モーレツですわー!【後半】
そのとき、すぐ後ろの暗がりから、ぼそっと声がした。
「チョベリグ」
カナだった。
また戻ってきていた。
「チョベリグは、攻撃じゃないから、訂正の対象にならない。事案記録にも、載ってない」
「ちょっと待て、チョベリグって」
「本気で、褒めるの」
俺は、目の前のお嬢様を見上げた。
泥だらけで、髪がしなびていて、さっきから俺を「重い」と罵っている、上層区の女。
本気で、褒める。
……こいつを?
「……お、お嬢様は、その、きれいですね」
何も起きなかった。
「当然ですわ」
ミヤビは、真顔で答えた。
「……今の、嘘」
暗がりから、カナの冷たい判定が飛んできた。
「じゃあ、えーと……髪が、くるくるしてて……ドリルみたいで、強そうだ」
「ドリル!?」
「……今の、悪口」
「胸が、でかい」
「なっ……!?」
「……今の、ただの感想」
「うるせえ! 急に言われても出てこねえんだよ!」
「な、何をごちゃごちゃおっしゃって――あっ」
真っ赤になったミヤビの手から、リボンの端がすべった。
勢いあまって、ミヤビが尻もちをつく。
その拍子に、俺の腰の布袋の口が開いて、中の結晶がばらばらと水の中にこぼれ落ちた。
青。紫。緑。赤。
流れに乗って、暗いほうへ転がっていく。
「いけません!」
ミヤビが叫んだ。
そして、泥水の中に、迷わず両手を突っこんだ。
ひとつ。ふたつ。
白い手袋が黒く汚れるのもかまわずに、流されていく結晶を、一個ずつすくい上げていく。
最後のひとつを、水路の段差のぎりぎりで捕まえて、ミヤビはほっと息をついた。
「……まあ。きれいな結晶ですこと。落としたら、もったいないですわ」
手のひらの上で光るゴミ字の結晶を見つめて、お嬢様は、うっとりと言った。
俺は、しばらく言葉が出なかった。
上層区の人間にとって、死語の結晶なんて、ただのゴミのはずだ。汚くて、危なくて、触ってはいけないもの。それを、この女は、きれいだと言った。泥水に手を突っこんで、ひとつ残らず拾い上げた。
五年間、俺はこの結晶を拾ってきた。
きれいだと思っていた。
でも、そんなことを口に出す人間には、一度も会ったことがなかった。
胸の奥で、何かが、かちっと音を立てた。
「――おまえ、わかってんじゃん。その結晶を、きれいだって言えるおまえは」
嘘じゃない。お世辞でもない。
腹の底から、言葉がせり上がってきた。
「チョベリグだッ!!」
金色の文字が、俺の口からあふれ出した。
『検出語、チョベ――……分類、不明。攻撃性、なし。訂正の、対象外』
金色の文字は、ミヤビの胸に、まっすぐ吸いこまれていった。
ミヤビは、ぽかんとした顔で、自分の胸を見下ろした。
それから、ゆっくりと、耳の先まで真っ赤になった。
「……い、今、わたくし……褒められましたの……? お姉さまにも、お母さまにも、一度も……生まれてから、一度も……」
『警告。感情値、上限を超過。警告。警告』
スーツのリボンが、ばちばちと火花を散らし始めた。俺を縛っていたリボンが、ゆるゆるとほどけていく。
「ち、違いますわ、これは、わたくしが負けたわけでは――」
混乱しきった頭が、養成院で習ったいちばん正しい答えを、必死で探しているのがわかった。
そして、お嬢様は叫んだ。
「くっ、殺せ……!」
「いや殺さねえよ!?」
『降伏定型文を受理。フィルタースーツを、強制解除します』
白と金のスーツが、ほどけた。
布が裂けたのではない。
スーツを編んでいた無数の文字が、ひと文字ずつばらばらになって、光る粒になって、排水路の天井へ舞い上がっていく。
まるで、逆さまに降る言葉の雨だった。
☆☆☆
ミヤビは、まだ気づいていなかった。
両手を胸に当てたまま、「褒められた」「生まれて初めて」と、うわごとみたいにくり返している。
トンネルの冷たい風が、ひゅう、と吹き抜けた。
「……あら? なんだか、すうすういたしますわね」
残っていたのは、白いレースの下着だけだった。
濡れたレースが、肌にぴったり張りついている。
持ち上げられていたスーツがなくなって、豊かな胸のふくらみが、レースの縁から、こぼれそうになっていた。
きゅっとくびれた腰。
水滴の伝う、白い太もも。
ブラの肩ひもの付け根に、スーツの部品がひとつだけ、ちょこんと引っかかって残っていた。
小さな、丸いスピーカー。
ミヤビは、自分の体を見下ろした。
それから、俺の視線の先を、目でなぞった。
胸もと。腰。太もも。
三つ目で、止まった。
「…………き」
「待て、見てねえ、見てねえから!」
「きゃあああああああですわーーーーっ!!」
悲鳴が、トンネルの中で、十回くらい跳ね返った。
ミヤビは、両腕で胸を抱えて、水の中にしゃがみこんだ。
「――つめたっ!!」
すぐに飛び上がった。排水路の水は、四日前の雨水だ。冷たいに決まっている。
飛び上がった拍子に、全身が、ランプの光の真下に、もう一度さらされた。
「見ないでくださいまし! 見ないでくださいましーっ!!」
両腕で胸を抱えて、ミヤビは、くるくるとその場で回った。回るたびに、隠しきれないところが、あっちこっちから見えた。
肩ひもの小さなスピーカーが、ぴこん、と鳴った。
『装着者の露出を検知。自動採寸を再開します。バスト、前回測定比、プラス一・五――』
「読み上げないでくださいましーっ!!」
「……一・五」
「復唱なさらないでーっ!!」
口がすべった。最悪だ。
「ま、まだ、殿方にお見せする予定など、ございませんでしたのに! せめて、もっと上等なのを着ている日なら――って、何を言わせますのーっ!!」
「誰も言わせてねえよ!!」
「このっ、このっ……!」
泥まみれの白い手袋が、ぺちっ、ぺちっと、俺の顔に二つ続けて飛んできた。
俺は目をそらし、ジャージを脱いで、後ろ向きのまま放り投げた。
ジャージは見事にお嬢様の頭にかぶさった。
もぞもぞと、着こむ音がした。
目をそらす直前に見た、真っ赤な顔だけが、なぜか、目に焼きついて離れなかった。
☆☆☆
「……あったかい、ですわ」
小さな声がした。
振り返ると、ジャージの襟から、ミヤビが真っ赤な顔だけを出していた。
俺には大きすぎるジャージは、ミヤビが着ると、太ももの半ばまで隠れていた。
袖に手が埋まっている。
「殿方の、においが、いたしますわ……」
「嗅ぐな」
ミヤビの目に、涙がにじんでいた。
褒められて、負けて、見られて、上着をかけられて。生まれて初めてのことが、いっぺんに、胸の中でぶつかり合っている顔だった。
標準語のどの棚にも、それをしまう場所がない顔だった。
ミヤビの唇が、震えた。
帽子箱の底で、何度もなぞった言葉。
声には出さずに、唇だけで転がしてきた言葉。
それが、口の外に、こぼれた。
「も……モーレツですわーっ!!」
排水路じゅうの古いランプが、いっせいに、まぶしく灯った。
俺は、固まった。
モーレツ。
昭和の言葉だ。
S級の化石。
俺は、その言葉を、こいつに教えていない。
「お、覚えてらっしゃい! ジャージは、洗ってお返ししますわーっ! それと、今日見たものは、全部、お忘れになってくださいましーっ!!」
我に返ったミヤビは、ジャージの裾を押さえて、ばしゃばしゃと水をはね上げながら走り出した。
高笑いのない背中が、光の中に消えていった。
静かになった排水路で、段差の陰から、カナがひょこっと顔を出した。
「あのお嬢様の減点、誤検知にしといた。今日の一回、使っちゃった」
「……なんで、そこまで」
「上層区の人がここで校正されたら、もっと大きな部隊が来る。……それに、モーレツは、いい言葉だから」
それから、ぷいっと横を向いた。
「……私の方が、先に見つけたのに」
「何をだよ」
「チョベリグ。私、まだ一回も言われたことない」
「おまえは缶コーヒー飲みすぎ」
「それは褒めてない。……あと、鼻の下、まだ伸びてる」
「伸びてねえ!」
俺は、上半身裸のまま、冷たい排水路でくしゃみをした。
再審査まで、あと五日。
拾った結晶は、お嬢様のおかげで全部無事だ。
それと、たぶん、変な知り合いがひとり増えた。
――モーレツ。
あのお嬢様は、どこであの言葉を覚えたんだろう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
書き直しー
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