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55.大会議

 グヤ祭司が下がると、続いてドーマ長老が壇上へ進み出た。その低い声は決して大きくなかったが、広場にいる亜人とエルフの一人ひとりの耳へ、はっきりと届いていく。


「ここ数日、私は母樹を通して、外から来た者の様子を見ていました。その姿は、伝承に残る人間の特徴と一致していました。ですから、悪魔種族ではないと思っていたのですが……」


 広場では、毀誉の入り交じるその種族の名を聞いたエルフと亜人たちが、驚きを隠せず口々に話し始めた。


「人間?」


「闇の深淵の向こう側に隔てられてるんじゃなかったのか? 俺たちですら、あんな恐ろしい場所を越えて原始樹海へ戻ることはできないのに、どうやって……」


「まさか、人間が魔王の遺した迷宮城を攻略したのか? あそこには竜獣時代から生き残っている強大な超獣種がいるって、先祖から警告されてただろう?」


 壇下で様々な憶測が飛び交い始めても、ドーマ長老は止めようとはしなかった。ただ、そのまま話を続ける。


「……ですが、私は間違っていました。昨日、外から来た者は誤って捕食妖樹の領域へ入り込み、逃げるために悪魔種族の姿へ変化したのです。それも……すでに滅びたはずの、恐るべき血族である可能性が高い」


 村の住民たちは悪魔種族を実際に見たことがない。それどころか、他の知性種族を目にした者すらいなかった。


 彼らが知っているのは、遠い昔から語り継がれてきた物語だけだ。


 そのドーマ長老が、わざわざ「恐るべき」とまで口にした。ならば血族という種族は、よほど強大で邪悪なのだろう。


 住民たちの胸にも、次第に重い不安と圧迫感が広がっていった。


「伝承によれば、血族は数々の強力な天賦を持つだけではありません。何より恐ろしいのは、生まれながらにして他者を感染させ、その精神を狂わせる力を持つことです」


「被害を受けた者は吸血への欲求を強め、衝動的になり、怒りやすくなり……やがては互いに殺し合うようになる。混沌時代には、それによって滅びた種族も少なくなかったと伝えられています」


 そこで一度言葉を切る。


 説明が進むにつれて空気はますます重くなり、先ほどまで話していた住民たちの多くは、すでに声を出すことさえできなくなっていた。


 それを見てから、ドーマ長老は続けた。


「この者がもたらすかもしれない危険について確かめるため、今朝、私は母樹を介して原始樹海のエルフの長老たちと交信しました」


「そこで得た情報によれば、人間の蒼藍帝国は現在、闇の深淵を攻略しているそうです。そして、この血族は元々人間だった者が変化した可能性が高い」


「信じ難い話ではあります。ですが皆も、以前に闇の深淵から二度起きた異変を、自分の目で見たはずです。あのような現象は、この村の記録にも一度として残されていません。あの迷宮城では今、私たちの想像も及ばない変化が起きています」


 あの日の光景を思い返す。


 遥か遠方の空は、澄み切った青に美しく染まり、膨大なエネルギーが飛瀑のように流れ落ちて夜空を彩った。


 見慣れた世界そのものが、誰も見たことのない壮大な光景へ変貌していた。


 あの奇跡を目の当たりにした時、自分たちがどれほど驚嘆したか。


 その記憶が再び胸に蘇り、広場はしばし静まり返った。


 やがて、キヌにも劣らぬ巨体を持つ中年の亜人が口を開いた。


 顔を覆う髭も毛も荒々しく、獣の特徴が色濃い。人間らしい部分のほうが少ないほどだった。


 雷鳴のような声で問いかける。


「ドーマ長老! つまりその外から来た者は、人間に送り込まれ、俺たちと接触するか――あるいは俺たちを奴隷にするために来たってことですか!」


 ドーマ長老は壇下の中年亜人へ目を向け、首を横に振った。


「いいえ。そこについては、むしろ良い知らせがあります。外から来た者はすでに人間の国を裏切り、現在は追われる身となっているそうです。そのため私と原始樹海の長老たちは、彼がここへ来たことには別の目的があるのではないかと考えています」


 それを聞き、皆はいくらか胸を撫で下ろした。


 どれほど強力な悪魔種族だろうと、たった一人で森の中の彼ら全員を相手にすることなどできるはずがない。


 そうでなければ、悪魔の残虐さと人間の邪悪さを兼ね備えた存在など、村の子供が聞いただけで泣き出しかねない恐ろしい組み合わせだった。


「一人だけなら心配することないだろ。この村にはエルフも亜人も何千人もいるんだ。巡回隊を出して追い払えばいい」


「そうだ。きっと人間の国から逃げるためにここまで来たんだろ。早く追い出したほうがいい」


「でも、いつか人間の国が迷宮城を攻略して、闇の深淵を越えて光の高原まで来るかもしれない。その時、村はどうする? 人間たちは原始樹海と同じように、俺たちのことも尊重してくれるのか? 昔の血染めの薔薇事件だって……」


 意見が入り乱れる中、ようやく少し先のことまで考えた発言も聞こえ始めた。


 ドーマ長老とグヤ祭司は、互いに目を合わせる。そして、そうした意見を口にした亜人やエルフたちを、密かに覚えておいた。


 二人はもう老いている。


 この村の未来も、そう遠くないうちに彼ら若い世代へ託さなければならない。


 住民たちの議論は、再び次第に激しさを増していった。


 グヤ祭司がもう一度、大きな杖を地面へ強く打ちつける。


 広がった衝撃に我へ返った人々が、再び壇上へ視線を向けた。


 皆の注意が戻ったことを確認してから、ドーマ長老は続ける。


「当初、私も原始樹海の長老たちも、この者を追い払うつもりでした。その後で人を闇の深淵へ送り、状況を調べる。もし本当に人間の帝国が光の高原まで来られるようになったのなら、こちらも早いうちに準備を整え、平和的な対話を試みようと考えていました」


「ですが、その時です。母樹が――およそ百年ぶりに、啓示を授けました。私だけではありません。原始樹海の長老たちも、同じ啓示を受け取っています」


 母樹には知性がある。


 ただし、その意思を読み取ることは極めて難しい。


 だからこそエルフの部族には、母樹からもたらされる啓示を読み解く長老がいる。それは、すべてのエルフが知っていることだった。


 だが、生涯で本当に母樹の啓示に立ち会える者は、ほんの僅かしかいない。


 三百年以上を生きているドーマでさえ、これがまだ二度目だった。


 今回は光の高原と原始樹海、双方の長老たちが同じ啓示を読み解いている。


 解釈を誤っている可能性は、限りなく低かった。


 母樹の啓示が下された。


 それが重大な意味を持つことを知るエルフたちは、瞬く間に口を閉ざした。


 亜人たちも同じだった。


「母樹からの啓示は――この村が、人間から血族へと変化したあの者と接触してもよい、というものです」


 たった、それだけだった。


 だが最初にこの啓示を受けた時、ドーマ長老も原始樹海の長老たちも大きな衝撃を受けた。


 混沌時代におけるエルフ族と悪魔種族の関係は、最悪と呼ぶほどではなかったものの、決して友好的でもない。


 他の知性種族と比べれば、むしろ緩やかな敵対関係にあったと言っていい。


 信じ難いという表情は、壇下の人々にも広がっていた。


 困惑。


 葛藤。


 そして、言葉にし難い不安。


「グヤ祭司! あなたも、それに賛成なんですか!」


 先ほど雷鳴のような声を上げた中年亜人が、再び周囲のざわめきを押しのけて問いかけた。


 ドーマはあくまでエルフの長老だ。


 母樹もまたエルフにとっての聖地であり、亜人にとっては尊重すべき存在ではあっても、自分たちの信仰や伝統そのものではない。


 今の亜人たちは、生活の面ではエルフへ半ば依存する形になっている。それでも、自分たち自身の考えまで失ったわけではなかった。


 グヤは前へ出て、ドーマと並んだ。


 村へ戻る道中ですでに旧友からすべてを聞かされていたため、族人の中から反発が出ることも予想していた。


 それでも彼女は、大会議を開くことに同意したのだ。


「大会議を開いたのは、起きていることを全部あんたたちに伝えるためだよ。我が同胞たち。未来はあんたたちのものだ。なら、選ぶのもあんたたち自身であるべきだ」


「混沌時代以来、一部の亜人とエルフは、想像もできないほど激しい戦いの末に光の高原へ取り残された。それから千年、私たちは外の世界から切り離され、ここで生きてきた」


「今日まで生き残れたのは、母樹の庇護と、村で生きてきた一人ひとりの努力と働きがあったからだ! 神霊や先祖が守ってくれたからじゃない!」


「母樹が啓示を下したのなら、私――祭司グヤは、それに向き合い、考え、試してみるつもりだよ。だけど私は亜人そのものじゃない。あんたたちの意思を代わりに決めるつもりもない!」


「だから亜人もエルフも、自分の心に従いな! 千年以上続いてきたこの村も、とうとう選ぶ時が来たんだ!」


 実のところ、グヤもドーマも、自分たちが村を導けるほど賢明な指導者だとは思っていなかった。


 ただ少し長く生きた。


 少し多く考えた。


 少し多くのことを経験した。


 そうして気づかないうちに、一人は祭司となり、一人は長老になっていた。


 二人がその立場に就いてから、すでに三百年以上が過ぎている。


 その間、外界から隔絶されたこの小さな村は、ほとんど変わらず、さほど発展することもなかった。


 だが、定期的に母樹を介して原始樹海から外界の情報を受け取るたび、シロ大陸が目まぐるしい勢いで変化していることには、毎回驚かされていた。


 外の世界は、一年ごとに恐ろしい速度で成長し、変わり続けている。


 同時に、各地の閉鎖的なエルフの部族からも、少しずつ疑問の声が上がり始めていた。


 自ら外界との関わりを断つ道は、本当に正しいのか。


 このままでいれば、かつて母樹が告げた大絶滅が訪れるより先に、自分たちのほうが他種族へ従属する存在になってしまうのではないか。


 テレサ世界に、魔獣や邪悪体、さらには悪魔種族といった脅威が今なおどれほど残されているかは分からない。


 知性種族がシロ大陸全土すら探索しきれていないことも変わらない。


 だが、いつか運命を決める時が来て、各種族が一つの場所へ集まり、共に困難へ立ち向かうことになれば――その時、強いか弱いかという違いそのものが、発言力へと直結する。


 例えば今、すでに実質的に知性種族の指導的立場へ立ちつつある、人間という種族のように。


 だからこそ、「血族と接触してもよい」という母樹の啓示を受けた時、ドーマと原始樹海の長老たちは驚きこそしたものの、恐慌に陥ることはなかった。


 想像していたほどの抵抗感や嫌悪もなかった。


 むしろ、長く背負っていた何かをようやく下ろせたような、不思議な安堵さえあった。


 もしかすると、ついにその時が来たのかもしれない。


 エルフ族も、変わることを試すべき時が。


 亜人の祭司であるグヤも、同じように考えていた。


 光の高原で外界から隔絶されて暮らす日々は、確かに穏やかで素晴らしい。だが亜人には、鍛冶に長けた技術も、研究を得意とする資質もない。エルフの工芸技術があっても、道具や設備の不足をどうにか補うのが精一杯だった。


 千年が過ぎた今も、この地の亜人たちは、自らの肉体と生まれ持った能力だけを頼りに、様々な危険と戦い続けている。


 だが、あの緑皮鬼ですら、自分たちに合った粗末な道具くらいは作る。


 まして、いつか必ず向き合うことになるかもしれない他の脅威を考えれば、このままでいいはずがなかった。


 亜人という種族は、すべての知性種族の中でも非常に数が多く、人間を上回るとも言われている。


 しかし同時に、部族同士の関係は最も複雑で、互いの隔たりも極めて大きい。場合によっては、他の友好的な種族よりも話が通じないことさえある。


 外の世界に暮らす同じ亜人たちなら自分たちを受け入れてくれる――そこへ望みを託すのは、あまりにも危険な賭けだった。


 それなら、千年もの間を共に生きてきたエルフたちと、これからも歩みを共にするほうがいい。


 光の高原に暮らす亜人たちが抱える問題は、エルフの仲間たちよりも深刻ですらあった。


 彼らはあまりにも長く、立ち止まり続けていた。


 それでもグヤ祭司とドーマ長老は、自分たちだけの考えで村の未来を決めていいとは思わなかった。


 だから、この大会議を開いた。


 静謐の森に暮らすすべての者たちに、自分たちの未来を決めてもらうために。


 二人の老女がそれぞれ話し終えると、それまで静かだった壇下の住民たちから、再び様々な意見が湧き上がり始めた。


 エルフにも、亜人にも、それぞれの考えがある。議論は次第に熱を帯び、広場は混乱していった。


 ついには、一部で殴り合いまで始まる。


 いつも互いを慈しみ、平穏に暮らしてきたこの共同集落では、これまで一度もなかった光景だった。


 だが、ドーマ長老とグヤ祭司はただ静かに見ている。


 二人は分かっていた。


 これは変化するために避けて通れない過程であり、痛みなのだと。


 だから自分たちが介入し、勝手に結論を決めてしまうつもりはなかった。


 秩序維持を担当する巡回隊も、傍らに立ったままだった。


 止めに入りたい者はいる。


 だが長老と祭司から命令が出ていない以上、勝手に動くわけにもいかない。


 彼ら自身も未来への不安と昂ぶりを胸の内へ押し込みながら、それぞれの持ち場を守り、黙って待っていた。


 その巡回隊の中に立つデヴィットは、表情こそ変わらなかった。しかし内心では、激しい感情に身体が震えるのを止められずにいた。


 ドーマ長老とグヤ祭司の話を聞き終えた時から、奇妙な感覚が胸にあった。


 まるで何もない虚空から、目には見えない大きな責任が、自分の肩へ降りてきたような感覚。


 デヴィットには、母樹の啓示が自分へ告げているように思えた。


 これは絶好の機会だ。


 そして――アリソンにとっても、これ以上ない機会なのだと。


 彼女のためにも、自分が変化を選ぶエルフとして、外へ踏み出さなければならない。


 感情が激しく揺れ動く中、ふと後ろから小さな力で手を引かれた。


 振り返る。


 そこにあったのは、いつも自分を腹立たしくもさせ、呆れさせもする、見慣れた整った顔だった。


 短い金髪のおかげで、他の同族とは明らかに違う印象を与える少女。


 今、その顔には二人にしか分からない、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。


「分かってるよ。デヴィットが何を考えてるのか」


 あの元気いっぱいの笑顔から、デヴィットにはそう読み取れた。

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