このスケベ!【前半】
五時0分0秒。エルザ・ノルムは目を開けた。
白い天井。白い壁。昨日と同じ朝だった。
少なくとも、彼女はそう確認しようとした。
鏡の前で髪をまとめる。
銀色の髪を、一本の乱れもなく。
所要時間、四十二秒。
――四十四秒。
二秒、遅れていた。
エルザは鏡の中の自分を見た。
どこにも乱れはない。
それでも、指が一度だけ、同じ毛束を結び直していた。
なぜ結び直したのか、思い出せなかった。
『おはようございます、エルザ・ノルム。本日の言語信用スコア、九百九十八』
「おはようございます」
声の高さは、いつもと同じだった。
☆☆☆
校閲局の司令室で、朱崎監査官は窓の外を眺めていた。
「昨日、第七街区で護送機が三機落とされた」
振り返りもせずに、朱崎は言った。
「スコア零の老人を、移送中にだ。直後に、その老人の減点が『誤検知』として取り消されている。一昨日にも、上層区のある家の娘のスコアが、同じように書き換えられた」
「綺羅星家の三女ですね。私の二期下です。無許可で下層区へ降りた件は、報告を受けています。綺羅星家からは、本人の外出記録を消してほしいという要望も届いています」
「本人は『散歩をしていただけ』だそうだ。ジャージを抱えてな」
朱崎の口の端が、わずかに上がった。
この人がこういう顔をするとき、局員は誰も目を合わせない。
「ノルム一等治安官。再審査まで、あと三日だ。それまでに、廃語の男を確保しろ。指揮官の人選は、その結果を見て決める」
「了解しました」
「二度目の失敗は、記録に残る」
「承知しています。前回の失敗も、すでに記録されています」
エルザは一礼して、司令室を出た。
自分の机に戻ると、端末に昨日の記録を呼び出した。
護送機が最後に送ってきた音声だ。
『超、マジ、ムカつく』
『激おこ、ぷんぷん丸』
『ムカ着火、ファイヤー』
『カム着火、インフェルノォォォォウ』
怒りの言葉が、一段ずつ重なっていく。
重なるたびに、威力が上がっている。
エルザは、ひとつずつ標準語訳を書きこんでいった。
迷う必要はなかった。
怒りなら、よく知っている。
彼女が訂正してきた人々は、ほとんど全員が、最後の瞬間に怒っていた。
目を見開き、歯を食いしばり、言葉にならない音を出した。
その顔を、エルザは何百回も記録してきた。
自分で感じたことは、一度もない。それでも、記録としてなら、知っている。
訳せる。全部。
それから、メモ欄を開いた。
「未処理事項:二件」
一件目は、「チョベリバ」
もう訳し終えたのに、なぜか消していなかった。
二件目は、名前だった。
灰村■心。
エルザは、六日前、あの男の口から聞いた字を思い出した。
瓊辞書にない字。
彼女は昨夜、校閲局の古い保管庫で、大校正以前の字書の記録を調べていた。
業務上の必要がある、と自分には説明した。
――瓊。赤く、美しい、玉。
ロゴスは、使う人間が少ないという理由で、その字を捨てた。
美しい玉を、捨てた。
その事実を確認したとき、胸のどこかが、ほんの少しだけ引っかかった。
何に引っかかったのかは、わからない。
わからないことは、記録しない。それが規則だった。
エルザは端末を閉じた。
それから、誰もいない会議室に入り、扉を閉めた。
「訂正します」
声に出して、言ってみる。
「訂正します。『非常に悪い』訂正します。『強い憤りを感じています』訂正します。『怒りが着火し、炎上している状態です』」
一語ずつ、正確に。
速度を上げて、もう一度。
三度目には、廃語を聞いてから訳し終えるまで、0・八秒を切った。前回の戦闘より、0・三秒速い。
訓練の記録をつける。問題なし。
ただ、記録の最後に、彼女は一行だけ書き足しそうになって、やめた。
――あの男は、なぜ、あんなに必死なのか。
必死、という言葉が正しいのかも、エルザにはわからなかった。
六日前、ガラスの上に転がったあの男の顔は、泥だらけで、息が上がっていて、それでも目だけが、何かをあきらめていなかった。
上層区で、あんな顔をする人間を、彼女は見たことがない。
見たことのないものは、分類できない。
分類できないものは、訂正できない。
だから、捕まえて、解析する。それだけだ。
エルザは会議室を出た。
護送機の記録には、もうひとつ情報があった。
白衣を着た若い男が、第七街区の路地から、老人の家の前から走りだしている映像。
あの男の家は、その路地のどこかにある。
チップが壊れている人間は、住民名簿に位置が出ない。
だから、ドローンでは追いきれない。
けれど、人間には習慣がある。
あの男は、二度とも同じ排水路に逃げこみ、昨日は同じ路地から走りだした。
夜明け前に路地で待てば、出てくる。
単純な推論だった。
推論が単純なときほど、外れない。それが、エルザが十七歳のときから守ってきた経験則だった。
降下艇に乗りこむとき、窓ガラスに自分の顔が映った。
いつもと同じ顔だった。
髪の毛が一本だけ、こめかみのところで、浮いていた。
エルザはそれを、指で押さえた。押さえても、戻らなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
DMをくれる読者様ありがとうございます。
色々参考にしてみます。誰がヒロインになるかなー。
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