても、今のぞくっとしたのは、さすがに理屈が後からついてきすぎじゃないか。
俺は、自分にかなり真剣に引いた。
でも、腹の底の熱は、もう引かなかった。
待ちに待ったものが、やっと来た。
五年間、見たくて見たくてたまらなかったものの、ほんの端っこが、今、目の前にある。
ポケットの奥で、排水路で拾った緑の結晶が、熱を持った。
――キタ、コレ。
あの残響の声が、腹の底の熱と、ぴったり重なった。
俺は石畳を蹴って起き上がり、エルザの顔をまっすぐ見て、叫んだ。
「キタコレッ!!」
緑の文字が、俺の口からあふれ出した。
今まで一度も使ったことのない言葉だ。
チョベリバより、ずっと太い。
「訂正します」
エルザが、指を立てた。
「『キタコレ』。来た、これ。標準語訳――『期待していたものが――』」
そこで、声が止まった。
「『期待して、いた、ものが……到来、した……』」
エルザの指が、宙で止まっていた。
「期待……待ち望む……」
あいつの唇が、言葉を探して、動いていた。
「待ち望んだもの……私が……?」
――訳せないんだ。
こいつは、何かを待ち望んだことがない。
五時に起きて、四十二秒で髪をまとめて、白い固形食を三十回噛んで、言われた任務をこなしてきた。
欲しいものなんて、たぶん、一度もなかった。
だから、待ちに待ったものが来たときの、腹の底が爆発するような気持ちを、知らない。
緑の文字が、エルザの胸に、まっすぐ飛びこんだ。
『警告。スーツ内部に、未定義の感情を検知』
スーツの音声が鳴った。
エルザが、一歩、よろめいた。
「これは……」
白い手袋が、自分の胸を押さえた。
「何、ですか。体温、上昇。心拍、上昇。原因が……特定、できません」
頬が、赤くなっていく。
最初は、ほんのり。
それから、耳の先まで。
完璧に整っていたはずの顔の上で、色が勝手に広がっていく。
青い目が、焦点を失って、うるんでいた。
唇が、半分開いたまま、震えていた。
ぼうっと、熱に浮かされたみたいな顔だった。
――初めての感情を、どう処理していいかわからない人間の顔だった。
「訂正……訂正、します……私の、顔は、通常の――」
「通常じゃねえよ」
俺は、一歩踏みこんだ。
「顔、真っ赤だぞ」
「――っ」
「眉、下がってる。目、うるんでる。さっきから、声、半音上がってる」
一つ言うたびに、エルザの肩がびくっと跳ねた。
死語でもなんでもない、ただの標準語だ。
それなのに、効いている。
言われるたびに、あいつの顔の上で、何かがひとつずつ崩れていく。
「やめて、ください……観察は、推奨、されません……」
「推奨されなくても見るよ」
俺は、自分の声が笑っていることに気づいた。
最低だ、と思った。本気で思った。
でも、目をそらせなかった。
これは、悪意じゃない。
……たぶん、悪意じゃない。
この女の、どんな言葉でも訂正できない顔が、見たい。
六日前、ガラスの上で俺を見下ろしていた、何もない顔の下に、ちゃんと何かがあったのだと、確かめたい。
それが、こんなに――胸が躍ることだなんて、思わなかった。
『警告。感情値、上限を超過。フィルタースーツ、一部機能を停止します』
白と紺のスーツの、高い襟が、光った。
襟から左の袖にかけて、スーツを編んでいた文字がほどけ、光る粒になって舞い上がっていく。
左の肩から腕までが、ほどけた文字の光に包まれた。
きっちりまとめていた銀色の髪が、ばさりと全部ほどけて、背中に落ちた。
正直に言う。俺は、肩なんか見ていなかった。
見ていたのは、顔だった。
真っ赤になって、目に涙をためて、ほどけた髪の中で、何を言えばいいのかわからなくなっている顔。
その顔が、何かをこらえきれなくなって、叫んだ。
「こ、この……スケベッ!!」
広場が、静まりかえった。
エルザは、自分の口を、両手で押さえた。
『廃語を検知。発話者、エルザ・ノルム。減点、百。現在スコア、八百九十八』
スーツの音声が、淡々と告げた。
『なお、一等治安官の対応中につき、粛清は保留されます。本件は記録されます』
エルザの目が、まんまるに見開かれていた。
「私、が……今……」
「……言ったな」
「言って、いません」
「言ったよ。思いっきり」
「訂正、します……今のは……」
訂正は、出てこなかった。
あいつは、自分が今口にした言葉を、訳すことができなかった。
エルザは、ほどけた左袖を右手でつかんだまま、一歩、二歩、あとずさった。
「……撤退、します」
それは、たぶん、エルザ・ノルムの経歴で初めての撤退だった。
降下艇が下りてくる。
乗りこむ直前、エルザは振り返った。真っ赤な顔のまま、それでも背筋だけは、まっすぐに伸ばして。
「灰村、瓊心。次は――必ず、訂正します」
その声は、半音、上ずっていた。
降下艇が、朝の空へ消えていった。
☆☆☆
俺は、広場の真ん中に、ぺたんと座りこんだ。
勝った、のか。たぶん、勝った。
なのに、顔が熱い。
手で触ると、口の端が、まだ上がっていた。俺は戦っているあいだじゅう、ずっと、笑っていたらしい。
「……楽しそうだった」
背中から、声がした。
振り返ると、屋台の陰に、カナがしゃがんでいた。
缶コーヒーを両手で持って、ものすごく冷たい目で、俺を見ている。
「いつからいた」
「最初から。見張り」
カナは、ずずっと缶をすすった。
「顔、ずっと見てた。あの人の」
「……カナ」
俺は、かなり真剣な顔で言った。
「俺、もしかして、とんでもなく変な趣味に目覚めたかもしれない」
「知ってた」
「知ってたのかよ!」
「ずっと前から観察してるから。いつか、こうなると思ってた」
カナは、缶を持ったまま立ち上がった。
「……私の方が、先に見つけたのに」
そう言い残して、カナはすたすたと路地に帰っていった。
一人残された広場で、俺は空を見上げた。
再審査まで、あと三日。
――あの顔が、また見たい。
その考えが頭に浮かんだ瞬間、俺は、両手で自分の顔を覆った。
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