54.アリソンとデヴィット
共同集落を離れた北東の一角。ここも頭上の樹冠が開け、金色の光が降り注いでいた。周囲を取り巻く深い闇との対比もあり、どこか神聖で厳かな雰囲気が漂っている。
その中心に立っているのは、周囲の大樹と比べれば決して大きくない一本の木だった。枝葉は豊かに茂っているものの、見た目はごく普通だ。樹海を抜けて届く淡い光がその木を照らし、穏やかで安らかな印象を与えていた。
だが、近づいて注意深く感じ取れば、この何の変哲もない木の周囲だけが異常なほど静まり返っていることに気づくだろう。
風の音も、草の揺れる音も、鳥の声も、獣の咆哮も、ここまで届いた途端に完全に消えてしまう。
何の音もない。
まるで目に見えない穴が、外から届くあらゆる無形のものを呑み込んでいるかのようだった。
それは、静謐の森をそのまま小さく切り取ったような場所だった。
木の周囲では、多くの亜人とエルフの戦士たちが秩序立って巡回している。
ここは、エルフの居住地には必ず存在する祈りの場――母樹だった。
母樹の前では、一人の老いた女エルフが敬虔に目を閉じ、顔を伏せて何事かを唱え続けていた。
その隣には、同じく髪が灰白色に褪せた、より大柄な亜人の老女が立っている。幾多の戦いを経験してきた身体には、歳月とともに刻まれた無数の痕が残っていた。皮膚は深く皺を刻み、背中もすでにまっすぐ伸ばすことができず、大きな杖に身体を預けている。
二人の老女の後ろでは、デヴィットがわずかに頭を下げ、ひどく恭しい態度で立っていた。
「おほほ、デヴィット。あなたの小さな厄介者が来たよ。ドーマの邪魔をさせないようにおし。今は原始樹海の部族と交信しているところだからね」
亜人の老女は顔を上げることさえなかった。
獣耳をわずかに動かしただけで、誰が近づいてきたのか分かったらしい。
その老いた顔には、相手を心から可愛がっていることが分かる朗らかな笑みが浮かんでいた。
一方、その後ろに立つ若いエルフは、端整な顔に困った表情を浮かべた。
何か言おうとした、その時。
遠くから、元気いっぱいの声が飛んでくる。
「やっほー! デ〜ヴィ〜ット〜!」
伸びやかな声が森の中を漂い、何度も反響する。
周囲を警備していた戦士たちも声を聞いて一度そちらへ目を向けただけで、すぐに気にするのをやめた。
どうやら、皆すっかり慣れているらしい。
近づいてくる速度は非常に速かった。
デヴィットが声を聞いて顔を上げた時には、もう頭痛の種でありながらどうにも放っておけない、小柄な姿が目に入っていた。
太い蔓が横からアリソンの細い片脚へ絡みついている。
彼女は逆さ吊りになったまま大きく身体を振り、その勢いが最大まで高まった瞬間――蔓が放した。
小柄な身体が凄まじい勢いで空中へ射出される!
そのまま空中で流れるように何度か回転し、ようやく可愛らしい顔が正面を向いた。
「デヴィット! 受け止めて!」
名を呼ばれた美しいエルフは、本当なら横へ一歩ずれてやりたいところだった。たまには痛い目を見たほうがいい。
そうすれば、いつも好き勝手に振る舞う癖も少しは改まるだろう。
だが、グヤ祭司から言われたことを思い出すと、結局は飛んでくる相手へ向き直り、両脚に力を入れて立ち、慣れた様子で両腕を広げた。
飛ばされた小柄なエルフの身体は、数々の大樹の間を見事に抜けていく。
空中に美しい弧を描きながら、受けた力を余すことなく運動へ変え、最後には無事、美しいエルフの腕の中へ収まった。
「ははは! 完璧! やっぱりデヴィットなら大丈夫だと思ってた!」
興奮しながらデヴィットの腕から下りると、アリソンの元気な笑い声が母樹の周囲へ響き渡った。
デヴィットの唇がわずかに動く。何か言いたいことはあった。
だが、激しく身体を動かした興奮で赤く染まった彼女の顔を見ると、結局何も言わず口を閉じた。小さく鼻を鳴らし、顔を背ける。
「グヤ祭司! おはよう!」
「グヤ祭司とドーマ長老、ここで何してるの? デヴィット、この何日か全然一緒に巡回してくれないんだけど!」
隠そうとも、遠回しに聞こうともしない。
アリソンは元気よく挨拶を済ませると、そのまま知りたかったことを真正面から尋ねた。
エルフの中では非常に珍しい、社交的で奔放、活発で、それでいて少し悪知恵も働く若者。
そんな彼女を見て、グヤの老いた顔に満足そうな笑みが広がった。
グヤは以前から、この子は本当は亜人なのではないかと思っている。
もっとも、種族の特徴ばかりは誤魔化しようがなかった。
「アリソン。数日前、正体の分からない者が外から現れたんだよ。しかもデヴィットとキヌの後をつけて、静謐の森にまで入ってきた。今はそのことで頭を悩ませているところさ」
グヤ祭司の答えを聞いた途端、アリソンは目を見開いた。小さな口が驚きに震える。
だが、その驚きの中には隠しきれないほどの興奮が入り混じっていた。
「外から来た人!? 私たち、もうずっと何年もここで暮らしてるけど、他の知性種族なんていないはずだよね。ってことは……とうとう誰かが光の高原まで来ることに成功したの!?」
大きな杖を支えにしながら、グヤは首を横に振った。
普段はいつも朗らかに笑っている彼女も、この問いに対しては珍しく険しい表情を見せる。
「おそらくね。今のところ確かなのは、相手が光の高原の住民ではないということだけだ。恐らく、闇の深淵を越えてきた者だろう」
「魔獣や邪悪体だらけの闇の深淵を越えてきたの!? どうやって? 昔エルフや亜人を殺しまくったっていう悪魔種族? それとも伝説にある、私たちをさらって繁殖用の母体にする恐ろしい人間?」
アリソンの両目が一段と輝いた。
口にしている内容だけを聞けば恐ろしい話なのに、その可愛らしい顔にあるのは頬を赤く染めるほどの興奮ばかりだった。
「分からないよ。今、ドーマが原始樹海から外の世界についての情報を聞いているところだ。せっかく来たんだ、一緒に待っておいで」
グヤ祭司は軽く手を振ると、再び旧友からの知らせを待つことにした。
答えが得られないと知り、アリソンの顔が途端にしょんぼりする。
ドーマ長老が外と交信する時は、いつもかなりの時間がかかる。
元々じっと待つことが苦手な彼女は、つい先ほどまでの高揚を一瞬で失い、仕方なく項垂れながらデヴィットの隣へ移動した。
時間はゆっくりと過ぎていった。
頭上を覆う樹冠の海、その隙間から差し込んでいた光さえ次第に弱まっていく。
立ち続けることに飽きた小柄なエルフは、やがて身体をふらふらと揺らし始め、そのまま隣の美しいエルフへともたれかかった。
そのうち、かすかな寝息まで聞こえ始める。
身体の横へ掛かってきた重みを感じ、デヴィットは緊張した様子で前方のグヤ祭司を見た。
だが、いつも豪快な老女は特に何の反応も示さない。
デヴィットは小さく息を吐くと、アリソンをそっと自分のほうへ寄せ、楽に眠れるよう姿勢を整えてやった。
寝ぼけて倒れ込み、ドーマ長老の邪魔でもしたら、それこそ本当にまずい。
それから、さらにしばらく。
アリソンがうとうとと目を覚ましては眠り、いつの間にかほとんどデヴィットへくっついていた、その時。
前にいた亜人の老女が突然、大きな杖を地面へ強く打ちつけた!
振動で目を覚ました小柄なエルフは、驚いて目を見開く。
次の瞬間には真剣な表情で背筋を伸ばし、ぴしりと立っていた。
口元から長い涎の跡さえ垂れていなければ、一秒前まで眠っていたとは誰にも分からなかっただろう。
どうやら、こういうことには相当慣れているらしい。
「デヴィット、アリソン。来ていたのね」
低い声が響く。
最前方に立っていたドーマ長老が、ようやく顔を上げて振り返った。
デヴィットが答えるより早く、アリソンが一歩前へ出る。
表情はひどく真面目で、それでいて声にはいつもの元気が満ちていた。
「はい! 巡回隊の一員として、正体不明の外から来た者が村に危害を加えないかずっと心配していました! だから知らせを聞いて、すぐに駆けつけました!」
そう言いながら、アリソンはこっそり肘で隣の仲間をつついた。
そして可愛らしい顔に、得意げな表情を浮かべてみせる。
まるで、
――私がちゃんとデヴィットの手柄も立てて、長老に気に入られるようにしてあげたんだから。お礼なんていらないよ。
とでも言いたげだった。
デヴィットの額に青筋が浮かぶ。
時々、本気で思う。
アリソンはエルフのふりをした偽物なのではないだろうか。
こんなこと、ドーマ長老が森の植物たちに問いかければ、経緯なんてすぐ分かるのに……
しかも一番ひどいのは、自分まで巻き込まれていることだった。
自分から見ればまだずいぶん若い二人の子供を眺め、続いて隣で笑いを堪えている旧友を見る。ドーマ長老は仕方なさそうに首を振り、小さく溜息をついた。
「行きましょう。原始樹海から答えが届きました。あの外から来た者の正体は、非常に特殊です。大会議を開く必要があります」
久しく開かれていなかった大会議という言葉を聞き、グヤ祭司は一瞬驚いた表情を見せたあと、静かに頷いた。
デヴィットの顔も険しくなり、拳が無意識に強く握られる。
いつも考えなしに暴れ回っているアリソンでさえ、笑顔を消した。
大会議。
それは、村の未来、あるいは生死に関わる重大な出来事が起ころうとしていることを意味していた。
歩きながら、ドーマ長老とグヤ祭司は時折、小声で言葉を交わしていた。二人の表情は話すたびに変化する。
後ろを歩くデヴィットとアリソンは、何を話しているのか知りたくて仕方がなかったものの、勝手な真似をすることもできない。
そうしているうちに、いつの間にか一行は集落へ戻っていた。
ほどなくして、集落の周囲に立つ大樹から、目には見えない波動が次々と放たれ始めた。波は幾重にも重なりながら外へ広がっていく。
知らせを受け取ったエルフと亜人たちは、直ちに集落の中心へ集まり始めた。
開けた広場は、戻ってきたエルフと亜人で少しずつ埋まっていく。
その数は千人を超えていた。
集まったのは両種族の長老、指導者、戦士、そして特別な技能を持つ者たち。さらにデヴィット、アリソン、キヌのような、若い世代の中でも特に優れた者が少数加わっていた。
全員が、壇上に立つドーマ長老とグヤ祭司が口を開くのを待っている。
来るべき者がほぼ揃ったことを確認すると、ドーマはグヤへ目配せした。
グヤ祭司は大きな杖を支えに一歩前へ出る。
そして、広場全体へ届く力強い声で告げた。
「数日前、光の高原に、この村が築かれて以来初めてとなる外から来た者が現れた。確認の結果、その者は確かに――闇の深淵を越えてきた者だ!」
壇下の者たちも、外から誰かが現れたこと自体はすでに知っていた。
だが、相手があの恐るべき禁忌の地から来たと確定したことで、その表情はますます険しくなる。
「母樹と先祖から長年伝えられてきた戒めの通り、闇の深淵はかつて、強大な魔王が築いた迷宮城だった。魔王そのものは遥か昔に滅びた。だが今、外から来た者が現れたということは――あの場所に、新たな主が生まれた可能性がある!」
「悪魔だと! 何が目的だ!」
「先祖と同じだ! 命を懸けて悪魔と戦う! 絶対に屈しない!」
「静謐の森は俺たちの故郷だ! 誰にも侵させない! 悪魔の軍勢がどれだけ来ようと、ここで好き勝手にはさせないぞ!」
まず亜人たちが一斉に怒号を上げた。
その熱気に煽られ、エルフたちも次々と声を上げ始める。
戦うという声。
決して退かないという声。
唱和は瞬く間に集落全体へ広がり、屋内で待つよう言われていた子供たちまで窓から顔を出し、一緒になって叫び始めた。
だが、その反応を見ても、グヤ祭司の老いた顔に喜びは浮かばなかった。
逆に、表情が沈む。
大きな杖を持ち上げると、再び地面へ強く打ちつけた!
強烈なエネルギーの衝撃波が広場を走り、熱気に呑まれていた人々を我に返らせる。
同時にグヤが一喝した。
「静かにしな! まだ話は終わってないよ! 何をそんなに急いでるんだい!」
村で最も年長の祭司に怒鳴られ、亜人もエルフも瞬く間に静まり返った。
「外から来た者と、闇の深淵に起きた変化については、ドーマ長老が原始樹海の部族から答えを得ている。ここからはドーマが説明するよ。――どうして村が、この大会議を開くことになったのかをね」




