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67.召喚

「もっと早く現れると思っていたんだがな。ちょうどいい。この小箱には大して入らん。もう最後の少ししか残っていない」


 老バダは、いつの間にか背後に現れていた二体の大型鎌蜘蛛へ目を向けた。


 本来なら、外から来た生命を見つけただけで激しい攻撃欲と食欲を剥き出しにするはずの鎌蜘蛛が、今は訓練された兵士のように微動だにせず立っている。無数の不気味な赤い眼だけが、じっと自分を見つめていた。


 老バダはしばらく考え込んだ後、煙草入れを取り出し、そのまま相手へ放った。


 エリカは慣れた手つきで、中に入っていた紙と煙草を巻き合わせて火をつける。深く吸い、静かに煙を吐く。


 すでに殺し合いによって血の煉獄と化していた前方の野営地を見つめ、淡々と言った。


「前の四層で少し手間取った。あなたがもう少し準備の時間をくれていればよかったのだけれど」


「準備? 数千の命を一人も損なわずに皆殺しにする準備か?」


 老バダが冷笑する。


 再び煙を吐きながら、エリカはその非難にも表情一つ変えなかった。


「人間でも悪魔でも同じ。どんな種族であろうと、私の領域を侵せば待っているのは死だけよ」


 その答えを聞いた瞬間、老バダの嘲りは消えた。


 どんな状況でも落ち着きを崩さない老いた顔に、珍しく驚きが浮かぶ。


「そうか……本当に、お前だったのか」


「今はこの迷宮城の主なんだな。死ぬ前の老人の好奇心を、少しくらい満たしてくれないか?」


「天象異変」


 老冒険者が尋ねるより先に、エリカは答えた。


 世界の心のことも、自分とヴィンセントに起きたことも、決して口外するつもりはない。


 だが、一度は自分を「殺した」ほどの好敵手に対して、多少の事情を教えることくらいは惜しまなかった。


「そうか……全部、あの時から始まっていたのか。どうやら俺は想像力が足りなかったらしい。これなら負けても仕方がない」


「それで、この先はどうするつもりだ?」


 負けは負けだ。


 最初から条件が公平でなかったとしても、老バダに言い訳するつもりはなかった。それもまた能力の一つなのだから、自分の慎重さが足りず、想像も大胆さを欠いていたことを悔やむしかない。


 ただ、目の前にいる、人間でありながら悪魔でもある異質な存在が、この先何をするつもりなのか。それだけは気になった。


 エリカが巻き煙草を軽く弾く。


 先端から灰が一粒ずつ落ちていく。


 まるで皇家冒険団の数百人の命が、この洞窟の中で一つ、また一つと消えていくように。


「まず死亡峡谷を安定させる。その後は、悪魔種族と知性種族、それにこの迷宮城に関する秘密を調べるつもり」


 不可思議な迷宮城を手に入れ、恐ろしく強靭な肉体を得た。さらには永遠の命と呼んでも差し支えないほどの生命まで得ている。


 だがエリカは、そうした外的な力に惑わされたことなど一度もなかった。


 彼女は、自分の把握できないものを好まない。


 なぜ人間が悪魔へ変わることができるのか。


 永遠に近い生命を持つ悪魔種族とは何なのか。


 なぜ幼い頃から神官として教育を受けてきた自分が、一度もその存在を聞いたことがないのか。


 これほど強大な血族と、この異質な不死に近い悪魔種族は、なぜシロ大陸から姿を消したのか。


 魔王の庭の目的とは何なのか。


 悪魔種族と知性種族は、いったいどのような関係にあるのか。


 それらの答え次第で、この迷宮城が今後進む方向も変わる。


 どれも普通の者には触れることさえできない秘密だった。エリカは強い興味を抱いていた。


 話し終えると、老冒険者の反応を待つこともなく、彼女は唐突に申し出た。


「老バダ、考えてみて。私を手伝わない?」


 カンダベスにいた頃と同じだった。


 気に入った相手であれば、たとえかつて敵対していた者であっても、エリカは自ら手を差し伸べることを厭わない。


 誘いを聞いた瞬間、煙管を持つ老バダの手がわずかに震えた。


 だがすぐに元へ戻る。


 答える代わりに、彼は別のことを尋ねた。


「蒼藍帝国へ反撃するつもりはないのか?」


「もう一度戦争を起こすの? かつての血染めの薔薇のように?」


「そんなことをすれば、新しい殺戮の連鎖が延々と続くだけ。ヴィンセントは、私がそんなことをするのを喜ばない」


 答えを聞いた老バダは、前方へ目を向けて笑った。


 すでに血に染まった野営地では、防御陣形を崩された生存者たちがばらばらに戦っている。


 切断された手足。


 崩れた身体。


 飛び散る肉片と砕けた骨。


 あるのは巨大な石炎魔と無数の鎌蜘蛛が、一人、また一人と命を刈り取っていく光景だけだった。


 あちこちから上がる悲鳴の中には、勝手に自分を師匠と呼び続けていた女冒険者の声も混じっている。


 老バダは笑った後も返事をしなかった。


 ただ煙管を吸いながら、戦場から響く泣き声と殺し合いの音に耳を傾けていた。


 高熱が徐々に岩盤を溶かしていく。


 それでも多くの精鋭戦士や熟練冒険者が必死に抵抗を続けていた。生きたいという意志が、普段以上の力を引き出している。


 絶境に追い込まれた彼らの激しい反撃には、さすがの石炎魔も耐え切れなかった。


 数十体の石炎魔が次々と砕かれ、崩れ落ちていく。


 知性種族側に恐るべき被害を与えた溶岩の巨人たちは、ついにすべて倒された。


 だが、その直後。


 押し寄せてきたのは、視界を覆い尽くすほどの十本脚の蜘蛛だった。


 地面。


 洞窟の天井。


 岩壁。


 地潜り虫が穿った通路からも、なお一体、また一体と鎌蜘蛛が途切れることなく湧き出してくる。その数に終わりは見えない。


 それまで石炎魔の放つ高熱を恐れ、直接戦闘に参加できず、糸を吐いて援護することしかできなかった鎌蜘蛛たち。


 今、ようやくこの場所は十本脚の蜘蛛たちの戦場となった。


 傷ついた戦士。


 疲弊した魔法使い。


 わずかに残された神官と医療要員。


 数百人いた強大な精鋭部隊は、命を惜しまぬ石炎魔の突撃を受けた末、今や数十人も残っていない。


 その一人一人が、鎌蜘蛛に包囲されていた。


 さらに地下からは、何度も震動が伝わってくる。地潜り虫が攪乱しているのだ。いつ地面を突き破って襲いかかってきてもおかしくない。


 強力な守衛。そして組織された攻撃。互いを組み合わせれば、無数の戦術を生み出せる。


 だからこそ、主と守護者を持つ迷宮城は恐ろしい。


 まして今の所有者は、知性種族から転じた冷酷な悪魔だ。


 死亡峡谷という名は、これからさらにその名にふさわしいものになっていくだろう。


 地面を埋める死と殺戮。


 高熱に溶かされていく血肉。


 まるで本物の地獄が、目の前に現れたかのようだった。


 そのすべてが、隣に座る金髪褐色の女によって引き起こされたものだ。


 かつて身体を蝕んでいた古傷や病は、ひょっとすると神霊が意図して彼女に課した枷であり、試練だったのではないか。


 老バダはなぜか、そんなことを考えた。


 だがそこまで考え、自分でもおかしくなって、低く笑う。


「俺も本当に老いたらしい。神霊なんて、手の届かない存在のことまで考えるようになるとはな」


「そう?」


 エリカが小さく問い返す。


 その瞬間だった。


 何の前触れもなく、老バダは異形の武器を抜き放った。


 黒い銃口が、すぐそばにいる悪魔のこめかみへ向けられる。


 炸裂音。


 エネルギー弾が急所を直撃した。


 だが、老冒険者の顔に喜びはなかった。


 ただ長く息を吐き、その奇妙な武器を地面へ放り捨てると、再び煙管を吸い始める。


 本来ならエネルギー弾によって砕け散っているはずの頭部には、わずかなへこみが残っただけだった。


 しかも、それすら急速に元へ戻っていく。


 硬さも、回復速度も、恐ろしいほどだった。


 金髪の女は、老バダがこれまで一度も遭遇したことのない悪魔種族へと変わっていた。


 頭部へ強烈な一撃を受けても、エリカの表情はほとんど変わらない。ただ、わずかに残念そうな色を浮かべただけだった。まるで今、頭を撃ち抜かれたのが自分ではなかったかのように。


 最後の一口を吸い終え、白い煙を吐き出す。


「残念」


 エリカは立ち上がった。地面に捨てられた奇妙な武器を拾い上げ、しばらく仔細に観察する。


「最後に一つだけ。これは何という武器?」


 老バダは煙管を逆さにして軽く叩き、中の燃え滓を落とした。後輩たちから贈られた大切な品を丁寧にしまう。


 できることなら、これも一緒に連れて逝きたかった。


「魔導製品だ。『エネルギー銃』と呼ぶ奴もいる。鋼鉄の玉座の最新発明で、飛空艇に積まれているエネルギー砲を小型化したようなものだな」


「まだ研究と試験の途中だ。俺も『槍と剣と火』との縁があったから、一丁だけ手に入れられた」


「悪くない。この武器は、いずれ多くのことを変えるかもしれない」


 エリカはエネルギー銃を風衣の中へしまった。そして老冒険者へ向き直る。


 その表情が、ようやく冷酷なものへ変わっていく。


 情け容赦のない声で告げた。


「老バダ。生きているうちは手伝ってくれないのなら、死んだ後に手伝ってもらうしかないわね」


 その言葉を聞いた瞬間。


 静かに冒険者としての最期を受け入れようとしていた老バダの胸に、これまで一度も覚えたことのない焦りが走った。


 考えるより早く、腰の長剣を抜く。


 だが同時に、胸を引き裂くような激痛が襲った。


 鎌蜘蛛の巨大な鎌腕が背後から心臓を貫き、老バダの身体を高々と持ち上げる。


 意識が急速に薄れていく。


 最後に目を閉じる直前、老バダが見たのは、異様なほど鮮やかな赤い双眸だった。そこから尋常ではない赤い波動が広がっている。


 さらに全身を包むのは、灰色の霧を思わせる蒼白い気配。


 天地が生み出した、霞むように幻想的な美しい宝石のようだった。


 目を奪われるほどに。


 そしてついに、かつてシロ大陸に名を馳せた老冒険者は、最後の息を失った。


 エリカはその姿を見つめた。


 凛々しく鋭い顔立ちが、珍しく沈黙に包まれる。


 背後の野営地で、すでに終局へ近づきつつある殺し合いさえ無視して。


 しばらくして、彼女は天賦の継承によって得た記憶を辿り、集中して低い声で詠唱を始めた。


 低い声音が続くにつれ、冷たく、暗く、穢れた邪悪な力を思わせる蒼灰色のエネルギーが大量に集まり始める。


 それは徐々に、死んだ老冒険者の身体へ染み込んでいった。


 蒼灰色のエネルギーが旋風のように遺体を取り巻く。やがて暗い光を放つ巨大な繭が完全に形作られると、エリカはようやく詠唱を止めた。


 その表情には、わずかな疲労が浮かんでいる。


 これが、彼女にとって初めて使う天賦「召喚」だった。


 少し休み、身体の状態が落ち着いたのを確認すると、エリカは軽く指を鳴らした。


 暗い光の繭が反応する。


 粗い老いた両手が、内側から繭を突き破った。


 死んだはずの老バダが、暗光の繭を引き裂いて外へ出てくる。


 顔に表情はない。


 生気も感じられない。


 元は少し浅黒かった肌は、青白く透けるような色へ変わっていた。


 全身から漂うのは、自然の生命が本能的に拒絶し、嫌悪するような異様な気配。


 先ほど鎌蜘蛛に貫かれた胸の傷も、すでに完全に消えている。


 エリカはエネルギー銃を取り出し、彼へ差し出した。態度は変わらず、同じように丁寧だった。


「老バダ。これからよろしく」


 まるで動く死体のように、焦点の合わない目をした老バダが手を伸ばし、エネルギー銃を受け取る。


 そして、ひどく不自然な調子の声で、曖昧に答えた。


「はい」


 別の形で再び目覚めた老冒険者は、時間が経てば徐々に心を取り戻していく。どこまで本来の力を発揮できるかは分からない。


 天賦「召喚」にはまだ多くの制限があり、相応のエネルギーも必要になる。


 それでもエリカは、この能力を高く評価していた。


 少なくとも、命令に逆らえないという一点だけでも、労力をかける価値は十分にある。


 二体の大型鎌蜘蛛と、「復活」した老バダを連れたまま、エリカはようやく戦場へ視線を向けた。


 自分の計画を見抜き、かつて自分の命を終わらせた相手との決着はついた。


 だが彼女は、ただ隅に立ってすべてを眺めるだけで、戦闘に加わるつもりはなかった。


 エリカが姿を現した時点で、第五層迷宮での戦いの結末など、すでに決まっていたからだ。


 ところが、野営地の一角へ視線を移したとき。エリカがわずかに眉を動かした。面白いものに気づいたのだ。


 第六層迷宮へ続く通路の近く。


 石炎魔が倒れた後、鎌蜘蛛と地潜り虫が交互に襲撃を続けていた。負傷者ばかりとなり、百人にも満たなくなった皇家冒険団は、すでに一方的に崩れつつある。


 ドロシーは、岩壁の高いところから突き出た岩に腰を下ろし、退屈そうに戦場を眺めていた。その下にいるのは、野営地へ紛れ込むため、本当に重傷を負ったグリフィスだった。


 ここまで脅されながら数百、数千もの人間を殺す手助けをさせられ、グリフィスはすでに理解している。


 上にいるのは、本物の女悪魔だ。


 しかも精神状態がひどく不安定である。


 最初に彼女を可愛い娘だと思っていた自分は、完全に騙されていた。


 女悪魔が自分の傷の重さなど気にも留めていないことも分かっている。


 だが、ここまで来て帝国を裏切った以上、グリフィスはなおさら死にたくなかった。


 何とか呼吸を整える。


 先ほど少しだけ治療された傷は、技巧「自己治癒」のおかげで徐々に出血が止まり、悪化も抑えられつつあった。


 この先、自分がどうなるのか。


 そんなことを考えていたとき、グリフィスは偶然それを目にした。


 皇家冒険団と迷宮城の守衛が激突する戦場。本来なら目立つはずの、美しい銀白色の人影が、いつものように人目を引くことなく、乱戦に紛れてゆっくり移動している。


 そして、少しずつこちらへ近づいていた。


 相手の意図を察したグリフィスは、一瞬迷った。


 上では女悪魔が相変わらず気の抜けた様子でくすくす笑い、ときおり頬杖をつきながら義兄の名前を呟いている。


 危険が近づいていることには、まるで気づいていなかった。


 グリフィスの胸中で、激しい葛藤が起きる。


 そのとき――


「ドン!」


 すぐ近くの戦場から、巨大な衝撃音と震動が響いた。


 地潜り虫の巨体が魔法の防壁を突き破り、そのまま人の群れへ重く倒れ込んだのだ。下にいた小さな身体が、一瞬で肉片と血泥に変わって弾け飛ぶ。


 逃げ惑う人々の泣き声と罵声が響く。


 だが待っているのは、結局、食い殺されるか死ぬかだけだった。


 その光景が、グリフィスを完全に現実へ引き戻した。


 自分が何をすべきか。


 ようやく決意すると、顔を上げて叫ぶ。


「ドロシー様! 気をつけてください! 奇襲です!」


 伏撃が露見した。


 乱戦の中、一つの人影が突如として眩い金色の光を放つ。


 鋭い気合いとともに、神術の加護と技巧によって爆発的に高められた力で、何重もの守衛の包囲を突破した。そのまま大きく踏み切り、半空の岩壁へ跳躍する。


 両手で長剣を握り、女悪魔の頭へ振り下ろした。


 警告を聞いて我に返ったドロシーは、目を大きく見開いた。迫る剣光を驚愕の表情で見つめながら、慌てて両翼を広げ、身体を後方へ飛ばしてかわす。


 ディアドラは止まらない。


 岩壁から突き出た岩を足場にし、再び跳躍して前へ飛び、二撃目を放つ。


 一方は血の翼を広げて素早く後退し、


 一方は金光を放ちながら岩を蹴って駆ける。


 悪魔と人間。


 二人は洞窟の岩壁を舞台に、もう一つの戦いを始めた。

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