チョベリグは褒め言葉【中盤】
路地に出ると、白い卵形のドローンが三機、隣のバラックの前に浮かんでいた。
ふつうのドローンより、ひとまわり大きい。
腹の下に、太いアームが二本ずつ折りたたまれている。
戸口には、ラジ爺が立っていた。
その後ろに、タクトがいる。
今朝も死語の授業を受けに来ていたのだ。
タクトは爺さんの服の裾をぎゅっと握って、真っ青な顔をしていた。
『事前聴取を開始します』
鈴みたいな声が、路地に響いた。
『対象、波多野。次の定型文を、復唱してください。「本日も、正しい言葉で過ごします」』
ラジ爺は、口を開かなかった。
この爺さんは、いつも地面に字を書く。
俺はこの十一年、爺さんの声を一度も聞いたことがない。
古い言葉がうっかり口からこぼれるのが怖いから、しゃべらないことにしている。
いつだったか、地面にそう書いてあった。
『復唱してください』
ドローンが、ずいっと爺さんに近づいた。
そのとき、爺さんの後ろで、タクトが一歩前に出た。
小さな拳が震えていた。
顔が真っ赤だった。
爺さんがいじめられていると思ったのだ。
その顔は、知っている。
この前、俺が教えた顔だ。
――死語は、本気のときにしか使うな。
本気だった。九歳の、本気の顔だった。
「チョベ――」
「待――」
俺が叫ぶより早く、ラジ爺の手が、タクトの口をふさいだ。
そして、爺さんは、ドローンに向かって口を開いた。
「……ナウなヤングに、バカウケ」
低くて、かすれた声だった。
棒読みだった。
何の感情も乗っていなかった。
昔、ラジオで何千回も言った決まり文句を、ただ音にしただけ、という声。
だから、聴音網は反応しなかった。
空は光らない。
タクトが言いかけた二文字も、言葉になる前に止まっていた。
でも、チップは、小さな声も聞き逃さない。
『検出語、「ナウなヤングにバカウケ」。分類、廃語。減点、百。現在スコア、零』
路地の空気が、凍った。
『対象、波多野。スコア零を確認。校正所へ移送します』
三機のドローンのアームが、がしゃん、と開いた。
『安心してください。痛みは、ありません』
アームが、爺さんの両腕と腰をつかんだ。
七十二歳の痩せた体が、あっけなく地面から浮き上がる。
タクトが、声にならない声を上げて、爺さんの足にしがみつこうとした。
爺さんは、その手を、足でそっと押し戻した。
それから、爺さんは俺のほうを見た。
首を、横に振った。
来るな。
そう言っていた。
――五年前と、同じだった。
あの日のハナも、こうやって俺を見て、首を横に振った。
俺の名前を言わなかった。
俺は、地面に縫いつけられたみたいに、一歩も動けなかった。
足が、震えていた。
今度も、動けないのか。
「……ふざけんな」
今度は、足が動いた。
ドローンは爺さんを吊り下げたまま、東の空へ上がっていく。
路地のあちこちで、戸が細く開いていた。
隣の家の窓。向かいの軒下。
住人たちが、息を殺してこっちを見ている。
誰も、声を出さない。出せない。出したら、次に吊られるのは自分だ。
魚売りの婆さんが、戸口で両手を口に当てて立ちつくしていた。
その手が、震えていた。
この街の人間は、みんな、こうやって見送ってきたのだ。
ハナのときも。たぶん、その前も、ずっと。
校正所は、上層区との境目にある。
あそこに着いたら、もう終わりだ。
「ケイシン!」
背中から、カナが走ってきた。白衣の裾をばたばたさせて、もう息が上がっている。
「減点、取り消せるか」
「できる。今日はまだ使ってない。でも、百メートル以内に入らないと、書き換えられない」
ドローンとの距離は、もう百メートルを超えかけていた。
「私、足遅い」
「知ってる。この四日間で、だいたいわかった」
俺はカナの腕をつかんで、そのまま背中に担ぎ上げた。
驚くほど軽かった。
「ちょ、ちょっと」
「舌かむぞ。しっかりつかまってろ」
「……二十五歳です」
「今それ関係ねえ!」
走りだす前に、一度だけ叫んだ。
「タクト!」
「家に入ってろ! 爺さんは、俺が連れて帰る!」
返事はなかった。
でも、背後で、小さな足音が戸口のほうへ駆けていくのが聞こえた。
約束を守るやつだ。あいつは、ちゃんと待っている。
カナを背負ったまま、俺は路地を駆けだした。
ドローンは、ゴミ山の上をまっすぐ東へ飛んでいく。
俺はガラス片と錆びた鉄の斜面を、カナを背負ったまま駆け上がった。
距離が縮まらない。向こうは空を飛んでいて、こっちは足だ。
「あと、百二十メートル」
背中で、カナが言った。
足止めしかない。
ここは東のはずれのゴミ山だ。家は一軒もない。
光が落ちても、巻きこまれるのは俺たちだけだ。
腹の底に、息を集める。
「チョベリバッ!!」
青い文字が、空に向かって飛んだ。
先頭のドローンの横腹に当たって、機体がぐらりと傾く。
でも、落ちない。
『護送機、損傷軽微。移送を継続します』
硬い。ふつうのドローンとは、装甲の厚さが違う。
人間を運ぶための機体だ。
落とさないように、壊れないように、念入りに作られている。
そして、遠くの空で、あの鈴の音が鳴った。
『第七街区東部にて、廃語を検知。三百秒後に、粛清を執行します』
カウントが始まった。
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