76.クイナ
新たに生まれるものと去りゆくものが入れ替わる日、光と闇が巡る時。
魔王の庭が開かれる日が訪れた。
知性暦1241年、その年の最後の日、その最後の瞬間。闇の深淵よりもさらに深い地下で、ヴィンセントとエリカは世界の心の傍らに立ち、静かにその時を待っていた。
オスヴィドが残した言葉が示していたのは、旧年と新年が入れ替わる最後の刻、光神と闇神の勢いが移り変わる時に、魔王の庭が開かれるということだった。
つまり、このような会合は一年に一度開かれるのかもしれない。
静まり返った地下の石窟で、不意に世界の心から美しい青藍色の光が広がった。海の魔王が、以前エリカと取り決めていた合図だった。
ヴィンセントとエリカは心構えを整え、そろって世界の心へ手を伸ばす。触れた瞬間、二人の意識は目の前に広がる青い光の海へと投げ込まれ、そのまま未知の方向へ急速に引き寄せられていった。
意識はエネルギーの地脈の流れを漂う。
目に映るのは、方向も形も色も定まらない眩い光彩。神秘的で、広大で、果てがなく、理解することさえできない。あらゆる常識と法則が打ち砕かれていくようだった。
そこは、現実とはまるで異なる、光と幻に満ちた世界だった。
不可思議な光景に心を奪われ、どれほどの時間が過ぎたのか分からなくなる。長い時が流れたようにも、ほんの一瞬だったようにも感じられた。
やがて精神を大きく揺さぶる震動を感じ、二人はようやく我に返った。
ヴィンセントとエリカが目を開く。
そこに広がっていたのは、先ほどまでとはまるで違う景色だった。
耳に届くのは、波が打ち寄せる音。
足の下にあるのは、細かく柔らかな白い砂。
見上げれば、果てしなく広がる青空。
そよぐ暖かな風は本物のように肌を撫で、海面では時折魚の群れが跳ね、遠くでは鳥たちが鳴きながら空を横切っていく。
目に映っているのは、現実世界の自然そのものの美景だった。
「これは……海?」
エリカはわずかに目を見開き、疑問を口にした。
多くの知性種族は、一生かけてもシロ大陸を隔てる幾重もの障害を越え、海辺まで辿り着く機会などないだろう。まして、これほど広大で美しい青い海を見る機会などなおさらない。
エリカも、伝え聞いた話からそう判断しただけだった。
傍らのヴィンセントは小さく頷き、短く声を漏らして同意を示した。
二人が周囲の様子を確かめていると、不意に心を惑わせるような美しい女の声が響いた。
あまりにも耳に心地よく、魂にまで触れてくるかのような声音だった。身体も、心も、魂さえも内側から惑わされるような感覚に、二人は瞬時に警戒を強める。
「エリちゃん、こっちだよ!」
奇妙なほど親しげな呼び方に、エリカだけでなくヴィンセントまで声の方へ目を向けた。
自分の妻をそんな呼び方で呼ぶ者を、ヴィンセントが耳にしたのは初めてだった。
荒々しく波打つ海の中から、一つの影がゆっくりと浮かび上がってくる。 野蛮人よりもさらに大柄な影だった。
声の主は、普通の女性と変わらない美しく物静かな顔立ちをしていた。
上半身の肌は鮮やかな青。耳は鰭のような形をしており、三対の腕を持つ。身体は要所だけが鱗に覆われ、その優美な曲線は惜しげもなく露わになっていた。まるで人間の女性をそのまま巨大化させたかのような、整った均衡の身体だった。
だが、その巨大な女性が海から上がるにつれて、下半身の姿もはっきりと見えてくる。
腰から下は伸びた鱗に完全に覆われ、太く長大な尾へと変わっていた。その先端には大きな魚の鰭があり、絶えず左右に揺れている。
明らかに、二人が知るどの知性種族にも、悪魔種族にも属さない存在だった。
「エリちゃん、早くおいでよ! ほかの魔王たちはもう着いてて、二人を待ってるんだから」
「あの老竜ったら本当に我慢がなくて、ずっと怒ってぶつぶつ言ってるの。ほんっと嫌になるよね。新しい魔王が生まれたことなんてどうでもいいって言ってたくせに、結局二人がどうなってるのか気になって仕方ないみたいで……」
巨大な半人半魚の女は陸に上がるなり、口を休めることなく延々と喋り続けた。そのせいで、二人が先ほどまで抱いていた美しい声への印象は、瞬く間に崩れ去った。
エリカはすぐには答えず、身にまとった軍用のコートを軽く引いた。
この意識が投影された世界では、どうやら自分の姿を含め、ここにあるものは己の意識によって形作られているらしい。
見知らぬ環境についてある程度把握したエリカは、先に巨大な女へ歩み寄った。
近くまで来て初めて、自分の身長が相手の立てた尾の部分にすら届かないことに気づく。剥き出しになった腰や腹など、遥か頭上だった。
エリカは見上げながら尋ねた。
「海の魔王、クイナ?」
途切れることなく喋っていた半人半魚の女は、足元から自分を呼ぶ声が聞こえた途端、ぱっと顔を輝かせ、抑えきれない興奮とともに声を上げた。
「そうだよ! 私はクイナ。エリちゃんの案内役で、親友で、とっても仲のいい相棒! 私のことはナっちゃんでも、ナナでも、何て呼んでもいいよ。エリちゃんが喜んでくれるなら、私は何だって……」
エリカは手を上げ、止まりそうにない言葉を遮った。
あまりにも過剰な馴れ馴れしさに、以前、世界の心を通じて短く接触した時のことを思い出し、少しばかりうんざりする。
「もういい。先に魔王の庭へ連れていって。話はあとで聞く」
「あっ! そうそう、魔王の庭もあったね。エリちゃんに会えたのが嬉しすぎて、うっかり忘れるところだったよ。でも今はエリちゃんがいるし、私にとっては参加してもしなくても別にどうでもいいんだよね。だったら……ほかの魔王なんて放っておいて、私たちだけで……」
余計な言葉を返すことなく、エリカはきっぱりと言った。
「出発」
「はぁい……」
小さな返事。
美しく柔らかな声には、いかにも傷ついたと言わんばかりの響きがこもっている。ドロシーのわざとらしい芝居よりも、よほど人の心を揺さぶる声だった。
だが、意志の強いエリカには、ドロシーの芝居と同じく通用しない。
クイナはわずかに唇を尖らせると、一対の腕を差し出した。二つの巨大な掌を重ね合わせ、親友に乗るよう促す。
「ヴィンセントは?」
その掌へ乗ったエリカが、クイナに残された二対の腕を見ながら尋ねた。
クイナは残った手で口元を隠し、くすくすと笑う。
高い位置からヴィンセントを見下ろした瞬間、その可憐な声が急に冷え、言葉では表しにくい邪悪さまで滲み始めた。
「血族は生まれつき飛べるし、海だって大した障害にはならないでしょ? 手伝わなくても平気じゃない?」
そう言った直後、声が再び一変する。
顔には焦るほどの機嫌取りの笑みを浮かべ、エリカへ慌てて言葉を続けた。
「もちろん、エリちゃんは別だよ! 私の親友で大切な相棒なんだから、喜んで連れていってあげる。いつか霧影の淵に遊びに来てくれるなら、道中にいる知性種族は全部殺して道を開けてあげるからね。誰にも邪魔されず、堂々と気持ちよく私の迷宮城まで来られるように……」
美しく物静かな顔で口にしているのは、背筋が寒くなるような内容だった。話が進むほど、悪魔種族らしい残虐な一面が露わになっていく。
両耳の鰭まで興奮したようにぱたぱたと動き、自分で語った光景にすっかり心を奪われているらしい。今すぐ実行に移し、親友に自分の深い誠意を思い知らせたくて仕方がない様子だった。
「もういい。魔王の庭に着くまで、少し静かにしていたい」
またも勢いに乗ったところを遮られ、クイナの興奮した表情は目に見えてしぼんだ。何度も口を開きかけるが、親友に嫌われるのも嫌らしい。
残り少ない理性と衝動が何度かせめぎ合った末、それでも結局クイナは口を開いた。
ただし、今度は小さな声だった。
「エリちゃん、喋らないとつまらないよ。だったら私だけ喋るから、エリちゃんは何も言わなくていいよ。ゆっくり、小さな声で喋るから。みんな、深海妖姫の声が一番きれいだって言うんだよ。音楽だと思って聞いてればいいから……」
その言葉を聞き、エリカの心がわずかに動いた。
一つには、この未知の種族への好奇心。
もう一つには、実際にクイナの声が非常に耳に心地よかったからだ。
これほど喋り続けさえしなければ、エリカでさえ、そのまま聞いていたいと思わせるものがあった。
提案が黙認されたと分かると、クイナは再び満面の笑みを浮かべた。両手で大切そうに親友を持ち上げ、胸元の前で包むように支える。
するとクイナの周囲でエネルギーが鳴動し、澄んだ青い光が現れ、掌の上にいるエリカを完全に包み込んだ。
巨大な尾を勢いよく一振りする。
そのまま身体を翻し、海の中へと潜っていった。
最初から最後まで一言も発さず、ろくに相手にもされなかったヴィンセントは、その姿を見送りながら、以前エリカが「あの相手は精神に何か問題があるのかもしれない」と言っていた理由をなんとなく理解した。
いや。
おそらく、本当に問題がある。
取り残されたヴィンセントは、黙って背中に骨と血で形作られた翼を広げた。全身を同じような鮮紅色の球状の光が包む。
空へ勢いよく飛び上がり、一度旋回して加速すると、そのまま下方へ向きを変えて海へ突っ込んだ。
そして、巨大な人の上半身と蛇のような尾を持つ影の後ろをぴたりと追っていく。
海の中には、またしてもヴィンセントとエリカが見たこともない、幻想的で美しい世界が広がっていた。
大小さまざまな魚の群れが泳ぎ回り、鮮やかで壮麗な異形の海中植物が一面に生い茂る。さらに、色とりどりの藻が不思議な光を放ち、暗い海中に点々と散らばっていた。
単調で物寂しいものだと思っていた海底は、陸地にも劣らないほど生き生きとしていた。
「きれいでしょ」
クイナは得意げに親友を見た。
「意識を投影してるだけだけど、ここにある景色は私たちの精神や記憶をもとに作られてるんだよ。だから霧影の淵も、本当にこれくらいきれいなんだから。エリちゃんが来てくれる日が楽しみ……」
「……そうだ。オスヴィドから聞いたんだけど、エリちゃんの迷宮城って『天地を貫く峡谷』にあるんだよね」
「そこに昔いた魔王は私よりも古かったはずなんだけど、誰だったかはもう覚えてないの。でも、外海まで通じる地下河川があるはずだよ。エリちゃんさえよければ、いつか私も会いに行けるかもしれないね。その時は、ちゃんと私のことも歓迎してね……」
エリカは何も答えなかった。あることを思い出したからだ。
ヴィンセントは以前、自分や迷宮城について、それほど多くの情報は明かしていないと言っていた。だが、今のクイナの口ぶりからすれば、とてもそうとは思えない。
これでエリカは、さらに確信を深めた。
三大迷宮城の魔王たちは、知性種族の国家、あるいは何らかの勢力と、一定の繋がりを持っているに違いない。
さらに、エルフ族がもたらした情報を思い返す。
彼らもまた、原始樹海を通じて、一般には知り得ない死亡峡谷の情報をかなり得ていた。もしかすると、その二つの間には何らかの深い関係があるのかもしれない。
原始樹海は、神々の国の領内にある。
生体迷宮も、神々の国の領内にある。
霧影の淵こそ広大な外海にあるが、空に浮かぶ蒼穹の島も神々の国からそう遠くはない。
地形の関係上、蒼穹の島や霧影の淵にも冒険者や傭兵団は少なくないものの、集まるのは一定以上の実力を持つ精鋭や強者が中心だ。全体の数では、生体迷宮に集まる者たちほど多くはない。
その一方、生体迷宮は三大迷宮城の中でも最も人気が高く、死傷率も最も低いと言っていい場所だった。
何より、生体迷宮の攻略で一攫千金を狙うことは難しいものの、得られる利益は安定しており、決して小さくない。
それは大規模な開拓をほとんど行わない神々の国に、一定の繁栄と発展をもたらしていた。
こうして一つ一つを細かく考えていけば、すべてが偶然だとはエリカには思えなかった。その裏には、誰にも知られていない秘密が必ず隠されている。
その答えは、前にある。
魔王の庭。
世界の真実。
その資格を持たない生命には、知る術もなく、理解する能力も、それに届く力さえない。
かつての自分もそうだった。ヴィンセントと共に、小さな村で身を隠して暮らすことしか選べなかった。
だが、今は違う。
これから自分は、世界のすべてに触れ、そのすべてを掌握していく。
珍しく、エリカは自分の心臓が弾むように脈打ち、血が激しく全身を駆け巡るのを感じた。
長い、長い間味わうことのなかった昂揚感が込み上げてくる。
その感覚に、エリカの口元がわずかに持ち上がった。
珍しく、笑った。




