85.無能
死亡峡谷の地下深く、隠された空間。
世界の心との繋がりを断つと、エリカとヴィンセントの意識は瞬く間に元の場所へ戻った。
今回の魔王の庭で得た情報はあまりにも多く、二人とも真剣な表情で考え込んでいた。
「ヴィンセント、どう思う」
しばらく沈黙したあと、普段から寡黙な男は短く答えた。
「特にない」
鮮紅の瞳が、すべてを見透かそうとするかのように彼をまっすぐ見つめる。
エリカはもう一度訊いた。
「私が聞いているのは、不死族は子をもうけられないということについてだ。どう思う」
「エリカがいれば、それでいい」
魔王の庭で答えた時と同じ言葉だった。
だが今度は、エリカのほうが黙り込んだ。その表情は揺れ動き、何を考えているのか読み取れない。
「迷宮城への侵入状況を見てくる」
エリカが約束を非常に重く受け止める人間であることを、ヴィンセントは知っている。かつて自分に「家」を与えると約束した以上、子をもうけられないという事実については、まだ考える時間が必要なのだろう。
そう判断し、ヴィンセントは先にその場を離れようとした。
「待て」
突然、背後からエリカに呼び止められた。
ヴィンセントは足を止め、振り返る。
「お前の目には、夢はどんな姿に見えた」
骨と血の翼を広げる。隠された空間の上方へ続く経路はすでに開通しており、ヴィンセントはゆっくりと宙へ浮かび上がった。
そのまま去る直前、短い答えだけを残す。
「お前だ」
地下深く。
ただ一人。
静寂。
やがて低い笑い声が静かに響き始め、誰もいない空間にいつまでも反響した。
しばらくして。エリカは顔を上げ、胸を張った。凛々しい顔にはいつもの冷厳さが戻り、両手を背に組んだ姿も、すでに普段と何ら変わらない。
手を振って世界の心を呼び寄せる。触れたあと感知領域を使い、死亡峡谷全体を隅々まで確認した。自分たちが離れていた間に、何か異常が起きていないか確かめるためだ。
地上の宮殿。
各階層の迷宮。
エルフたちの区画。
守衛。
超獣種。
どこにも異常はなく、すべてが二人の出発前に出した指示どおりに動いている。
そして最後に、視線は崖際の空中庭園へ向かった。現在の死亡峡谷で、もっとも不安定な要素がいる場所だった。
そこで新たな魔王が目にした光景に、思わず眉が寄る。幼い頃、自分自身が経験した暮らしを思い出したのだ。
あとでドロシーに少し教訓を与え、昔味わった苦痛をしっかり思い出させてやろう。
そう考えていたエリカだったが、映し出された人物を見た瞬間、どこか覚えのある感覚を抱いた。そして、脳裏に閃くものがあった。
湿り気。
汚れ。
鼻につく、生臭い血の臭い。
空中庭園の地下にある密室。
ドロシーがここへ来るのは、もう何度目なのか分からない。
ただし今回は、その手に持った鎖の先には、ディアドラと同じく全裸の男が繋がれていた。
「グリ……フィス?」
全身は傷だらけで、皮膚は裂け、肉が露出している。かつての清らかで美しい顔立ちは、縦横に走る傷によって見る影もない。
宙吊りにされ、鎖で拘束されたディアドラは、腫れ上がった目をどうにか半分だけ開き、とうに死んだものと思っていた男を見つめた。
グリフィスは後ろめたそうに俯き、正面を見ることができなかった。
あの時、自分が声を上げなければ。もしかすると、この光騎士は本当にドロシーという名の悪魔を斬り殺せていたのかもしれない。
だが、現実に「もしも」はない。
「ディ……ディアドラ」
この数日間、彼はすぐ隣の隔離された石牢に閉じ込められていた。そして毎日、ディアドラが苛烈な拷問を受ける様子を無理やり見せつけられてきた。
かつて人々の憧れと欲望を掻き立てた、神聖で清らかな姿。それが少しずつ崩れ、今ではほとんど人の形すら留めない肉塊のようになっている。あれほど強い意志を宿していた金色の瞳さえ、まともに開くことができない。
グリフィスの感情も、最初の安堵から、同情、罪悪感、不安、そして恐怖へと変わっていった。
なぜなら。
人の皮を被った女悪魔が、ついに彼の存在を思い出し、処刑場へ連れてきたからだ。
「ふふっ。グリフィス様。昔、あれこれ策を巡らせて手に入れようとしてた女が二人とも目の前にいるよ? しかも一人は、あなたと同じで全裸。どう? 興奮する?」
ドロシーは楽しげに笑いながら、手にした鎖を勢いよく振った。
長く拘束されて力の入らない男は、そのまま地面へ引き倒される。
しかも倒れた場所は、ちょうど宙吊りにされた光騎士の真正面だった。その全身の惨状を、一つ残らず見渡せる位置。
「こ……興奮……します」
次は自分も目の前の姿にされるかもしれない。そう考えただけで、グリフィスの顔は真っ青になり、恐怖で身体が震えた。
目の前の光騎士は血まみれで、見る者に吐き気を催させるほど惨たらしい。
だが、この変態で、狂っていて、人間性の欠片もない女悪魔が次に何をするのかは誰にも分からない。
グリフィスには、できる限り相手の望む答えを返すしかなかった。
案の定、返事を聞いたドロシーは満足そうに微笑んだ。そして頷きながら言う。
「うん、そうだと思った。そんなに女が好きで、そんなに女を弄びたがってるんだもんね。皇家冒険団を皆殺しにするのを手伝ってくれたご褒美に、この女をあげる!」
「えっ!?」
あまりにも唐突で、意味の分からない贈り物だった。どうすれば女悪魔の機嫌を取れるのか、そればかり考えていたグリフィスは思わず声を上げる。
地面に這いつくばる男のそばまで歩み寄り、ドロシーは鋭い爪をその喉元へ軽く滑らせた。
鮮血がぽたり、ぽたりと落ちていく。
優しげな表情で、静かに尋ねる。
「どうしたの? グリフィス様、私からの贈り物は気に入らない?」
目の前にある可愛らしい顔。
喉元を走る鋭い痛み。
グリフィスは慌てて、泣いているのか笑っているのか分からない、引きつった表情を作った。
「も……もちろん気に入りました! あなたからの贈り物を、気に入らないはずがありません!」
「そっか。それじゃあ、そんなに気に入ったなら、ここでこの女を犯して」
「お……俺は……」
あまりにも予想外の要求に、グリフィスはどう答えればいいのか分からなかった。
女悪魔が何を考えているのかなど、永遠に読めない。
普段の光騎士であれば、当然興味はあった。どんな手段を使ってでも手に入れたいと思っていた相手だ。
だが今の凄惨な姿。
そして、この恐ろしい状況。
そんな気になれるはずもなかった。
「嫌なの? 別にいいよ。それなら代わりに、発情した食獣人を一頭連れてくるから」
それを聞いたグリフィスは、表には出さず胸を撫で下ろした。
同時に、心のどこかでは少し惜しいとも感じていた。
何しろ、かつては手の届かない高みにいた光騎士なのだ。
それでも彼は即座に、大声で答えた。
「ありがとうございます、ドロシー様! ご配慮に感謝します!」
「お礼はいらないよ。発情した食獣人の相手はあなた。たっぷり楽しんでね。私が冷たくしたなんて言わないでよ?」
そう言うと、悪意に満ちた笑みを浮かべた女悪魔は、扉へ向かって歩き始めた。
恐怖が心の底から湧き上がる。
グリフィスはついに表情を取り繕うことすらできなくなった。後先も考えず前へ飛びつき、地面に這ったまま、女悪魔の細く滑らかな足首を両手で掴む。必死に叫んだ。
「やります! やります! ドロシー様、どうかもう一度だけ機会をください! 必ずこのクソ女を死ぬまで犯してやります!」
「うーん……ずいぶん誠意のあるお願いに聞こえるね。それじゃあ、許してあげる」
必死な懇願を聞き、ドロシーはさらに楽しそうになった。少し離れた一人掛けの椅子へ腰を下ろし、興味津々といった様子で見物の準備をする。
グリフィスはゆっくりと地面から立ち上がり、再び光騎士の前へ戻った。複雑な迷いを浮かべていた表情は、やがて険しく、決然としたものへ変わる。
分かっている。
自分も、女悪魔にとってはただの玩具にすぎない。
それでも。
自分が酷い目に遭うくらいなら、他人が苦しむほうがいい。
「俺だって脅されてるんだ。ディアドラ、恨むなよ」
銀白の長髪は血に染まり、真っ赤になっていた。そこには、目立たないほど小さな赤い肉片まで幾つもこびりついている。
宙吊りにされたディアドラが、腫れ上がり変形した顔を上げる。喉の奥から、途切れ途切れに掠れた耳障りな笑い声が漏れた。
「恥知らず……言い訳を……するな……お前が……懺悔すべきなのは……自分の無能さと……臆病さだ……」
「わあ、笑われてるよ、グリフィス様。そんなに役立たずじゃ駄目だよ? 食獣人はもう外で待ってるんだから」
椅子に丸く収まりながら、ドロシーが楽しげに笑う。その言葉には悪意が満ちていた。
前からも、後ろからも。
二人の女の言葉がグリフィスを刺した。
この数日間。
生きること。
死ぬこと。
未来。
罪悪感。
屈辱。
恐怖。
あらゆる重圧が、絶え間なくグリフィスの中へ積み重なっていた。
そして今。
ついに限界へ達した。
心の中で、何か細い糸が切れたような感覚。
その瞬間、顔が大きく歪む。堪えきれず、怒鳴った。
「黙れ!」
誰に向けた怒鳴り声なのか、自分でも分からない。
グリフィスの心には恐怖と怯えが渦巻いていた。無意識に拳を握り締める。
そして、溜め込んだものを吐き出すように、目の前のディアドラを狂ったように殴り始めた。
一発目の拳が頬を打つ。
頭が衝撃で仰け反り、鮮血が高く飛び散った。
「お前に何が分かる! 俺は将来を嘱望された期待の星だった! 俺は順当に家督を継げるはずだった! 将来は皇家冒険団の団長になることだってできた! 女皇の円卓に席を連ねる一人になるはずだったんだ!!!」
エネルギーすら込められていない拳。しかもグリフィス自身も、何日も拘束されて力を失っている。ドロシーの拷問と比べれば、遥かに軽い攻撃だった。
だがディアドラもまた、かつて全盛期にあった強大な光騎士ではない。
血が飛ぶ。
押し殺した呻きが漏れる。
拳と骨がぶつかる鈍い音が、何度も響いた。
衝撃を受けるたび、光騎士を吊るしている鎖が地下牢の中で激しく鳴る。
ぼろぼろの砂袋のように。
ただ無能な男の八つ当たりを受け続けるしかない。
「なぜ懐智派は俺を見捨てた! 俺が何を間違えたっていうんだ!」
「お前ら下等な賤民どもは、黙って俺に操られていればよかったんだ!」
「俺は貴族だ! 何もかもを支配する、上に立つべき有能な人間なんだ!!!」
怒号が地下牢に響き渡る。
だが、たった二人の聞き手が見せる反応は、まるで違っていた。
ヒステリックに取り乱すグリフィスを見て、ドロシーの頬は紅潮し、ただでさえ愛らしい顔がさらに艶めいていく。
人の心を弄ぶ、いつもの遊び。
それは毎回、彼女を興奮させた。
口元を手で押さえても、抑えきれない忍び笑いが漏れてくる。
一方。
感情のままに暴力を振るい、現実を認めようとしない無能な男を前にしても、ディアドラは最初から最後まで、腫れ上がった目を半分だけ開いたままだった。
細い隙間から、金色の瞳が男を見据える。
どれほど拳を叩き込まれても。
決して目を逸らさなかった。




