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96.アリソンの一日

 作動した罠の痕跡が一面に残り、巨大な宮殿から死亡峡谷の入口まで延々と続いている。それを眺めながら、アリソンは両手を腰に当て、大きくため息をついた。


「はいはい、今やりますよ。こんなに広い領地なのに、エルフが五十人じゃ全然手が足りないって」


「罠の修復に物資の運搬、巡回と監視、それに各階層の守衛の問題にも対応しないといけないし、迷宮城の修築や改造まで手伝わなきゃならないんだから。長老と祭司は、いつになったらもっとエルフや亜人をこっちに寄越してくれるのかなあ。私も外へ遊びに……偵察に行きたいのに……」


 死亡峡谷の入口では、毎日交代でエルフが監視に当たっている。エルフ族が生まれつき備える並外れた視力があれば、普通の冒険者が気づかれずに侵入することなどほとんど不可能だった。


 そのため、外界からの侵入地点がすぐ視界の先にあるとはいえ、アリソンは誰かが突然現れるのではないかと心配する様子もなく、ぶつぶつ嘆きながら首を振り、諦めたように罠の修復を手伝い始めた。


 何時間も同じ退屈な作業を繰り返しているうちに、朝はあっという間に過ぎていった。


 空にある光神の輝きが最も強くなる頃には、死亡峡谷を満たす陰冷な気配さえいくらか薄れていた。今日は珍しく雲も大半が消えている。


 陽射しを浴びて身体が熱くなったアリソンは立ち上がり、額を伝う汗を拭うと、周囲の罠がすでに大半修復されているのを満足そうに眺め、そのまま弾むような足取りで老人のそばへ向かった。


「老バダ、そろそろ休憩だよ! エリカ様だって、適度に休んだ方がもっとたくさん働けるって言ってたんだから!」


「……あの方は、そんなことは言っていない」


 気温が上がり始めた正午になっても、老バダの異様に青白い顔にはまるで血の気がない。騒がしい変わり者のエルフに返事をしながらも、彼は真剣に罠の修復を続けていた。


「もう、細かいことは気にしないの。大事なのは仕事の進み具合でしょ? 予定より早く終わってるんだから、時間になったら休んでいいんだよ。古代宮殿の外にある罠はほとんど直したし、エリカ様だってこんな小さなこと気にしないって」


 老バダは手にしていた半ば腐敗し、壊死した死体をそっと置き、爆発罠の上へ慎重に載せる。


 それでも振り返ることなく、金属をこすり合わせるようなざらついた声で答えた。


「お前は休め。俺は作業を続ける」


 それを聞くと、アリソンはさらに身を寄せた。翠緑の瞳を好奇心でいっぱいにして老人をじっと見つめ、誰かに聞かれるのを恐れているかのように、わざと声を潜める。


「老バダ。毎日こんな退屈なことばっかりやって、そのうえ外から来る侵入者の相手までしてて、疲れたり嫌になったりしないの?」


「しない。命令だからだ」


「ふーん……じゃあ、その命令を全部終えたら、何がしたいの?」


「……次の命令を待つ」


 その答えを聞いたアリソンは、いつもの快活さには似つかわしくない奇妙な表情を浮かべ、意味ありげに老冒険者を見つめた。


「そっか。それじゃあ私は、この頑固なおじいちゃんを置いて先に休むことにするよ」


 そう言うと、アリソンはあっさり彼を放っておき、空へ向かって長い口笛を吹いた。いつもの鎌蜘蛛がやって来ると、軽く手を振って老バダに別れを告げ、一人と一匹の姿はたちまち山壁の間へ消えていった。


 うるさいエルフが去ったことを確かめてから、老バダはようやくゆっくりと顔を上げ、山壁の間を見つめた。


 老いた両目は冷たく、何の感情も浮かんでいない。


 何を考えているのかまるで読めない表情も変わらぬまま、巨大な地上宮殿の前に、ただ一人静かに立っていた。


 その頃、立ち去ったアリソンは鎌蜘蛛の高速移動によって、果てしなく連なる山壁の一角にある目立たない洞窟へ素早く飛び込んでいた。


 掘り抜かれた通路を進み、いくつもの鎌蜘蛛の巣を抜け、近道を使って下へ降りると、ほどなく蜘蛛の巣状に入り組んだ通路へたどり着く。


 頑張ってくれた鎌蜘蛛をぽんぽんと叩き、親しげに抱きついてから、アリソンは大いに褒めた。


「今日もお疲れさま! 私は良心的な飼い主だからね。絶対にエリ……みたいなことはしないから。あとでまたこっそり血肉の倉庫に連れていって、おやつを食べさせてあげる」


 約束の意味を理解したのか、鎌蜘蛛は嬉しそうに鎌腕を振った。それから糸を吐き出し、再び上へと登って蜘蛛の巣状の通路から出ていき、次に呼ばれる時を待つ。


 複雑な通路の中で進む方向を確認すると、アリソンは王座の間へ向き直った。


 朝、エルフたちの居住区を出た時からずっと背負っている荷物をぽんと叩き、自信たっぷりに自分を励ます。


「もうすぐ毎日の会議だ。大丈夫、絶対に外へ出る許可を勝ち取ってみせる!」


 計画さえ成功すれば、自分も外へ出る偵察任務を頼めるかもしれない。


 広い新天地をこの目で見られるかもしれないと思うだけで、足取りは自然と軽くなる。アリソンは楽しげな旋律を口ずさみながら、跳ねるように王座の間へ向かっていった。


 途中、蜘蛛の巣状の通路では、非番のエルフや、来たばかりの堕天使たちと何度も顔を合わせ、そのたびに互いに軽くうなずいて挨拶を交わした。


 双方は知性種族と悪魔種族という二つの異なる種族に属している。


 しかし若い世代である彼らは、一方が生命の出入りさえない光の高原で暮らし、もう一方が果てしない空の彼方に隠された蒼穹の島で暮らしてきたため、いわゆる代々の深い怨恨を実際に経験したことはほとんどなかった。


 最初こそ種族や歴史による隔たりはあったものの、エリカが強引に押さえつける中、さまざまな任務を通じて互いに意思疎通も協力もできると分かってからは、日常でも徐々に打ち解け始めている。


 中には笑いながら話を交わし、物や情報を融通し合う者までいた。


 その中でも、とりわけ目立っているのが、この変わり者で快活なエルフ、アリソンだった。


 どこへ行っても種族など気にせず誰にでも元気よく声をかけ、さほど親しくない相手とでも何かしら話題を見つけて話し込む。


 曲がり角や分岐を一つ越えるたび、誰かに捕まっては立ち止まり、楽しそうに笑っている姿が見られた。


 中でも、自分の倍ほどの背丈がある堕天使と話している時などは、一人が見上げ、一人が見下ろす姿がひときわ目立つ。


「アリソン。もうすぐ会議の時間だ。エリカ様をあまり待たせるな」


 曲がり角の向こうから、デヴィットの呆れた声が聞こえてきた。彼は毎日のように、こうして相手を急かしていた。


「あっ、話してたら忘れるところだった。これはまずいよ。私はエリカ様が一番目をかけてくださってる側近なんだから! ロクノス、また今度話そうね。次は絶対、蒼穹の島へどうやって行くのか教えてよ!」


「わかった」


 快活なエルフの一人で盛り上がった自画自賛を否定することもなく、大柄な堕天使は微笑みながらうなずき、いつ実現するとも知れない約束をあっさり受け入れた。


 そして、もう一人の美しいエルフへ軽くうなずいて挨拶する。


 続いて、二人のエルフと一人の堕天使は足早に先へ進んだ。


 王座の間へ近づくほど、合流する者も増えていく。


 挨拶の声もあちこちから飛び交い、さらに賑やかになっていったが、目的地へ到着すると、それまでの楽しげな騒ぎはぴたりと消えた。


 アリソンも例外ではない。


 一同は静かになり、順番に王座の間へ入っていく。


 四十名のエルフ戦士と十名の堕天使がそれぞれ列を整え、二つの玉座の前に立つエリカとヴィンセントへ恭しく向き合った。


 ただ一人、ドロシーだけはいつものように楽しげな笑みを浮かべていた。玉座の斜め後ろにある影の中で一人、岩壁に軽く身体を預け、姉と義兄の間を何度も視線で行き来している。


 守衛や哨戒要員を除けば、これが現在の死亡峡谷が有する戦力のすべてだった。


「始める」


 エリカは感情の波をほとんど見せず、淡々と告げた。


「ロクノス」


 名を呼ばれた堕天使はすぐ前へ出る。


「エリカ様。本日の偵察任務に異常はありません。飛空艇が到着して以降、新たな動きもありませんでした。降りてきた人員と外部武装から判断し、四隻のうち迷宮城への侵攻が可能で、魔導兵器を搭載している飛空艇は多くても二隻。それ以外は通常の補給輸送任務に就いていると、我々は判断しています」


 蒼穹の島は空に浮かぶ迷宮城だ。


 かつて鋼鉄の玉座と循律の塔が飛空艇の復刻と改良に成功した頃、蒼穹の島はしばらくの間、この新型魔導兵器と何度も接触してきた。


 そのため堕天使族は、飛空艇に関してはかなり詳しい。


 エリカが飛空艇の監視を、協力関係にある堕天使族へ任せているのもそのためだった。


「分かった。ただし、残り二隻の通常型飛空艇が冒険者を無理に運び、上空から降下させる可能性までは排除できない。直接死亡峡谷へ侵入してくる可能性は残っている。詳しい状況は別の人員に探らせる。堕天使は飛空艇の動きだけ監視していればいい」


 エリカはそう推測していた。


 ボーウェンにも仕事を与えるつもりだった。それなら希望町で老神官が築いた勢力を試すこともできるし、情報を堕天使だけに握らせずに済む。


「はい」


 ロクノスが下がると、エリカは続いてデヴィットの名を呼んだ。


 呼ばれた美しいエルフもすぐ列を離れて前へ進み、報告を始める。


「地潜り虫の協力によって、現在、迷宮城の再建は第六層まで進んでいます。従来の直進型通路は、蜘蛛の巣状に通路が巡る迷宮へ変更しました。地形や環境を変化させて侵入者を惑わせる仕掛けを加えたほか、エリカ様のご指示に従い、光の高原固有の植物もいくつか植えています……」


 静謐の森の村は外界と直接行き来することこそできないものの、母樹を介して、原始樹海に暮らす同胞と交信することができる。


 長年にわたる交信を通じて、自分たちの暮らす光の高原が外界とは大きく異なることも理解していた。


 そのため、外界には存在しない重要な資源やその用途を記録し、いつの日か一族がここを離れられる時に備えてきた。


 ドーマ長老とグヤ祭司は死亡峡谷からの要請を受けると、魔王が外界で価値を持つ資源を迷宮城内に育てようとしている意図をすぐに理解した。そこで物資運搬を担当する一族に、多くの希少な植物の株を持たせた。


 母樹の分体が環境を整える手助けもしたことで、それらの植物はすぐ迷宮城の環境に適応し、大量に育ち始めている。


 デヴィットの報告をじっくり聞きながら、エリカはエルフ族の仕事の早さに満足していた。


 惜しいのは、今のところ人数がまだ少ないことだ。亜人族も何人か呼び寄せられれば、さらに都合がいい。


 とはいえ問題はない。


 その程度を待つだけの辛抱なら、彼女にもあった。


 長い報告が終わると、エリカはデヴィットに告げた。


「デヴィット。今回の侵入者による連合作戦が終われば、予定を早めて通路を開放し、静謐の森の村にいるエルフや亜人の一部を外へ出す。ドーマとグヤに伝えて、今年分の人選を早めに済ませておけ」


「はい、エリカ様!」


 デヴィットの声には、わずかな興奮が混じっていた。


 彼らが力を貸しているのは、それぞれの思惑だけが理由ではない。その大きな理由の一つが、まさにこの約束だった。


 実際に接してみると、いわゆる魔王も歴史文献に記されているほど恐ろしい存在ではないように思える。それでも、約束を本当に守るかどうかについては、エルフたちにもまだ疑いが残っていた。


 予定より早く実現すれば、村に残っている守旧派の不安を和らげることにもつながる。


 エルフたちの高揚とは対照的に、エリカの表情にはほとんど変化がなかった。


 約束を守ることなど、それほど難しいことではない。


 悪意をもって搾取し、欺き、利用することに、彼女はもともと興味がなかった。


 そんなやり方が死亡峡谷に何か良いものをもたらすとも思っていない。だから使う気もなければ、使う必要もなかった。


 エリカにとって、話はいつだって単純だった。


 死亡峡谷へ入った者は――


 従う者には、生を!


 彼女は相応の褒賞と報酬を与える。


 背く者には、死を!


 彼女は死へ向かう機会を与える。


 彼女を完全に殺しきれない限り、死亡峡谷にいるどんな生命も、その掌中から逃れることはできない。


 しかも、自らの領地にいる不死族の魔王を相手にする以上、魂の源を見つけ出せない限り、誰にもエリカを本当の意味で殺すことはできない。


 竜族や超獣種でさえ例外ではなかった。


 さらにエリカとヴィンセントは、領地内にある世界の心から供給される莫大なエネルギーによって、繰り返し素早く再生することさえできる。


 殺しても死なない二人の魔王。


 それこそが、死亡峡谷最大の切り札だった。


 配下たちがそれぞれ担当する日常任務を一通り報告し終え、特に異常がないことを確認すると、エリカはそのまま今日の会議を終えるつもりだった。


 意味のないことに時間を浪費するのを、彼女は嫌う。


 だが、その時だった。


 短髪の快活なエルフが自分から一歩前へ出て、散会を告げようとした金髪の魔王を慌てて呼び止め、大声を上げた。


「エリカ様! わ、私、私! 報告したいことがあります!」

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