↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バグワード・バザー〜死語しか使えない底辺の俺が、完璧な管理都市をチョベリバにしてやる〜  作者: 則本潮


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/81

このスケベ!【後半】

なんだ、今のは。


石畳の上に転がったまま、俺は自分の胸の中を確かめた。


怖かったわけじゃない。

腹が立ったわけでもない。


あの完璧な顔が、髪の毛一本で、ほんの少しだけ揺れた。

その揺れを見た瞬間、俺の腹の底で、何かがはっきりと、うれしいと言った。


もっと見たい、と言った。


五年間、俺は、この街の「整った顔」が大嫌いだった。

会釈の角度まで揃った、何も感じていない顔。

ハナの額に手を当てたときの、あの見習い校閲官の、銀色の面の下の、見えない顔。


その整った顔が、崩れる瞬間。


そこからしか、人間の本当の顔は出てこない。


……いや、待て。

それにしても、今のぞくっとしたのは、さすがに理屈が後からついてきすぎじゃないか。


俺は、自分にかなり真剣に引いた。


でも、腹の底の熱は、もう引かなかった。

待ちに待ったものが、やっと来た。

五年間、見たくて見たくてたまらなかったものの、ほんの端っこが、今、目の前にある。


ポケットの奥で、排水路で拾った緑の結晶が、熱を持った。


――キタ、コレ。


あの残響の声が、腹の底の熱と、ぴったり重なった。


俺は石畳を蹴って起き上がり、エルザの顔をまっすぐ見て、叫んだ。


「キタコレッ!!」


緑の文字が、俺の口からあふれ出した。

今まで一度も使ったことのない言葉だ。

チョベリバより、ずっと太い。


「訂正します」


エルザが、指を立てた。


「『キタコレ』。来た、これ。標準語訳――『期待していたものが――』」


そこで、声が止まった。


「『期待して、いた、ものが……到来、した……』」


エルザの指が、宙で止まっていた。


「期待……待ち望む……」


あいつの唇が、言葉を探して、動いていた。


「待ち望んだもの……私が……?」


――訳せないんだ。


こいつは、何かを待ち望んだことがない。

五時に起きて、四十二秒で髪をまとめて、白い固形食を三十回噛んで、言われた任務をこなしてきた。

欲しいものなんて、たぶん、一度もなかった。


だから、待ちに待ったものが来たときの、腹の底が爆発するような気持ちを、知らない。


緑の文字が、エルザの胸に、まっすぐ飛びこんだ。


『警告。スーツ内部に、未定義の感情を検知』


スーツの音声が鳴った。


エルザが、一歩、よろめいた。


「これは……」


白い手袋が、自分の胸を押さえた。


「何、ですか。体温、上昇。心拍、上昇。原因が……特定、できません」


頬が、赤くなっていく。


最初は、ほんのり。

それから、耳の先まで。

完璧に整っていたはずの顔の上で、色が勝手に広がっていく。

青い目が、焦点を失って、うるんでいた。

唇が、半分開いたまま、震えていた。


ぼうっと、熱に浮かされたみたいな顔だった。


――初めての感情を、どう処理していいかわからない人間の顔だった。


「訂正……訂正、します……私の、顔は、通常の――」


「通常じゃねえよ」


俺は、一歩踏みこんだ。


「顔、真っ赤だぞ」


「――っ」


「眉、下がってる。目、うるんでる。さっきから、声、半音上がってる」


一つ言うたびに、エルザの肩がびくっと跳ねた。

死語でもなんでもない、ただの標準語だ。

それなのに、効いている。

言われるたびに、あいつの顔の上で、何かがひとつずつ崩れていく。


「やめて、ください……観察は、推奨、されません……」


「推奨されなくても見るよ」


俺は、自分の声が笑っていることに気づいた。


最低だ、と思った。本気で思った。


でも、目をそらせなかった。


これは、悪意じゃない。

……たぶん、悪意じゃない。

この女の、どんな言葉でも訂正できない顔が、見たい。

六日前、ガラスの上で俺を見下ろしていた、何もない顔の下に、ちゃんと何かがあったのだと、確かめたい。


それが、こんなに――胸が躍ることだなんて、思わなかった。


『警告。感情値、上限を超過。フィルタースーツ、一部機能を停止します』


白と紺のスーツの、高い襟が、光った。


襟から左の袖にかけて、スーツを編んでいた文字がほどけ、光る粒になって舞い上がっていく。

左の肩から腕までが、ほどけた文字の光に包まれた。

きっちりまとめていた銀色の髪が、ばさりと全部ほどけて、背中に落ちた。


正直に言う。俺は、肩なんか見ていなかった。


見ていたのは、顔だった。


真っ赤になって、目に涙をためて、ほどけた髪の中で、何を言えばいいのかわからなくなっている顔。


その顔が、何かをこらえきれなくなって、叫んだ。


「こ、この……スケベッ!!」


広場が、静まりかえった。


エルザは、自分の口を、両手で押さえた。


『廃語を検知。発話者、エルザ・ノルム。減点、百。現在スコア、八百九十八』


スーツの音声が、淡々と告げた。


『なお、一等治安官の対応中につき、粛清は保留されます。本件は記録されます』


エルザの目が、まんまるに見開かれていた。


「私、が……今……」


「……言ったな」


「言って、いません」


「言ったよ。思いっきり」


「訂正、します……今のは……」


訂正は、出てこなかった。


あいつは、自分が今口にした言葉を、訳すことができなかった。


エルザは、ほどけた左袖を右手でつかんだまま、一歩、二歩、あとずさった。


「……撤退、します」


それは、たぶん、エルザ・ノルムの経歴で初めての撤退だった。


降下艇が下りてくる。

乗りこむ直前、エルザは振り返った。真っ赤な顔のまま、それでも背筋だけは、まっすぐに伸ばして。


「灰村、瓊心。次は――必ず、訂正します」


その声は、半音、上ずっていた。


降下艇が、朝の空へ消えていった。


☆☆☆


俺は、広場の真ん中に、ぺたんと座りこんだ。


勝った、のか。たぶん、勝った。


なのに、顔が熱い。

手で触ると、口の端が、まだ上がっていた。俺は戦っているあいだじゅう、ずっと、笑っていたらしい。


「……楽しそうだった」


背中から、声がした。


振り返ると、屋台の陰に、カナがしゃがんでいた。

缶コーヒーを両手で持って、ものすごく冷たい目で、俺を見ている。


「いつからいた」


「最初から。見張り」


カナは、ずずっと缶をすすった。


「顔、ずっと見てた。あの人の」


「……カナ」


俺は、かなり真剣な顔で言った。


「俺、もしかして、とんでもなく変な趣味に目覚めたかもしれない」


「知ってた」


「知ってたのかよ!」


「ずっと前から観察してるから。いつか、こうなると思ってた」


カナは、缶を持ったまま立ち上がった。


「……私の方が、先に見つけたのに」


そう言い残して、カナはすたすたと路地に帰っていった。


一人残された広場で、俺は空を見上げた。


再審査まで、あと三日。


――あの顔が、また見たい。


その考えが頭に浮かんだ瞬間、俺は、両手で自分の顔を覆った。


最後までお読みいただきありがとうございました。

よろしければ、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。