チョベリグは褒め言葉【前半】
朝、目が覚めたら、着る服がなかった。
正確には、上に着るものがなかった。
下層区に落ちてきてから十一年、俺の上着は、ゴミ山で拾ったあのジャージ一枚きりだ。
そのジャージは、昨日、上層区のお嬢様が持って帰った。
「洗ってお返ししますわ」
あいつはそう言った。
言ったが、いつ返すとは言っていない。
「……寒っ」
上半身裸で布団から這い出すと、床板が一枚、ぱかっと持ち上がった。
「おはよう」
カナが顔を出した。それから、俺の格好を上から下まで眺めて、床下に引っこんだ。
しばらくして、白いものがにゅっと突き出された。
「貸してあげる」
白衣だった。
カナがいつも着ている、ぶかぶかの白衣の予備。
背に腹は代えられない。俺は白衣に腕を通した。
袖が、ひじまでしかなかった。
前は閉まらない。
裾は腰のあたりで止まっている。
鏡なんて上等なものはこの家にないが、見なくてもわかった。
今の俺は、理科室の隅に立っている骨格標本みたいな格好をしている。
「……似合う」
「嘘つけ」
「ほんと。研究対象っぽい」
「それ褒めてねえだろ」
「褒めてる。私は、研究対象が好き」
「余計に怖えよ」
カナは床下で、缶コーヒーをぷしゅっと開けた。
この四日間で、俺たちのあいだには、いくつかの決まりができた。
一つ。床板を開けるときは、二回ノックする。
二つ。俺が着替えるときは、カナは床下にいる。
三つ。カナの缶コーヒーの空き缶を、勝手に捨てない。あれは全部、煙幕の材料だ。
四つ。寝顔の感想は、口に出さない。
四つ目は、一日目の夜に俺が追加した。今のところ、守られているのは二つ目と三つ目だけだ。
「……おまえ、今ノックしたか」
「した。心の中で」
「心の中のノックは数えねえよ」
朝飯は、昨日の残りの干し芋だった。
カナは缶コーヒーしか口にしない。
一度、干し芋を半分差し出したら、一口かじって「……甘い」と言ったきり、床下に返してきた。
二十五歳の胃袋は、苦いものしか受けつけないらしい。
「褒めるといえば」
嫌な予感がした。
「昨日の話、覚えてる?」
「何の話だよ」
「チョベリグ。私、まだ一回も言われたことない」
やっぱり、そこに来た。
カナは床から上半身だけ出して、両手で缶を持ったまま、じっと俺を見上げている。
目の下のクマが、いつもより期待に満ちている気がした。
「……言えばいいんだろ、言えば」
俺は腕を組んで、考えた。
本気で褒める。本気で。
こいつの、いいところ。
「……雨漏り、直してくれて、助かった」
「うん」
「あと、俺のこと、何回か助けてくれた」
「うん」
「あと……コーヒーの空き缶で、煙幕を作れる」
「うん」
「だから……チョ、チョベリ――」
喉の手前で、言葉が止まった。
出てこない。嘘じゃない。全部本当のことだ。
でも、本当のことを並べただけで、腹の底が全然熱くならない。
照れくさいのと、床下に半年住みついていた相手への「なんでだよ」が、まだ勝っている。
「……不発」
カナが判定した。
「うるせえ。朝から急に言われても無理なんだよ」
「お嬢様には言えたのに」
「あれは、その、たまたまだ」
「……私の方が、先に見つけたのに」
カナは小さくつぶやいて、床下に潜っていった。床板が、ぱたんと閉まる。
なんだか、ものすごく悪いことをした気分になった。
「……おい」
床板を、二回ノックした。返事はない。
「別に、おまえのこと褒めるとこがないって意味じゃねえからな」
返事はない。
「言葉ってのは、出そうと思って出すもんじゃねえんだよ。腹の底から勝手に出てくるもんで――」
床下から、缶をわざと大きな音ですする音がした。
聞いていない、という意思表示らしい。
俺はあきらめて、骨格標本の格好のまま、干し芋の残りをかじった。
☆☆☆
床下から、ざざっと雑音がした。
カナの「ラジオ」だ。
「……ケイシン」
さっきとは違う声だった。床板が、もう一度持ち上がる。
「今日、第七街区で、事前聴取がある」
「なんだそれ」
「再審査の前の下調べ。ドローンが一軒ずつ回って、住人に決まった言葉を言わせて、声を記録していく。スコアの低い人から順番に」
「言わせるだけなら、別にいいじゃねえか」
「言えれば、ね」
カナは、ラジオのつまみを少しだけ回した。
「声が震えたり、つっかえたりしたら、それだけで減点。黙っていても、減点。予測どおりの言葉を、予測どおりの声で言えない人から、ふるい落としていくの。再審査の本番で、誰を校正するか、もう選び始めてる」
スコアの低い人から。
頭に浮かんだ顔は、二つだった。
タクト。スコア、三十一。
それから、隣のバラックの爺さん。
「ラジ爺のスコア、いくつか知ってるか」
カナは、少しだけ黙った。
「……四十一。タクトより、十しか多くない」
ラジ爺は、しゃべらない。
しゃべらない人間は、事前聴取で何を言わされるのか。
その答えと同時に、窓の外から、羽音が聞こえた。
ひとつじゃない。いくつも。
路地の入り口から、こっちに向かって近づいてくる。
俺は、骨格標本みたいな白衣のまま、戸口に飛びついた。
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