9.初戦
時間だけが静かに過ぎていった。
わずかな光しかない地下城は、岩壁と石に囲まれて閉鎖的で湿っている。時折、水滴の落ちる音や、風が切るような音まで暗闇の奥から聞こえてきた。
探索隊の中で、まともに休めた者は決して多くない。
早くから目を覚ましていた老バダは、静かに座して蛍光砂時計を見つめていた。
最後の一粒が落ちきると、カルロへ合図を送る。
「時間だ。出発する」
一日休み、多少は環境にも身体を慣らした。
地下城に漂う陰冷な空気や、果ての見えない暗闇を受け入れられたわけではない。それでも一度気持ちを整える時間があったことで、再び歩き出した冒険者たちにも、少しずつ心構えができていた。
斜め下へ伸びる通路は、かなり深い。
巨大な宮殿と比べ、各所に埋め込まれていた発光材も少なくなり、周囲は一段と暗くなっていた。
さらに進むにつれ、生き物の排泄物が放つ生臭い悪臭まで濃くなっていく。
魔獣か邪悪体の集まる場所が、それほど遠くないことは明らかだった。
もともと遅かった探索隊の歩みは、さらに慎重なものになる。
一分一秒が、隊全体へ重い圧力を積み重ねていった。
ここからは老バダの指示により、斥候、前衛、後衛の三か所で松明を灯すことになった。
反対に、中央だけには明かりを置かない。
そこにいるのは指揮役と弓使いたちだ。周囲の者に攻撃を引きつけてもらうことで、より安全に役割を果たせるようにするためだった。
隊列の中を進むアンダは、驚くほど静かだった。
隊で最も大柄で逞しい身体をしているにもかかわらず、ほとんど足音を立てていない。
両手には棘付きの拳甲。
背中には、見るからに重そうな合金製の大槌まで背負っている。
武器だけでも普通の人間一人を上回るほどの大きさだというのに、何一つ音を立てずに歩いていた。
女野蛮人の両眼は、夜の狩人のように淡い光を帯びている。
暗闇を見通しながら周囲を絶えず探る、その力強く冷静な姿のおかげで、隣を進む四人の盾持ちもいくらか安心していられた。
突然、アンダが前方で揺れる松明を捉えた。
警告の合図だ。
彼女はすぐに盾持ちの一人へ目配せし、同じ合図を後方へ送らせる。
探索隊はすぐさま足を止めた。
最前方の斥候を除き、全員が素早く集まり、警戒は一気に限界まで高まる。
これが最初の遭遇戦になるかもしれない。
ほどなく、斥候の一人であるバブキが戻ってきた。
声を潜めて報告する。
「前は二股に分かれてる。緑皮鬼が五体、食獣人が二体うろついてる。このままじゃ通れない。片づける必要がある」
老バダはしばらく考え込み、低い声で尋ねた。
「緑皮鬼と食獣人は争っていないのか?」
「以前の報告にはなかったな。どうやら両方とも、この迷宮城に残された守衛らしい。外から移り住んできた種じゃない……混沌時代には、悪魔種族がこいつらを城の守りに使うことも珍しくなかった」
そこまで言うと、老バダはカルロへ目を向けた。
「カルロ。今の話は記録したな?」
正式に地下城へ入ってからというもの、老バダの口調から遠慮はほとんど消えていた。
この場で最も経験を積んだ冒険者として、誰かが指揮そのものを引き受けるのでない限り、隊の中に二つ目の指示系統が生まれることを彼は許さない。
それは、並外れた強さを持つアンダであっても同じだった。
「安心しろ。全部覚えてる。戻ったら、この発見も皇家冒険団へ報告する」
一歩ずつ探索範囲を広げ、一つずつ謎を解いていく。
そうすることで迷宮城への理解が深まり、後続の探索隊や攻略隊の犠牲も減らせる。
そして、そのすべてが老バダたちの探索隊の功績として積み上がっていく。
だが、これだけでは明らかに足りない。
もっと奥へ進む必要があった。
「よし。ここからは全員よく聞け。始めたら短期決着だ。守衛に仲間を呼ぶ時間を与えるな」
「バブキ、ドール。できるだけ気づかれずに緑皮鬼へ近づけ。戦闘が始まったら、一人一体ずつ選んで速やかに仕留めろ」
「ドロシー、ビセ、ミユナ。お前たちも一人一体ずつ緑皮鬼を受け持て。撃ち漏らすな」
そこまで指示したところで、老バダは一度言葉を止めた。
前方に立つ大柄な影へ目を向ける。
「アンダ。一体の食獣人を片づけるのに、どれくらいかかる?」
問いかけられた女野蛮人は、わずかに眉を上げた。
いかにも馬鹿馬鹿しい質問だと言いたげな顔だった。
先ほど名前を呼ばれた斥候から弓使いたちへ、一人ずつ視線を巡らせる。
そして最後に答えた。
「そいつら全員より速い」
野蛮人とは、そういう種族だった。
圧倒的な強さと、それを疑いもしない自信。
敵に回すことを望む種族などいない。
だが味方になれば、これほど頼もしい存在もなかった。
「分かった。ヴィンセント、ファング。お前たちはもう一体の食獣人を足止めしろ。逃がすな。声を上げて仲間を呼ばせるな」
「倒せるなら、そのまま仕留めていい。無理ならアンダが終わるまで引きつけておけ」
「アカヤ、ベリ。二人は残って弓使いたちを守れ。カルロ、俺、それから後衛は待機して、不測の事態に備える」
「ほかに質問は?」
誰も声を上げなかった。
老バダは満足そうに頷く。
「出発だ」
バブキに先導され、一行は足音を殺しながら、少しずつドールが身を潜めている場所まで進んだ。
やがて前方の暗闇から、ぐるぐると喉を鳴らすような荒い息遣いが途切れ途切れに聞こえ始め、その合間には甲高い鳴き声も混じっていた。
全員が配置につくと、バブキとドールが先行する。
あらかじめ決めておいた時間が過ぎたところで、老バダは三人の弓使いへ目を向けた。
攻撃開始の合図だった。
手を伸ばしても指先さえ見えない暗闇の中、ドロシーたちは位置につき、技巧「暗視」を使う。
淡いエネルギーが両眼を満たした瞬間、暗闇に閉ざされていた周囲の光景が鮮明に浮かび上がった。
夜視は、冒険者にとって基礎的な技巧の一つだ。
だがエネルギーを使い続ければ、そのぶん体力を消耗する。
そのため探索では、松明などの道具も併用するのが普通だった。
長時間自在に使い続けられるのは、強力な冒険者か、野蛮人のように体力そのものに秀でた種族くらいである。
三人の弓使いは、それぞれ標的を選んだ。
集中が深まるにつれ、三人の呼吸の間隔まで次第に揃っていく。
弦が引き絞られ、わずかな軋みが漆黒の洞窟に響いた。
遠くにいた緑皮鬼が何かを察したのか、こちらへ顔を向ける。
「放て」
一人の弓使いが低く告げた。
「ヒュッ!」
静かな通路に、鋭い射出音が響く。
三本の矢が同時に放たれたにもかかわらず、聞こえたのはほとんど一つの音だけだった。
見事な連携だった。
同時に、女野蛮人も動く。
一歩踏み込んだ瞬間、足元の石が砕けた。
大柄な身体が一気に加速し、凄まじい勢いで前方へ突進する。
その速さは、先に放たれた矢へ追いつきかねないほどだった。
三本の矢がそれぞれ緑皮鬼の急所を射抜き、貫通する。
同じ頃には、バブキとドールも背後から奇襲し、混乱した残り二体の緑皮鬼を計画通り絞め殺していた。
物音に気づいた食獣人が振り返った時には、すでにアンダが目の前にいる。
豚を思わせる獣の顔。
鋭く突き出した牙。
肥え太った巨体。
その手には、粗雑な造りながらも巨大で威圧的な棘付きの石棒が握られ、表面には乾いた血と肉片がこびりついている。
迷宮城でよく見られる守衛の一種。
食獣人だった。
敵を見つけた食獣人が、怒りの声を上げる。
棘付き石棒を持ち上げようとした時には、アンダはすでに右拳を引いていた。
全身の筋肉が一斉に張り詰め、エネルギーが身体中へ満ちていく。
棘付きの拳甲が、食獣人の心臓へ真っ直ぐ向けられた。
拳が、分厚い肉体へ叩き込まれる。
小さな破裂音が響いた。
次の瞬間には、女野蛮人の拳が食獣人の胸を貫き、腕ごと背中まで突き抜けていた。
そこまで至って、ようやくもう一体の食獣人が状況を理解する。
仲間が一瞬で殺された。
怯えた声を漏らし、背を向けて逃げようとする。
その瞬間、暗闇の中からヴィンセントが横合いより斜めにぶつかった。
強い衝撃に重心を崩された食獣人は、数歩よろめいた末に地面へ倒れ込む。
同時に、腰へ刃が食い込む鋭い痛みが走った。
焦りと驚き、怒りに駆られた食獣人は太い腕を振るい、襲撃者を力任せに払いのける。
そして起き上がり、再び逃げようとした。
その時、頭頂部と、口から突き出た牙をそれぞれ一つの手に掴まれた。
「ゴキッ」
首の骨が折れる音が響く。
視界が激しく回転した。
上下が逆さまになったことを食獣人が認識した頃には、その目に映るものは急速に闇へ沈み、二度と何も見えなくなった。
「いい男。やるじゃないか」
一回転した食獣人の頭から手を離し、アンダは興味深そうに低く褒めた。
自分の動きについてきた。
それだけでも、この人間が長年鍛え続けてきた冒険者であることは十分に分かる。
何より分かりやすい比較対象は、今になってようやく追いついてきた、もう一人の盾持ちだった。
アンダには自信があった。
背中の合金製大槌を使わなくても、食獣人が二体程度なら瞬時に殺せる。
それでも、信頼できる仲間と肩を並べて戦えることは、何より野蛮人の心を躍らせる。
ヴィンセントは刃についた血を振り払い、残った汚れを食獣人の死体で拭い取った。
暗い地下洞窟の中では、その無表情な顔が普段以上に陰鬱なものに見える。
彼も声を落として答えた。
「速すぎる。危うく置いていかれるところだった」
「それでも『危うく』なのか……」
ここが地下城でなければ。
アンダは今すぐ思い切り笑い、このいい男へ決闘を申し込みたいほどだった。
人間の身で野蛮人の動きについてきておきながら、よくもまあ「危うく」置いていかれそうだっただけなどと言えるものだ。
「全部片づいたか? 見落としがないようにしろ」
老バダの声が、後方から届いた。
隊員たちはすぐに再び合流する。
老バダは地面に転がった死体を一体ずつ数え、報告された数と一致していることを確認した。
そして突然、丸顔の青年へ顔を向ける。
「ひよっこ。武器を抜け。首を落とすでも、心臓を刺すでも何でもいい。敵の死体全部に止めを刺してこい」
「俺が?」
戦闘は一瞬で終わった。
隊についてきて、気づけば目の前には邪悪体の死体が転がっている。
死というものを目の当たりにし、まだ呆然としていたジェットは、血生臭さに吐き気を覚え始めていたところだった。
そこへ老冒険者の怒鳴り声が飛んでくる。
「お前だ。早く行け! 時間を無駄にするな!」
老バダは苛立たしげだった。
地下城を攻略している時の彼は、いつもこうして気が短くなる。
あるいは、こちらこそが本来の姿なのかもしれない。
そしてそれは、冒険者の隊を率いる者なら珍しくもない態度だった。
「坊や、怖がらないの。最初は誰だって血を見るものよ」
「抜く武器を間違えるなよ。死体がいきなり起き上がって、お前に噛みつくかもしれないぞ」
「ほんと役に立たないひよっこだな。いっそここに残して囮にしようぜ」
「おい、そういうことは本人の前で言うなよ。せめて全部終わってから言え」
低い声での嘲笑がいくつか飛んだ。
老バダも、皆が強い緊張を少しでも紛らわせようとしているのだと分かっていたため、止めはしなかった。
ただジェットへ早く死体を処理するよう、何度も手で促す。
これを乗り越えてこそ、ようやく冒険者としての第一歩だ。
もし丸顔の青年がこれさえできないのなら、生きた盾にされても誰を責めることもできない。
周囲から浴びせられる言葉に、ジェットの胸には怒りと悔しさ、そして恐怖が入り混じった。
本当にこの陽の差さない地下城へ一人置き去りにされるのが怖かった。
促されるまま腰の長剣を抜き、湧き上がる反発心を必死に押し殺しながら、死体へ向かって歩き出す。
その時。
また、天使の声が聞こえた。
小さく、優しく。
「頑張って」




