このスケベ!【中盤】
戸を開けたら、路地に一等治安官が立っていた。
夜明けの、まだ青い光の中だった。
白と紺のスーツ。
一本の乱れもない銀色の髪。
降下艇が、屋根の上の空で音もなく浮いている。
「おはようございます」
エルザ・ノルムは、きっちり三十度、頭を下げた。
「灰村、瓊心」
俺は、固まった。
瓊
こいつ、今、ちゃんと読んだ。
端末が文字化けさせる、あの字を。
「……なんで、読めるんだよ」
「業務上、調べました」
それだけ言って、エルザは顔を上げた。
表情は、やっぱり何もない。
背中に、冷たい汗が流れた。
ここは、俺の家の前だ。
家の中では、昨日助けた爺さんが、まだいびきをかいて寝ている。
床下には、カナがいる。
煙幕は、あと六本。
あいつの裏口は、二日続けて使って、そろそろ足がつきかけている。
これ以上、あいつを巻きこむわけにはいかない。
「場所、変えようぜ」
「なぜですか」
「朝っぱらから人んちの前で騒ぐのは、推奨されねえだろ」
エルザは、二秒ほど俺の顔を見た。
「了解しました」
素直かよ。調子が狂う。
俺は路地を出て、市場の広場まで歩いた。
エルザは、きっちり三歩うしろをついてきた。
歩きながら、俺は頭の中で在庫を数えた。
チョベリバ。超MM。マジ卍。激おこぷんぷん丸。超マジムカつく。ムカ着火ファイヤー。カム着火インフェルノ。チョベリグ。夜のあいだに小GCが回って、どれも今日はまだ一発目だ。
それから、排水路で拾った、まだ一度も使っていないキタコレ。
そして、ポケットの奥に、MK5。
MK5は、使わない。バザーの店主は、使い方は二つあると言った。
その二つが何なのか、俺はまだわかっていない。わからない切り札を、わからないまま切るわけにはいかない。
市場の手前で、魚売りの婆さんの家の窓が、そっと細く開いた。
しわだらけの手が、窓の隙間から、ぐっと親指を立てた。
がんばれ、ということらしい。いや、今、それどころじゃないんだが。
でも、ちょっとだけ、肩の力が抜けた。
夜明けの広場は、がらんとしていた。
屋台はまだ閉まっている。
でも、まわりの家の窓のあちこちに、人の気配がある。
息をひそめて、こっちを見ている。
「先に言っておきます」
広場の真ん中で、エルザが立ち止まった。
「一等治安官が対応しているあいだ、粛清の光は保留されます。ですから、周囲の住人に危険はありません」
「……親切だな」
「規則です」
エルザは、続けた。
「本日の目的は、あなたの確保のみです。あなたの語彙は、すべて記録済みです。抵抗は、推奨されません」
それから、エルザは俺の格好を上から下まで見た。
「その白衣は、サイズが不適切です」
「うるせえ! ジャージが帰ってこねえんだよ!」
骨格標本みたいな格好のまま、俺は一歩前に出た。
六日前は、何もできずに負けた。
今日は違う。いや、違うと言えるほどのものは、たぶん何もない。
でも、言うだけなら、タダだ。
ずっと考えていた台詞があった。
いつか、こういう日が来たら言ってやろうと思っていた台詞だ。
「おまえはまだ、本当の『言葉』を知らない」
腹の底から、声を出す。
「そのお綺麗な標準語――メチャクチャにしてやるよ!」
エルザは、まばたきをひとつした。
「宣戦布告と判断します」
「チョベリバッ!!」
青い文字が飛ぶ。
「訂正します。『非常に悪い』」
青い文字は、エルザの指先の手前で、霧になって消えた。
想定どおりだ。本命は、こっちだ。
昨日、爺さんを吊り下げたドローンの声を思い出す。
心穏やかに過ごせます。
言葉に苦しむことはありません。
腹の底に、まだあのときの熱が残っている。
「超、マジ、ムカつく!」
紫の文字。
「訂正します。『非常に不快です』」
「激おこ、ぷんぷん丸ッ!」
赤い文字。
「訂正します。『強い憤りを感じています』」
「ムカ着火、ファイヤーッ!!」
燃える文字が、エルザに向かって渦を巻いた。
エルザは、よけなかった。
「訂正します。『怒りが着火し、炎上している状態です』」
炎の文字が、真ん中からほどけて、朝の空気に溶けた。
階段が、崩れた。一段目から三段目まで、全部、訳されて潰された。
四段目に上がるための足場が、もうない。
「なんで……昨日のやつまで……」
「記録を読みました。怒りの言葉は、訳しやすいのです」
エルザは、淡々と言った。
「私が訂正してきた人は、みな、最後に怒っていましたから」
その言葉に、背筋が冷えた。
次の瞬間、視界がひっくり返った。
六日前と同じだった。
足首を払われて、俺は市場の石畳に仰向けに転がっていた。
見上げた空の真ん中に、エルザの顔があった。
――でも、六日前と、ひとつだけ違った。
さっきのムカ着火の熱風で、エルザの銀色の髪が、ひと房だけほどけていた。
こめかみから頬にかけて、細い髪が一本、二本、垂れている。
エルザは、それに気づいた。
白い手袋の指が、髪に伸びる。
押さえる。戻らない。
その瞬間、あいつの眉が、ほんの一ミリだけ、寄った。
完璧な顔に、ほんの一ミリの、ひびが入った。
俺の背中を、何かが、ぞくっと駆け上がった。
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