66.死地
死亡峡谷、第五層迷宮。
もとは薄暗く汚れていた洞窟も、皇家冒険団が進駐してからは、主要通路が煌々と照らされ、脇道にも淡い明かりが灯されていた。かなりの規模となった野営地には、大勢の精鋭兵や冒険者が集まっており、その表情はいずれも重い。
外へ通じる空中の石道は、進む先も退く先も数え切れないほどの鎌蜘蛛に完全に占拠されている。
逃げ場のない状況に陥っても、ログラムはまだ諦めていなかった。老バダがそれ以上口を開こうとしないのを見ると、自ら部下を集めて協議し、ようやく一つの策を考え出した。
「第四層へ通じる空中の石道を占拠している鎌蜘蛛を、力ずくで排除します」
「神術の加護を受けた盾持ちの部隊を先頭に突入させ、まず空間を作る。その後、待機させている魔法使いたちに水系統の魔法を使わせ、水圧で押し返すか凍結させます。空中の石道そのものを壊さないよう敵を排除し、増援が来るまでの隙を突いて全員で一気に突撃します」
「そうすれば、最短時間で封鎖を突破して一つ上の迷宮へ戻れる可能性があります。多少の死傷者は避けられないでしょうが、戦術がうまく機能すれば、地上まで撤退して増援を要請できるはずです」
説明を終えると、意見を求めるようでもあり、参加を促すようでもある口調でログラムが言った。
「老バダ殿、いかがでしょうか?」
誰が盾役を務めるのか。誰が殿を引き受けるのか。そして誰が、避けようのない「犠牲」となるのか。
老バダは何も尋ねなかった。
先ほどから考え続けた末に、そんな答えを知ったところで意味はないと、すでに分かっていたからだ。
何より老バダは、この新任団長が口にした戦術が通用するとは思っていなかった。
ここが第二層、せめて第三層迷宮であれば、まだ可能性はあったかもしれない。数百人の勇猛さと勢いに任せ、一気に突破して地上まで戻ることもできただろう。
だが、ここはすでに第五層だ。
同じ戦術で空中に架かる石の道を四つ続けて突破するなど、あまりにも現実味がない。
こちらを確実に仕留めるため、すでにこれほど周到な罠を張った敵が、何の反応も見せないはずがなかった。
それでも、少なくともこれは一筋の希望にはなる。揺らいでいる者たちの心を、わずかでも支えることができる。
だから老バダは、士気を挫くようなことは何も言わず、ただ簡単に頷いて部隊への参加を了承した。
あとはログラムの采配次第だった。
同意を得たログラムはすぐにその場を離れ、作戦の準備に取りかかった。
その背中を見送りながら、老バダはふと疲れを覚え、近くの岩に腰を下ろした。そして煙管を取り出し、残り少ない煙草を最後まで吸ってしまおうとする。
そこへ、凛とした人影が近づいてきた。
「老バダ、もう望みはないのか?」
ディアドラには、相手が何を考えているのかまでは分からない。
だが目はある。
この伝説的な老冒険者が、ほとんど諦めていることくらいは見て取れた。
「望み?」
「逃げ出すことか?」
「それとも、お前が執着していることか?」
「どちらも難しいな」
結局、最後の一服を吸うこともできず、老バダは煙管をしまって目の前の相手をじっと見た。
この光騎士が、用もなく自分を訪ねてくるはずはない。
「難しいからといって、望みがないわけではない」
ディアドラの意志は変わらなかった。
これほどの窮地に陥ってなお、一度として揺らいではいない。
双子教会の光騎士に選ばれるほどの者が、並の人間であるはずがない。思考力も発想も行動も、常人より優れているだけでなく、常人とは異なるところがある。
老バダは少し考えた末、先ほどようやく考え至ったことを話すことにした。
「もし俺が罠を仕掛けた側なら、今すぐ空中の石道を壊す。そうすれば迷宮城の中にいる連中から、あらゆる希望を奪える」
「その後は攻める必要すらない。ただ包囲して待っていればいい。洞窟にいる侵入者の九割以上は、飢えと恐怖、それに責任の押しつけ合いから、勝手に殺し合いを始める」
「迷宮城の主にせよ守護者にせよ、地潜り虫と鎌蜘蛛を使えば、空中の石道を造り直すこと自体は難しくないからな」
確かに筋は通っている。
だが自分たちに訪れるかもしれない未来を聞いても、ディアドラの表情には動揺がなかった。
静かに問い返す。
「なら、なぜ相手はそうしない?」
その言葉を聞き、老バダは笑った。
帝国辺境へ来て以来、その皺だらけの老いた顔がこれほど晴れやかに笑ったのは初めてだった。
おそらく、最後でもある。
「このほうが、俺たちを皆殺しにしやすいからだ」
そこまで聞いて、ディアドラも完全に理解した。
より確実な方法があるのに使わないのなら、それ以上に効率のいい方法があるということだ。
そして厄介なことに、皇家冒険団の側から空中の石道を壊すこともできない。ここに籠もって救援を待つという選択肢には、まったく望みがなかった。
たとえ蒼藍帝国が一切ためらわず全力で救援に動いたとしても、再攻略に必要な人員や物資を揃えているだけで、彼らが迷宮城の中で餓死し、白骨になるには十分な時間が経ってしまうだろう。
この伝説的な老冒険者が、すべてを悟った途端に抵抗を諦め、ひどく沈み込んでいたのも無理はない。
「あなたたちにはもう望みがない。それなら……私には、まだ機会があるか?」
ここにいる者たちの行く末を聞いても、ディアドラは挫けずに問い続けた。
金色の瞳には強い意志が宿り、諦めの色など微塵もない。
彼女の言う「機会」が何を指しているのか、老バダには分かっていた。ここまで追い詰められてもなお退こうとしない。
すでに諦めていた老バダでさえ、その執念と勇気には心を動かされた。
危機が深まれば深まるほど、己の意志を最後まで貫こうとする勇者の強さは際立つ。
彼は、この光騎士のために真剣に考えてやることにした。
「命を捨ててでも、裏にいる敵を仕留めたいのか?」
「悪魔を?」
「いや……ヴィンセントを、と言うべきか?」
ディアドラは小さく頷いた。
その動きに合わせ、後ろで束ねた銀白色の髪が上下に揺れる。
「なら、隊列の中に隠れて、何があっても生き延びろ」
「誰かが死んでも、救うな」
「敵が現れても、殺すな」
「悲劇が起きても、目を向けるな」
「第五層迷宮にいる数百人が死に尽くすまで、お前は死ぬな。怪我さえ避けろ。そうすれば……敵と顔を合わせる機会まで生き残れるかもしれない」
「分かった」
低い声で答えると、助言を得たディアドラは一切ためらわず背を向け、最後の準備へ向かった。
だが立ち去る前、ふと足を止める。
そして心からの言葉を口にした。
「ありがとう。あなたと共に戦えたことを、光栄に思う」
迷いなく遠ざかっていくその背中を見つめながら、老バダはひどく惜しいと思った。
あれは実にいい切り札だった。
だが、持っている情報量の差によって、自分は最初から状況判断を誤っていた。
大部隊の全員が迷宮城へ足を踏み入れた、その瞬間。
すでに自分たちは負けていたのだ。
相手の一手は、あまりにも早く、あまりにも深く、そして苛烈だった。
「先生! ログラム団長たちがもう出発します! 私たちも早く行きましょう!」
老バダが胸中でそんなことを考え、再び煙管を手に取ったところへ、自称弟子の女が焦った様子で駆け寄り、大声を上げた。
何度も最後の楽しみを邪魔され、老バダは思わず無言で手の中の煙管を見つめた。
これは『槍と剣と火』の子供たちから餞別にもらったものだった。
過ぎ去った日々の記憶が、不意に胸の内へと押し寄せる。
老バダは先ほど立ち去っていった背中を思い出し、最後にはゆっくりと煙草へ火をつけた。
「ミユナ、お前は行け」
「もし生き残れたら、生体迷宮にいる『槍と剣と火』を訪ねろ。俺の弟子だと言えば、連中には分かる」
ミユナの胸に、さまざまな感情が一気に入り交じった。
嬉しくもあり、怖くもあった。
ようやく、認めてもらえた。
ほんの数か月一緒に過ごしただけだが、この老冒険者は知らず知らずのうちに多くのことを彼女へ教えてくれた。
そして最後には、自分の名を使い、十大傭兵団の一つである『槍と剣と火』を頼ることまで許してくれた。
だが同時に、この別れの言葉が意味することも分かってしまった。
老バダは行かない。
もう、行けないからだ。
ほんの一瞬だけ、ミユナも自分はここに残ると叫びそうになった。だが彼女が教えを請うたのは、何の意味もなく死んでしまわないためだった。
だから最後には、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「先生……どうか、ご無事で」
そう言い残し、ミユナは足早に立ち去って、すでに集結を始めていた部隊へ加わった。
周囲には老バダと同じように、それぞれ居心地のよさそうな場所を見つけて腰を下ろしている古参の者たちもいた。
随行冒険者に選ばれるほどの彼らは、いずれも豊富な経験を持つ精鋭だ。今回、生き残れる可能性が限りなく低いことも分かっている。
自分たちを捨て駒にする部隊へ加わるつもりはなく、ただ黙って最後の死闘に備えていた。
皇家冒険団は準備を整え、冒険者たちは時を待ち、光騎士は身を潜める。
洞窟の空気は徐々に冷え固まるように張り詰め、ついには限界へ達した。
そのときだった。
息も絶え絶えの叫び声が響き渡り、作戦開始直前の静寂を完全に切り裂いた。
「だ……誰か……!」
「助けてくれ……早く……石炎魔が……石炎魔が来るぞ!!!」
全員の視線が声の方向へ集中した。
第六層迷宮へ通じる通路から、全身を血に染め、傷だらけになった大柄な男が飛び出してきたのだ。
男は今にも倒れそうなほど身体を震わせながら、傷ついた身体を引きずるように進んでいた。
その姿を目にしたログラムは一瞬呆然としたが、すぐさま突破作戦を中止した。
神官と医師を呼んで救護に当たらせ、自らも男へ駆け寄って声を張り上げる。
「今の話はどういうことだ! なぜ石炎魔が現れる! お前はどうやってここまで逃げてきた!?」
治療の神術と医師の処置によって、男の重傷はどうにか抑えられた。
男はログラムを強くつかみ、弱々しい声で言った。
「俺……俺は第十層に駐留していたグリフィスです……」
「俺たちは……石炎魔に階層を越えて襲撃されました……ここまで……大勢を犠牲にしながら、どうにかここまで逃げて……奴らが……来ます!」
言い終わるや否や、何かが砕け散る轟音が響いた。
洞窟全体が揺れ始める。
すぐさま偵察役たちから報告が飛んできた。
「団長! 数は不明! 石炎魔が第六層から侵入しようとしています! 今は通路が狭すぎてつかえていますが、まもなく突破してきます!」
第一層から第五層までは緑皮鬼と食獣人の生息域であり、石炎魔が通れるほど大きな通路は存在しない。
それが逆に、皇家冒険団に一時の猶予を与えていた。
報告を受けたログラムは少しだけ考え、すぐに決断を下した。
「当初の計画は中止! 石炎魔の迎撃を最優先とする! 敵を撃退した後、改めて離脱作戦を行う!」
空中の石道を突破している最中に石炎魔に追いつかれれば、鎌蜘蛛との挟撃を受ける。
そうなれば、本当に逃げ道はなくなる。
それならば背水の陣で迎え撃ち、まず追撃してきた敵を退けてから撤退したほうが、まだ可能性はある。
新たな団長に指名されただけあって、ログラムには迷宮城での豊富な戦闘経験があった。
すぐさま数百人を配置し、陣形を整える。
すべての準備は完了した。
あとは石炎魔が姿を現すのを待つだけだ。
「ズン! ズン! ズン!」
巨大な足音が次第に近づいてくる。
洞窟の揺れも激しさを増していった。
全員の緊張と戦意が頂点に達した、その瞬間――
轟音とともに洞壁が完全に砕け散った。
巨大な石炎魔が、ついに姿を現す。
「攻撃!」
命令と同時に、魔法のエネルギーが氷の矢、冷気、水霧へと姿を変えた。
洞窟の内部は一瞬にして白銀の世界となり、次々と生まれた氷青の光が第一の石炎魔へ一斉に襲いかかる!
氷と水が灼熱の炎と激突し、大量の蒸気が噴き上がった!
最初の石炎魔は一瞬で激しい攻撃を浴び、全身を覆っていた赤い光が消える。巨大な本体が露わになると、そこに亀裂が走り、瞬く間に広がって破裂した。
最後にはいくつもの巨大な岩塊となって崩れ落ち、その衝撃で洞窟全体が何度も大きく揺れた。
「構えろ! 次が来る! 俺の指示を待て!」
第二の石炎魔は、前にいた同族が倒されたのを見て学習したらしい。巨大な両腕を身体の前へ構え、そのまま大きく踏み込んで突進してきた。
それを見たログラムはすぐに戦術を切り替えた。
「脚部へ攻撃を集中!」
再び魔法による集中攻撃が始まった。
大量の水系、氷系魔法が第二の石炎魔の下半身を瞬く間に砕き、その巨体は止め切れない勢いのまま前のめりに地面へ倒れ込む。
神官から元素への耐性を高める神術の加護を受けていた戦士たちが、一斉に殺到した。
狙いは敵の核だ!
後方では、第三、第四の石炎魔も次々に戦場へ入ろうとしている。
だが、やはり通路が狭すぎた。
後ろにいる石炎魔は一体ずつ順番に入るしかない。
ログラムの巧みな指揮によって戦況は徐々に皇家冒険団側へ傾き、彼らは敵を一体ずつ確実に仕留め始めていた。
そのとき、聞き覚えのない女の焦った声が響いた。
「ログラム団長! 先ほど重傷で逃げてきたグリフィスから、緊急の報告があります!」
ログラムは声に振り返った。
そこで初めて、先ほど戦場から離され治療を受けていたグリフィスが、一人の女冒険者に支えられながらどうにか立っていることに気づいた。
二人はログラムの護衛に警戒線の外で止められており、ひどく焦った様子を見せている。
「連れてこい!」
戦況は切迫しており、ログラムも大きく気を逸らすわけにはいかなかった。 何とか振り返ってそう叫ぶと、再び石炎魔への指揮へ意識を戻した。
やがて二人が背後まで来た気配を感じる。
時間のないログラムは振り返りもせず、素早く尋ねた。
「まだ何かあるのか! 早く言え!」
「団長……俺……生きたいんです」
消え入りそうな声だった。
しかも、あまりにも唐突で意味の分からない言葉だった。
ログラムと傍らにいた護衛たちは、即座に異変を察知した。
だが動こうとした瞬間、全身が見えない糸のようなエネルギーに絡め取られ、動きを阻まれる。
拘束する力そのものは強くない。相手が欲しかったのは、その一瞬の遅れだけだった。
一本の長剣が、背後からログラムの腰腹部を貫いた!
続いて細い腕が伸び、鋭く長い爪が襲いかかる。
ログラムは避けようとしたが、一歩遅かった。
後ろ首の肉が大きく抉り取られる!
骨と血で形作られた翼が大きく広がった。見知らぬ女冒険者は、妖艶な女悪魔へと姿を変える。
彼女はグリフィスを連れ、石炎魔のいる方向へ飛び去っていった。
あとに残ったのは、興奮と狂気に満ちた高笑いだけだった。
ログラムの顔には信じられないという表情が浮かんでいた。口から大量の血が止めどなく流れ落ちる。
力なく震えながら膝をつき、喉へ流れ込む血のせいで声すら出せない。ただ何かをつかもうとするように、必死に手を伸ばした。
だが最後には、その手も力を失う。
ログラムは地面へ倒れ込んだ。
「団長!」
「神官と医者を呼べ!」
「慌てるな! 残りは俺の指示に従え! 陣形を維持し、石炎魔への攻撃を続けろ!」
皇家冒険団の残る指揮官たちの反応は素早かった。
だが、それまで高まっていた部隊の士気は、悪魔による奇襲で一気に叩き落とされた。
戦況が、再び逆転する。
そして本当のとどめが来た。
洞窟上方、あらゆる方向の岩壁から激しい振動が伝わってくる。
次の瞬間、一体、また一体と巨大な虫の身体が岩壁を突き破って現れた!
その後ろから、びっしりと密集した大量の鎌蜘蛛が雪崩れ込んでくる!
立て続けの奇襲を受け、皇家冒険団はついに全面的な崩壊を始めた。
「なるほど……さっきまでの地潜り虫の振動は、このためだったのか……」
最も隅の一角に座り、目の前の野営地が死の宴へと変わっていくのを眺めながら、老バダはひどく静かだった。ただ一つ、煙の輪を吐き出して呟く。
「失礼する」
「煙草を少し、分けてもらえないか」
女の声は突然だった。
それなのに、どこか当然のようでもあった。
すでに運命を受け入れる覚悟をしていた老冒険者は、驚かなかった。
一瞬、あの夜へ戻ったような感覚を覚える。
風衣を羽織った、金髪で褐色の肌をした女が――
彼の隣に腰を下ろした。




