93.噂
「ディア監察使。私は鋼鉄の玉座、第九艦隊指揮官のヌムだ」
艦橋の様子を確認していた逞しい背中が振り返る。
そこにいたのは、中年のドワーフ女性だった。片目しかなく、顔立ちは粗野で勇ましい。肌は暗い褐色で、笑みのない表情にはいくらか威厳が漂っていた。
重厚な鎧を身につけているにもかかわらず、その身体にはまるで重さを感じさせない。声は低く太く力強く、頭には濃い赤褐色の髪が爆発したように広がっている。何事にも型にはまらなさそうな雰囲気の持ち主だった。
挨拶を終え、ディアは相手の様子を窺った。
だがドワーフの指揮官は、それ以上何をするでもない。どうやら自分から話を続けるつもりはないらしい。
「その……ヌム指揮官。お忙しいところ申し訳ありません。今、迷宮城についてお話ししてもよろしいでしょうか」
それを聞いたドワーフの指揮官は、ひどく不思議そうな顔をした。目には疑問がありありと浮かんでいる。
目の前の痩せた人間を見上げると、実に率直に言った。
「もちろんだ。さっきからお前が説明するのを待っているんだが。その様子……まさか、賄賂でも欲しいのか?」
ヌムの声は大きい。
艦橋にいる乗組員のほとんどに聞こえるほどで、何人もの者が横目でこちらを窺った。しかも、その言い方はいかにも日常茶飯事といった調子だった。
ディアはたちまち気まずそうな顔になる。
指揮官という立場にありながら、ここまで豪快で遠慮のない人物だとは思ってもいなかった。
傍らに立つアルフレッドは、その光景を見て、先ほど散々言葉で刺激された鬱憤が一気に晴れるのを感じた。
とはいえ、今は蒼藍帝国の使者と関係を悪化させる時ではない。
慌てて前へ出ると腰をかがめ、ドワーフの指揮官の耳元で小声で説明する。
話を聞き終えるころには、ヌムの太い眉がぎゅっと寄っていた。その顔には、嫌そうな気持ち、疑問、面倒くささが入り混じっている。最後には大きな手を振り、
「ディア監察使、第九艦隊の連中は全員、私にとって家族みたいなものだ。隠さなきゃならないことなんてない。蒼藍帝国から共有する情報があるなら、ここでそのまま話してくれ」
ディアは少し考え、言おうとしていた内容を頭の中で整理し直した。
そして、できるだけ角が立たないように説得する。
「ヌム指揮官。ここで公にできないのは、あなたや第九艦隊を信用していないからではありません。ただ、帝国側でも真偽を完全には確認できていない情報があります。もし不確かな情報が広まれば、かえって連合作戦に悪影響を及ぼしかねません。どうかご理解ください」
それを聞き、アルフレッドも傍らから小声で助言した。
説得を受けたヌムは、ようやく渋々と頷く。だが、その顔には面倒だという気持ちがありありと表れていた。
「分かった。なら、ついてきてくれ。アルフレッド、お前は残って指揮を代われ。飛空艇に何か問題があれば、すぐ報告しろ」
艦橋の上階には指揮官室が設けられている。大きな透明窓から、艦橋で働く全員の様子を見下ろせる造りになっていた。
ヌムは足早に帝国の使者を中へ案内する。
振り返ったところで初めて、相手の従者である鎧姿の女剣士も扉の外に残っていることに気づいた。
指揮官室には二人しかいない。
「それで、帝国にはどんな重要情報があるんだ? ここまで秘密にする必要があるのか?」
ヌムは単刀直入に尋ねた。
時間を無駄にするのが嫌いなのだ。
「以前、貴国と循律の塔には簡単にお伝えしていたと思います。この迷宮城には主、あるいは守護者が現れた疑いがあり、その存在が守衛を計画的に動かし、数千人規模の皇家冒険団を壊滅させた可能性があります。この件についてはご存じですか?」
ヌムは両腕を組もうとした。
だが、太い腕と重厚な鎧が邪魔をして、左右の肘に手が届く程度だった。
そのまま軽く頷く。
「これから話すことは、必ず胸の内に留めてください。艦隊内でも、多くとも副指揮官までにしていただきたい」
「話せ」
「現在までの最新調査によれば、秘宝を盗んだ三名の帝国犯罪者は、悪魔種族へ変じただけではなく、迷宮城の権限まで手に入れ、守護者、あるいは迷宮城そのものの主となっている可能性があります。第九艦隊と循律の塔の魔法使いたちが天象異変を調査するのであれば、『人為的な』攻撃にも十分警戒する必要があります」
言い終えると、ディアは自分の半分ほどの背丈しかないドワーフの指揮官を見下ろした。
驚愕、怒り、恐怖――何かしらの反応が返ってくるのを待つ。
そうなれば、あらかじめ用意していた提案を続け、第九艦隊の行動方針にも影響を与えられる。
だが、いくら待っても、その粗野で威厳のある顔には何の反応も現れなかった。
それどころかヌムは、またもや訳が分からないといった顔になり、爆発したような髪を掻いた。
「それで終わりか? ほかにはないのか? お前……本当に賄賂が欲しいんじゃないのか? ちょっとした要望くらいなら、第九艦隊には特別経費の使用許可が出ている。役に立つ情報を確実に出してくれるなら、それなりには応えられるはずだが……」
「待ってください!」
ディアはさすがに耐えられなくなった。
このドワーフの指揮官は、この情報がどれほど重要なのか本当に分かっているのか。
内心で悪態をつきながらも、表面上は厳粛な態度を崩さず警告する。
「我々監察使は女王陛下に忠実であり、帝国に忠実です! 賄賂などという話は、二度と持ち出さないでいただきたい!」
「私が今言っているのは、第九艦隊が迷宮城へ入れば、元は人間の逃亡犯だった者たちから攻撃を受ける可能性があるということです! 彼らは大量の守衛を操り、戦術を立て、待ち伏せまで仕掛けられるかもしれない! なぜ、あなたは何の反応も示さないのですか!」
目の前の痩せた人間が完全に苛立っているのを見て、ヌムもようやく、この男は本当に賄賂が欲しいわけではないらしいと確信した。
少し気まずそうに、また豊かな髪を掻く。
「うむ。第九艦隊を代表して、貴国と監察使殿の好意には感謝する。ただ……似たような話なら、もう一部の地域では広まり始めているぞ」
「何ですって!?」
今度こそ驚愕したのはディアの方だった。
顔色を変えて、慌てて一歩詰め寄る。
「どういうことです? どこから出た情報なのですか? どんな内容が伝わっているのです?」
あまりの興奮ぶりに、ヌムはこの痩せた人間が頭に血を上らせ、そのまま自分の船で倒れでもしないかと心配になった。
慌てて落ち着くよう宥めながら答える。
「私も出発する少し前に聞いたばかりだ。オークハマ城の遊騎兵ギルドから伝わってきたらしい」
「オークハマ城? 狂暴の海の近くにあり、霧影の淵を攻略するために築かれた、あのオークハマ城ですか?」
ディアは驚いたまま問い返した。
「ああ。どうやら攻略中の冒険者が、深海妖姫に操られた亡霊たちが繰り返し歌っているのを聞いたらしい」
「歌……?」
そこでディアは初めて気づいた。疑問だらけなのは、相手ではなく自分の方だった。
歌の話になった途端、ヌムの威厳ある表情がわずかに緩む。それどころか、ひどく楽しそうになった。
咳払いを一つすると、低く力強い――だが見事なまでに音程を外した声で、大声で歌い始める。
「すべてを育む美しき海、そこには老いぬ妖姫の主が棲む」
「天地を貫く死亡峡谷、そこには死なぬ悪魔の王がいる」
「老いぬ者と死なぬ者、運命は千年の時を越えて二人を巡り合わせた」
「海の魔王は歓びの心を歌い、己が歓びと想いを捧げ、その者が訪れる日を待つ」
「人の魔王は約束の言葉を告げ、相手に希望と未来を与え、いつの日かその約束を果たす」
「立ちはだかるすべての障害は滅び、ただ二人の絆だけが、永遠に残る」
一曲を高らかに歌い終えると、ヌムはわざとらしく何度か咳払いをした。目は輝き、いかにも得意げな表情で、遠回しに尋ねる。
「どうだ? 私の歌は」
衝撃どころの話ではない!
しかも、この恐ろしい歌声の中から手掛かりまで拾わなければならない!
立て続けの衝撃からようやく立ち直ると、ディアは長年監察使を務めてきた経験を総動員し、歌声に吹き飛ばされかけた精神をどうにか立て直した。
少し考え、困惑したように口を開く。
「死亡峡谷、人の魔王……私の推測は完全に正しかったということか。しかし、まだ疑問は多い。二人の魔王はどうやって連絡を取り合っている? 約束とは何のことだ……」
「ああ、まだ分からないところがあるなら、もう一度歌って――」
「結構です! お気遣いありがとうございます!」
相手の申し出を、まったく婉曲にせず断った。
ディアがここまで露骨な拒絶をすることは滅多にない。
だが、このドワーフの指揮官だけは、どうにも扱いようがなかった。
「情報がすでに広まっているのなら、もう隠す意味もありません。今回来たのは第九艦隊だけではなく、循律の塔の魔法使いたちも同行しているはずです。ヌム指揮官、できるだけ早く会議を開くべきではありませんか?」
きっぱり拒絶され、先ほどまで上機嫌だったヌムの勇ましく粗野な顔は、たちまち不機嫌そうに曇った。
「ククリ号が安定したら、すぐ任務会議を開く。それまでディア監察使は、船でゆっくり休んでいるといい」
「では、お言葉に甘えます。ほかにも死亡峡谷について何か情報はありますか?」
蒼藍帝国は独占政策を取っているため、遊騎兵ギルドとの協力関係は昔からそれほど深くない。ほかの国々のように門戸を大きく開いているわけではないため、冒険者からもたらされる情報にはどうしても疎かった。
こうした話が首都バランドまで届くには、まだ相当な時間がかかる可能性がある。
ディアはここでできる限り情報を聞き出し、すぐ女王へ報告しようと決めた。
「もちろんある! ほかの話も現地から広まった歌らしい。もっとも、本当かどうかは分からんがな。だが心配するな、全部覚えてある。今から歌って聞かせて――」
「いえ、書いていただくという方法も、悪くないと思うのですが……」
抗議は通じなかった。
ドワーフの指揮官の、太く調子外れな歌声が再び響き渡る。
幻想的で不気味な歌が指揮官室いっぱいに反響し、ディアがどれだけ拒絶しても、この強烈な精神攻撃が止まることはなかった。
耳をつんざくような眩暈すら覚える苦痛に耐えながら、ディアは心の中で自分を励まし、必死に意識を保つ。
「すべては女王陛下のため、すべては帝国のため……」
ちょうどククリ号の停泊作業を終え、報告のため上がってきたアルフレッドは、遠くからでも、密閉された扉を貫いて響いてくる恐ろしいまでの太い調子外れな歌声を聞いた。
何度も迷った末、彼はそのまま扉の外で待つことにした。
双方の責任者同士の話し合いを尊重するためである。
ところがその隣では、先ほどから両手で耳を塞いでいた鎧姿の女剣士が、突然、無表情のまま片手を差し出した。
「ええと……?」
「私は賄賂を受け取ります」
「……分かりました」
アルフレッドは悟った。
特別経費の出番だった。




