84.魔王の庭(六)
「夢……だって……夢は……すごく嫌なの。あれが……あれが……私に……」
途切れ途切れで、どこかもじもじとした声。
クイナは頭を垂れ、六本の腕を互いに絡ませるように組み合わせていた。巨大な人の上半身と蛇の尾がかすかに左右へ揺れ、ひどく落ち着かない様子を見せている。
時折、その口から奇妙なほど美しい呟きが漏れた。
幽かで物悲しく、胸の奥まで染み込んでくる歌声のようだった。
ごく自然に疑問が湧き、何の違和感も覚えない。
エリカは無意識のうちに、深海妖姫の王が何を呟いているのか聞き取ろうとしていた。考えるより先に自ら少し近づき、珍しく相手を宥めてみようとさえ思う。
「……私に……」
幽かな呟き。
たゆたうような歌声。
そして――突然の変化。
「エリちゃんを食べたいって思わせるの!!!」
いつの間にか歌声に酔わされていた魔王たちが、はっと我に返った!
天賦「耐性」を持つエリカは一足早く正気を取り戻したものの、軍刀を抜くのが精一杯だった。
次の瞬間には、四本の腕の強大な力で身体をきつく締め上げられ、そのまま持ち上げられる。
残る二本の腕はエネルギーを操り、深海さながらの重圧を生み出して、エリカの動きを完全に押さえ込んだ。
直後、鋭い牙が幾重にも入り乱れた巨大な口が迫る。人間一人くらいなら、そのまま丸呑みにできるほどの大口だった。
クイナを警戒していたにもかかわらず、気づかぬうちに術中へ落ちていた。
一歩遅れて正気に戻ったオスヴィドは、状況を見るなり叫んだ。
「老竜!」
セバスティンは熟睡しているように見えたが、実際にはずっと場の様子を気にかけていた。叫び声に反応した瞬間、竜尾を振り抜き、クイナの蛇身へ巻きつける。そのまま狂乱した深海妖姫の王を力任せに横へ引き剥がした!
巨竜の力は凄まじい。
クイナの巨体が宙へ投げ出され、流星のような勢いで飛んでいく。轟音とともに、遠くの突き出た巨岩を粉々に砕いた!
土砂と粉塵が舞い上がる。
その向こうで、衝突した巨大な蛇身の人影が再び立ち上がり、傷一つないままゆっくりと歩いてきた。
裂けていた口元は元に戻り、尖った牙も引っ込んでいる。クイナはすでに、いつもの物静かで美しい姿へ戻っていた。
ただ、顔には困惑が浮かんでいる。
「あれ? どうしたの? 会議はどこまで進んだの? なんでみんな私のこと見てるの?」
「あっ! エリちゃん、どうしたの? 体中汚れちゃってる。私がきれいにしてあげる!」
近くの瓦礫から同じように立ち上がった友達に気づくと、クイナはすぐさま手伝おうと近づいてきた。
「必要ない。自分でやる」
同じく一歩遅れて正気を取り戻したヴィンセントへ、まず無事だと示す。
そのあと、エリカはクイナの好意をあっさり断った。
海の魔王の精神が正常ではないことには、とっくに気づいていた。だが、それでも深海妖姫の王が持つ天賦を甘く見ていたらしい。
もっとも、先ほどのセバスティンとオスヴィドのような意図的な企みではないことも分かっている。
そのためエリカは気に留めず、身体についた小石を軽く払い落とした。足元へわずかに力を込める。次の瞬間には、瞬間移動したかのように元の場所へ戻っていた。
二人の魔王へ問いかける。
「これが夢の影響か?」
オスヴィドは目を伏せた。表情がわずかに陰り、小さく息をつく。
エリカが堕天使の王に本当の意味で落胆した表情を見たのは、これが初めてだった。
かつて頭を下げ、譲歩しなければならなかった歴史を語った時でさえ、ここまでの表情は見せていない。
「意志の強い生命なら、受ける影響は小さい。逆に言えば、意志が十分に強くなければ、どんな生命でも影響を受ける」
「堕天使族も深海妖姫族も、知性種族から見れば長命な種族だ。だが結局、竜族や超獣種ではない。世界の心の助けを受け、俺たちはあまりにも長く生きすぎた。種族本来の寿命を大きく超えるほどにな。そして、その代償として精神が少しずつ崩れていく」
「深海妖姫族は天賦『魅惑』を持つ一方で、他者に共感しやすく、心も揺らぎやすい。クイナはずいぶん長く耐えてきたが、それでもこの結末を避けることはできなかった」
「だからここ数十年は、できるだけ夢と接触させないようにしている。今回はまだ軽いほうだ。おそらく、魔王の庭の会議が長引いたせいで――」
「え? 私の話してるの? どうしたの? また何か手伝ってほしい任務がある? 今回の海域調査はもう予定以上に終わらせたから、これ以上仕事は受けたくないよ。もう少しくらい、エリちゃんと仲良くなる時間を残してくれても……」
オスヴィドの説明が終わる前に、クイナの楽しげな声が割り込んだ。
遠くから、また細かな美しい呟きが聞こえ始める。
澄んで心地よく、抑揚のある声。
聞く者の心は再び揺さぶられ、その歌声へ引き込まれそうになる。
だが今度は、魔王たちも備えていた。ほんのわずかな時間で、すぐに我へ返る。それでも、誰も歌声を止めに向かおうとはしなかった。
クイナの物静かな顔が、再び歪み始めていたからだ。
巨大な蛇尾が無意識のうちに何度も地面へ叩きつけられ、そのたびに周囲の土石へ亀裂が走る。
ヴィンセントもエリカとクイナの間へ移動した。
今度は一瞬たりとも気を抜かず、相手を見張るつもりだった。
「……今は放っておこう。話を続ける」
すでに自分だけの世界へ沈み込み、狂乱し始めたクイナを見つめながら、オスヴィドは首を振った。普段の笑みと、その奥にある自負も消えている。
自嘲するように笑った。
「俺たちは、あまりにも長く生きすぎた。悪魔種族は竜族や超獣種のように、眠りによって長すぎる生の中で積み重なった感情や精神の負担を解消することができない」
「もしかすると……いつか俺も、こうなるのかもしれないな」
その言葉を聞き、エリカは先ほど歴史について問い続けた際、オスヴィドがわずかに見せた異変を思い出した。
しかし、それらをしっかり記憶に留めるだけで、何も言わなかった。
問いもしない。
目の前にいる魔王たちは、誰もが最低でも千年以上、中には数千年、あるいは一万年近く生きている存在だ。
長く生きすぎるという問題について、エリカに口を挟めることなどなかった。
「それで、本来クイナが引き受けるはずだった夢を、死亡峡谷に引き受けてほしいということか?」
「いや」
「死亡峡谷は再建されたばかりで、しかも今は連合軍の侵攻を受けようとしている。だから俺と老竜は、今年はひとまず夢をコアビーストの迷宮城へ置くつもりだ。いずれお前たちが安定してから――」
「必要ない。今年から夢は私が引き受ける」
オスヴィドが言い終えるより先に、エリカは即答した。
予想外の返事に、オスヴィドは戸惑った。セバスティンも再び頭をこちらへ向ける。岩場全体にも、かすかな震動が走った。
「本気か?」
エリカは迷わず頷いた。
すでに、夢をどう「保護」するか考えついている。
「問題が起きなければ、これから先、夢は死亡峡谷で引き受ける。毎年持ち回りにする必要もない。もしかすると……これが夢が私を選んだ意味なのかもしれない」
あり得ない話ではない。
だが、神霊の意図など本当の意味で理解できる者はいない。
しかも、この決定は今後へ長く影響を及ぼす。
オスヴィドとセバスティンはしばらく黙り込み、考え始めた。
「夢の影響は日を追うごとに強くなる。それが、魔王の庭で毎年交代して保護している理由でもある。眠っている老竜やコアビーストでさえ、完全には避けられない。本当に考えは変わらないんだな?」
オスヴィドがもう一度確認する。
「夢はひとまず死亡峡谷へ置く。問題が起きれば、こちらから伝える。今年は試験運用だと思えばいい」
「その間、お前たちは死亡峡谷に借りを作る必要もない。まず数年様子を見ればいい。本当に問題が起きたなら、その時に夢を連れていけばいい」
巨大な竜頭と、黒翼の堕天使が視線を交わした。千年以上付き合ってきた二人には、それだけで十分だったらしい。
すぐに意見がまとまり、オスヴィドが答えた。
「分かった。夢はひとまず死亡峡谷へ置こう。今後も問題が起きない限り、毎年、俺たちが死亡峡谷に一つ借りを作ることにする」
言い終えた直後、岩場全体がかすかに震えた。コアビーストも同意したらしい。
どうやら超獣種も、この「神」の存在を歓迎してはいないようだった。
「では、今年の魔王の庭はこれで終わりか?」
エリカが尋ねる。
「ああ。未知地域の調査結果については、またこちらから知らせる。海外の島々を調査する任務を引き受けるつもりになったら、世界の心を通して連絡してくれ」
会議の終了が告げられた途端、とうに待ちくたびれていたセバスティンが口を挟んだ。
「先に行く。オスヴィド、クイナ。今年はお前たちにそれぞれ一つ借りがある。必要なことがあれば……また知らせろ」
赤炎の巨竜の姿がぼやけ、明滅する。やがて小山のように巨大な身体が、少しずつ消えていった。
「私たちも――」
知るべきことはほぼ知った。エリカも接続を切り、死亡峡谷の問題を処理するため戻ろうとしたが、突然オスヴィドに呼び止められた。
「待ってくれ。個人的に一つ、君に頼みたいことがある」
「何だ」
エリカの表情がわずかに引き締まる。すでに問題は十分抱えている。今はこれ以上、厄介事を増やしたくなかった。海外の島々を調査する任務をすぐに引き受けなかったのも、そのためだ。
オスヴィドは、遠くでまだ独り言を続けているクイナを見た。そして真剣な口調で言う。
「実を言えば、俺としては君に海外の島々の調査を引き受けてほしい。大変革につながる可能性を調べられるというだけじゃない。どうやら君の存在そのものが、クイナの精神を安定させる助けになっている」
「理解できない。なぜ私なんだ。最初から何の理由もなく付きまとわれている」
世界の心を通じて接触したその時から、クイナは理由も分からないままエリカへ親しげに寄ってきた。
まるで――
夢が自分を選んだことと同じように。
「俺にも分からない。何しろ、あいつはとっくに狂っている。本当に正気でいられる時間のほうが少ない。狂人が何を考えているかなど、誰に分かる?」
「だが、霧影の淵をこのまま混乱させ続けるわけにはいかない。海は俺たちが簡単に手を出せる領域じゃない。このままでは、悪魔種族はまた一つ庇護の地を失うことになる。それどころか……いくつもの種族を失うことになるかもしれない」
「世界の心の権限は移譲できないのか?」
その問いを聞くと、オスヴィドは妙な笑みを漏らした。どこか意味ありげな表情だった。
「できるさ。君たちがどうやって死亡峡谷の世界の心の制御権を手に入れたのか、覚えているだろう?」
「前の主人がいなくなれば、移譲できる」
遠くでは、クイナがこちらへ楽しそうな笑顔を向け、熱心に手を振っている。
それを見ながら、エリカは冷酷な声で言った。
「クイナの精神がすでに不安定なら、なぜその問題を排除して、新しい魔王を立てようとしなかった?」
「排除? 海と霧影の淵で深海妖姫族の王を倒そうというのか? 竜族と堕天使族が総力を挙げても、成功するとは限らない」
「それに、深海妖姫族自身が望んでいない」
その答えから、オスヴィドが実際にそう考えたことがあり、深海妖姫族とも話し合ったのだと分かった。
だが、その結論はエリカには理解し難い。
「深海妖姫族は、狂ってしまった王を受け入れるつもりなのか?」
「あいつらのほとんどは、クイナから何代隔たっているのかも分からないほど遠い子孫だ」
「王はあまりにも多くを、あまりにも長く背負ってきた。だから、いつか深海妖姫族と霧影の淵がそのまま滅びることになっても、それを受け入れる――そう考えている」
「少なくとも、二百年前に俺が聞いた答えはそうだった」
新しい仲間が黙り込み、本気で考え始めたのを見ると、オスヴィドはさらに説得を続けた。
「海外の島々を調査する任務を引き受け、クイナの狂乱を少しでも和らげる手助けをしてくれるなら、俺個人として別に三つ、君の要求を受け入れる」
「今すぐ一族の者を死亡峡谷の防衛へ送っても構わない」
オスヴィドの頼みを聞きながら、エリカは遠くから聞こえるクイナの独り言と奇妙な笑い声にも耳を傾けていた。
長い沈黙のあと、ようやく口を開く。
「考えておく。遅くとも半年以内には返事をする」
「ただし、今すぐ十名の堕天使を死亡峡谷へ送ってもらう。それと、あとで一覧を渡す。コアビーストから武器、防具、それに迷宮城の建設に必要な資源を受け取ってきてほしい」
「これで要求は二つだ。あとで調査任務を引き受けないことにした場合は、別の形で蒼穹の島へ埋め合わせをする」
「いや」
その答えに、エリカはわずかに眉を上げた。
だが、すぐに続きがあった。
「十名の同胞を死亡峡谷へ送る。それでいい。装備と資源の運搬も引き受けよう」
「海外の島々の調査を引き受けなかったとしても、別に補償はいらない。ただ、クイナのことをきちんと考えてくれれば、それでいい」
そこでオスヴィドは一度言葉を切った。
声が低くなり、表情もこれまでになく真剣になる。
「均衡と安定。今の悪魔種族が生き残るために、何より必要なのはそれだ。分かってほしい」
「取引成立だ」




