53.静謐の森
森は、異様なまでに静まり返っていた。
虫の声も、鳥の鳴き声も、獣の咆哮も、風の音さえ聞こえない。まるで何かが、あらゆる振動と音を呑み込んでいるかのようだった。
ここに生える木々はどれも並外れて巨大で、幹は太く、広がった樹冠と枝葉が頭上の空をほとんど覆い尽くしている。わずかな隙間から差し込む光だけが灰色がかった筋となって落ち、幻想的でありながら不気味な樹海をかすかに照らしていた。
ヴィンセントの表情は険しかった。
この樹海へ入って、すでに三日目になる。
初日にエルフと亜人の混成隊を尾行して森へ入ってから、ほどなくして完全に方向を見失い、目標の一行もとうに姿を消していた。
普段もっとも頼りにしている天賦「探知」さえ、この奇妙な樹海では何らかの影響を受け、まともに機能しない。波紋状に広がるエネルギーから返ってくる反応も、ほとんど自分の視界内でしか役に立たなくなっていた。
目標を見失ったことも、相手に気づかれた可能性も、それ自体は大した問題ではない。
ヴィンセントが懸念しているのは、このままでは時間の感覚まで狂いかねないことだった。
この未知の樹海は迷宮城と同じように昼夜の区別がつきにくい。しかも彼には、エリカと共に魔王の庭へ参加するため、できるだけ早く戻らなければならない事情がある。
頭上を見上げる。
一度は変身して、そのまま樹海の上まで飛び抜けることも考えた。
だが、上空を覆う灰暗い巨大な樹冠は、何か得体の知れない恐怖そのもののように広がっている。骨と血で形作られた翼を開こうとするたび、ヴィンセントは妙な胸騒ぎを覚えた。
そのため、飛行は最後の手段として残してある。
もっとも、この未知の樹海へ入ったことが、まったくの無駄だったわけではない。
少し前、ヴィンセントは一頭のフォレストベアを見つけた。今も天賦「隠匿」を使い、その後を追っている。
これほど強靭な魔獣なら、守衛としてもかなり有望だ。うまく服従させられれば、この樹海から抜け出す道まで教えてくれるかもしれない。
フォレストベアは巨大な身体に分厚い毛皮をまとい、歩く姿はまるで小山が動いているかのようだった。人間なら直立しても、その太腿ほどの高さにしか届かない。
もっとも、それほどの巨体でさえ、天を覆う大樹が立ち並ぶこの森の中ではやや小さく見える。それでも、目立つ存在であることには変わりなかった。
ところが、しばらく後を追っているうちに、ヴィンセントは妙なことに気づいた。
フォレストベアは何度も歩みを止め、そのたびに興奮したような低い唸り声を漏らし、全身の毛を逆立てている。
明らかに怯えていた。
最初、ヴィンセントは獣の直感によって自分の存在に気づいたのだと思った。だが、すぐにそうではないと分かる。
フォレストベアは辺りを嗅ぎ回り、何度も周囲を見回している。それでも自分を怯えさせている何かの正体を見つけられないらしい。
さらにしばらく進んだあと、ついに恐怖へ耐えきれなくなったのか、四肢を地につけて大きく咆哮した。
そして次の瞬間、薄暗い樹海の中を猛烈な勢いで駆け出した!
後方を追っていたヴィンセントは一瞬迷った。
なぜ突然暴走したのかは分からない。
だが、この三日間で初めて出会った大型生物を、まだ見失いたくはなかった。即座に体内のエネルギーを動かす。
天賦「隠匿」が解除されると同時に、血色の細い光が身体の周囲へ絡みついた。身体が一気に軽くなり、移動速度が大幅に上昇する。
高原へ来てからヴィンセントが研究していた、天賦「飛行」の応用だった。
そのまま一気に追いすがる。
だが、巨大な獣を追って視界を遮る大樹の並びを回り込んだ瞬間――ヴィンセントは急停止した。
驚愕の表情を浮かべ、前方を見つめる。
何もない。
ほんの一瞬、曲がり角の向こうへ姿が消えただけだった。
それなのに、あれほど巨大なフォレストベアが消えていた。
完全に。
音もない。
足跡もない。
何一つ残されていなかった。
ヴィンセントの意志がもっと脆ければ、先ほどまで追っていたフォレストベアそのものが幻だったのではないかと疑っていただろう。この未知の樹海に数日間閉じ込められたことで見た、ただの幻覚だったのではないかと。
だが、彼は確信していた。
絶対に違う。
反射的に数歩後退し、エネルギーを抑えて再び天賦「隠匿」を発動する。
そして、この樹海の危険度を改めて考え始めた。
同時に、自分の軽率な行動を振り返る。
時間に追われていたからか。
蒼藍帝国から徐々に追い詰められているからか。
魔王の庭に対する圧力を感じているからか。
あるいは、血族として得た強大な力と、エリカの天賦「不死」が必要以上の自信を与えてしまったからなのか。
かつてのヴィンセントは、非常に慎重な冒険者だった。
それが今では、このような未知の場所を前にして敬意も警戒も忘れ、何の準備もなく直接入り込んでしまっている。
冒険者だった頃なら、あり得ない行動だ。
もしそんなことをしていたなら、今日まで生き延びることなどできなかった。最近の自分の行動を一つずつ思い返すうちに、ヴィンセントははっとした。
強く自戒する。
もうエルフも、亜人も、守衛の候補もどうでもいい。
まず、この異常な樹海から出る。
骨と血で形作られた翼を大きく広げる。
天賦「飛行」の扱いにも、今ではかなり慣れていた。
再び全身に血色のエネルギーが幾筋も浮かび上がり、高速で巡り始める。以前のような短い停滞すらなく、
「バンッ!」
空気を弾く音と共に、ヴィンセントの身体は真上へ飛び出した。
血色の光は凄まじい速度で駆け上がり、瞬く間に空を塞ぐ樹冠の海へ迫る。
その時だった。
頭上の薄明かりしか届かない闇の中から、棘を生やした太い巨大な枝が、音もなく薙ぎ払うように襲いかかってきた!
幸い、ヴィンセントはすでに警戒していた。未知の場所を相手に、二度と油断するつもりはない。
飛行しながら天賦「探知」を最大限に働かせていたため、奇襲を事前に察知できた。
加速の最中、ヴィンセントは空中で急停止する。
身体を沈め、頭を下げる。
巨大な枝が間一髪で頭上を通り過ぎた。
直後、再び速度を爆発的に上げ、真上へ突き抜ける!
だが次の瞬間、恐ろしい光景が広がった。
頭上を覆い尽くす巨大な樹冠の海が、ヴィンセントの存在に気づいたかのように激しく揺れ始める。
無数の枝が闇の中から一斉に現れた。
交差し、振り回され、猛烈な勢いで打ちつけてくる。
その光景は、巨大な網が編み上げられていくかのようだった。
今度は、わずかな回避空間すらない。
逃げ場を塞ぐ攻撃の網を前に、ヴィンセントは上昇を断念するしかなかった。背中を地面へ向け、そのまま急速に降下する。
すると、恐ろしい枝々はヴィンセントが攻撃範囲から離れると同時に引き戻され、再び樹冠の海へと姿を隠した。
先ほどまで何が襲ってきていたのか、まるで分からない。
そして降下する途中、血族の優れた夜目と遠視によって、ヴィンセントは見た。
先ほどまで追っていたフォレストベア。
巨大な身体には、棘を生やした太い枝が何本も絡みついていた。
さらにその枝は、目、耳、口、鼻から深々と体内へ入り込んでいる。
音一つ立てることなく、すでに死んでいた。
死体は一本の大樹へ縛りつけられ、その表面にある老いた皺のような樹皮が絶えず蠢いている。
まるで生きた巨大な口のように。
巨体の魔獣を、少しずつ呑み込んでいた。
不気味だった。
そして、あまりにも異常だった。
「何だ、この木は……まさか、この樹海全部がそうなのか?」
地面へ戻った瞬間、頭に浮かんだその可能性に、ヴィンセントは冷や汗を流した。
もし本当にそうなら、自分は近いうちに初めて天賦「不死」による復活を経験することになるかもしれない。
だが、できることなら。たとえ死から戻れるとしても、このような死に方だけは選びたくなかった。
恐怖の中、ヴィンセントは全力で力を引き出す。
体内の血は激しく巡り、やがてその勢いは奔流さながらにまで達した。そこに蓄えられたエネルギーが一気に解き放たれた。
獣めいた頭部。
鋭い牙。
血に覆われた身体。
骨の翼。
血族としての姿を完全に現し、ヴィンセントは一切油断せず、鋭い瞳で周囲を見回した。
命を喰らう枝が、いつまた襲ってきても対応できるように。
だが――何も起こらない。
薄暗く、わずかな光しかない樹海は、再び静寂へ戻っていた。
まるで先ほどの出来事さえ、また幻だったかのように。
「駄目だ。ずっと警戒し続けることなんてできない。このままいれば、あのフォレストベアと同じになる。今のところ樹冠に近づいた時しか攻撃されていない。まだ完全に狙われてないなら……こいつらが反応する前に、天賦『超速』で一気に抜けられるかもしれない」
素早く方針を決める。
だが、再び突破を試みようとした、その瞬間。
足元の地面が突如として割れた。一本の根が飛び出し、ヴィンセントの足へ絡みつく!
続けて、無数の根が次々と地面を突き破った。空中へ伸び上がり、鞭のように猛烈な勢いで襲いかかってくる!
危機の中、天賦「超速」が発動した!
すべてが遅くなる奇妙な時間の中。
ヴィンセントはまず、足へ絡みついた根を踏み砕いた。
続けて何度も身を翻し、降り注ぐ根の包囲を突破する。
そのまま一方向へ狙いを定め、天賦「飛行」の速度を全開にして離脱した!
天賦「超速」が切れる。
直後、背後から大地が連続して叩き砕かれる轟音が響いた!
土煙が舞い上がり、泥と砂が辺りへ飛び散る。
先ほどまでヴィンセントがいた場所には、大きく陥没した穴が穿たれていた。無数の根が重なって叩きつける威力は、凄まじい。
ヴィンセントの見立てでは、先ほどの分厚い毛皮を持つフォレストベアでさえ、一撃で殺されるほどだった。
もう、その場に留まることはできない。
完全に狙われたと理解したヴィンセントは、天賦「超速」があるとはいえ、再び頭上の樹冠を突破する危険を冒す気にはなれなかった。
まずは全速で飛び、今いる場所から離れる。
だが、時間だけが過ぎていく。
方向を見失った彼の周囲に広がるのは、相変わらず同じ薄暗い森の景色だった。攻撃されなくなったことを除けば、まるで一歩も移動していないかのようだ。
体内のエネルギーは無限ではない。
複数の天賦を立て続けに使ったことで、急速に消耗していた。
この危険な環境で理性まで失うわけにはいかない。
ヴィンセントは仕方なく翼を収め、再び地上へ降りた。
天賦「飛行」と変身を解除する。
天賦「探知」だけを維持し、今度は何度も周囲を確認した。
大樹に一切の反応がないことを確かめ、ひとまず危険が去ったと判断すると、木々から離れた開けた草地を選んで腰を下ろす。
額には汗が浮かび、表情は険しい。
疲労も感じ始めていた。
森の奥へ入りすぎたせいなのか、この樹海は侵入したばかりの数日間とは違い、もはや安全ではない。
今できることは一つ。
できる限り早く完全な状態まで回復し、奇妙な木々が反応するより先に、天賦「超速」で一気に逃げ切ることだった。
エルフも、亜人も、守衛候補も、次の機会を待つしかない。
暗く不気味な森の中。
ただ一人。
ヴィンセントは目を閉じ、静かにその時を待った。
◇
同じ頃。
静謐の森の中心部、その一角。
ここでは不思議なことに、頭上の樹冠が海のように連なっていなかった。暖かな光が空から降り注ぎ、大きな共同集落を明るく照らしている。
地上には、白骨と獣皮を組み合わせて作られた天幕が数多く並んでいた。
周囲には獣を象徴する木や骨のトーテムが立ち並び、まだ息のある獲物を木の杭へ直接吊るしている場所まである。
血生臭く、原始的な光景だった。
一方、集落に立つ多くの大樹には、幹の表面を螺旋状に上っていける道が作られていた。さらに無数の枝が互いに絡み合い、空中の通路を形成している。
木々そのものを利用した精巧な樹上家屋が、そこかしこに隠れるように建てられていた。
大地と森林。
二つの異なる場所が、二つの種族の暮らしを一つにしている。
エルフと亜人の子供たちは、楽しそうに一緒になって遊んでいた。
地上から木の上へ。
木の上から再び地上へ。
軽やかさの中に野性があり、野性の中にも軽やかさがある。
両種族がすでに長い年月を共に過ごし、互いをほとんど区別しないほど馴染んでいることが見て取れた。
大人たちも男女を問わず、それぞれの仕事を分担している。
中でも多いのは、完全武装して各所を巡回し、見張りに立つ戦士たちだった。
その中に、一人の小柄な女エルフがいた。
他の同族とは明らかに違う、短く整えられた金髪。
背には自作の折り畳み式の弩を負い、腰には何本もの短剣を差している。
背が低いため、いつも少し顎を上げるようにしている整った顔には、強い自信が浮かんでいた。
「キヌ! デヴィット見なかった? ここ何日か、ずっと見つからないんだけど!」
小柄なエルフ――アリソンが、よく通る大きな声で元気いっぱいに尋ねた。
キヌもまた、声の大きさでは負けていない。
呼ばれたことに気づくと嬉しそうに振り返り、目の前にいる、立っても自分の膝ほどまでしかない幼馴染へ声をかけた。
「おはよう、アリソン! 今日も狩りに出て食料を集めるぞ!」
「キヌ! もう朝じゃないって! それよりデヴィットを見なかったかって聞いてるの!」
自分から見れば巨人のようなキヌを相手に、アリソンもさらに声を張り上げる。
二人はほとんど怒鳴り合うように会話していた。
「おお! デヴィットか! 確か……母樹のところへ行って、ドーマ長老とグヤ祭司に会うって言ってたような……この前の怪しい侵入者のことで、だったかな?」
自分でもあまり当てにならない記憶を疑いながら、キヌは真剣に考え込み始めた。その間に、足元にいた小さなエルフがすでに姿を消していることにも気づかない。
一人その場に残され、なお懸命に記憶を掘り起こしていた。
アリソンは森の中を駆け、跳んでいく。
その動きは驚くほど俊敏だった。
身体は残像のように瞬き、ほんの一瞬で遠くへ移る。
足を運ぶ先々では、地表へ張り出した根や横へ伸びた枝、身体を預けられる蔓が、まるで最初からそこへ用意されていたかのように現れる。
樹海そのものが、彼女の手足の延長になっているかのようだった。
速度が頂点に達すれば、その動きは魔獣の飛行速度にすら匹敵する。
エルフは生まれながらに植物との親和性が高い。
中でも特に優れた素質を持つ者は、植物と「意思を通わせる」ことさえできる。広大な森林は、まさに彼らの領域だった。
そこでエルフへ敵対しようとする生命や勢力は、必ず大きな代償を払うことになる。
もっとも有名なのは、数十年前の出来事だ。
当時、各地で悪行を重ねていた極悪の邪教組織が、ついには原始樹海へ侵入し、美しいエルフたちを捕らえて商品にしようと企てた。
その時、邪教組織が送り込んだ兵力は千人を超えていた。
しかし――生還者は一人もいなかった。
それ以来、知性種族の間では一つの話が広まるようになった。
同程度の戦闘力なら、森の中のエルフは一人で十人を相手にできる。
しかも、無傷で完勝する。
やがて、その極悪の邪教組織そのものが血染めの薔薇によって滅ぼされてからは、森の中でエルフに武力を向けようとする者は誰もいなくなった。
そして今。
ヴィンセントは、彼らから怪しい侵入者と見なされていた。




