56.接触
「ドン!」という重い音が、光さえ通さない薄暗い樹海に響いた。
ぬかるみながらも硬い地面から泥水が跳ね上がる。衝撃を受けたヴィンセントの口元から赤い血が一筋流れたが、傷を確かめている暇などない。身を翻して起き上がると、すぐさま元いた場所から飛び退いた。
直後、何本もの太い根が地中から突き出した。あとわずかでも遅れていれば、ヴィンセントは完全に絡め取られ、最後にはこの森の養分とされていただろう。
再び空中で加速する。ヴィンセントは同じ場所に留まり続けないよう飛び回った。一か所に長くいれば狙われる。それは、この数日で嫌というほど思い知らされたことだった。
今はただ、この異様な樹海の中をひたすら逃げ回るしかない。
ここ一、二日は、その状況がさらにひどくなっていた。ほとんど休むことさえできず、気分もひどく沈んでいる。エリカから任された仕事を一つも果たせないどころか、最後には「死亡」という形で戻ることになるかもしれない。
それでは、ただでさえエネルギーの不足している迷宮城を、さらに苦境へ追い込むことになる。
以前、ヴィンセントは天賦「超速」で頭上を覆う密集した樹冠を突破しようとしたことがある。
だが奇妙なことに、どれだけ生い茂る枝葉の間を必死にかわしながら飛び続けても、異様な樹々の攻撃範囲から完全に抜け出すことができなかった。まるで樹冠の海が、どこまでも果てなく続いているかのようだった。
最後には体力が尽き、天賦「超速」を解除した瞬間、無数の太い棘枝に叩き落とされた。何度試しても結果は同じで、そのたびにより多くの異様な樹々を引きつけてしまった。それが今の窮地を招き、別の方法で包囲から抜け出すしかなくなっている。
ヴィンセントは異様な樹を攻撃したこともある。どうにか一本の幹を断ち切って倒すことには成功し、頭上にも一時は大きく光が差し込んだ。だが樹冠の海はまるで生き物のようにたちまち隙間を埋め、光は瞬く間に消えた。
これでヴィンセントにもはっきり分かった。あの異樹には確かに群体としての意思があり、しかも信じられないほど緊密に連携している。
「樹冠を突破できないはずはない。森の外から見た時、木は確かに巨大だったが、それでも果ては見えていた。空を覆い、大地まで隠すと伝えられる神樹じゃない。なら、これは……幻境? 迷障? それとも……」
考えながらも、ヴィンセントは絶え間なく振るわれる太い枝を懸命にかわし続ける。
ずっと薄暗い樹海の中にいるため、自分が今どこにいるのかも分からない。異樹の領域から離れられているのかどうかさえ判断できず、ただ攻撃の頻度がますます上がっていることだけは感じ取れた。
使い慣れてきた天賦「飛行」を駆使し、ヴィンセントは不規則な軌道を描いて縦横に飛び回る。あと少しで、再び包囲を抜けられる――。
しかしその瞬間、上からは大量の枝が、下からは無数の根が一斉に現れた。
それらは密集した巨大な網となり、死角など一つも残さず、荒れ狂う波のように押し寄せてくる!
危機の瞬間、天賦「超速」がもたらす緩慢な時空が再び開いた!
大量の赤い気配がヴィンセントを取り巻く。完全に悪魔の姿へ変じた彼は五指を揃え、鋭い爪を刃のようにして、すでに閉じかけている巨大な網へ全力で振り抜いた!
赤い半月状のエネルギー刃が何発も交差して飛び、枝と根でできた網を切り裂く。
生路が開いたのを見たヴィンセントは、一瞬たりとも留まらなかった。天賦「超速」を解除すると同時に加速し、その隙間を一気に飛び抜け、追撃を大きく引き離してひとまず危機を脱した。
だが包囲を抜けた直後、体の奥から強烈な吸血衝動がこみ上げてくる。
何日も戦い続け、満足に休むことも食事を取ることもできていない。自分の意志も、もう限界に近い――ヴィンセントにはそれが分かっていた。
どうすればこの異様な樹海から抜け出せるのか。
そう考えていた時、天賦「探知」が未知の波動を捉えた。
ヴィンセントがすぐさま振り向くと、炎のエネルギーを帯びた数本の矢が高速で飛来し、背後から追ってきていた太い根へ突き刺さった!
鮮やかな炎が弾け、混じり合ったエネルギーが赤々と燃え広がる。たちまち炎が暗い空間を照らし出した。
同時に、矢が飛んできた方向で光が何度も明滅している。
何かを示しているようだった。
突然の変化に驚きながらも、ヴィンセントが光の示す先を注意深く見ると、そこにいたのは以前、自分が尾行していたあの美しいエルフだった。しかもこちらへ向かって手を振り、いくつもの合図を送っている。
「……ついてこい、ということか……」
相手の意図を疑いはした。
だが、どう転んでも今の窮地より悪くなることはない。
背後の炎が弱まり、再び闇が勢いを取り戻していく。異様な樹々もすでに迫っていた。
ヴィンセントはすぐに決断し、向きを変えると、美しいエルフが示した方向へ一気に飛んだ。
獣の頭部、骨の翼、人の身体という姿を持ち、伝承に語られる凶暴な悪魔を思わせる血族が、自分の意図を理解して従った。それを確認したデヴィットも仲間たちへ合図を送り、何方向かに分かれて集合地点へと走り出す。
捕食妖樹の生息域は非常に危険だ。何より避けなければならないのは、奴らに包囲されることだった。
散開することこそ、唯一の活路だった。
空を飛ぶ者、地を駆ける者。十数の影が、樹海の中を驚くべき速さで進んでいく。
その間もデヴィットが中央から指示を出し続け、一行は互いに交差するかと思えばすぐ離れていく、不規則な経路を取りながら進んだ。
光神の光すら届かない場所を逃げ続け、どれほど時間が経ったのかも分からない。やがて背後からの脅威を感じなくなったデヴィットが、最後に澄んだ口笛を鳴らす。
一行は、木々のやや疎らな広い場所へ集まった。
「外から来た人、私たちは――」
血族の姿は恐ろしい。それでもデヴィットは母樹の啓示を信じ、初めて言葉を交わそうとした。
だがその時、相手の両眼がすでに真っ赤に染まっていることに気づく!
「近づくな!」
血族が、獣を思わせる異様な声で低く唸った。
デヴィットも救援に来たエルフたちも一瞬呆気に取られたが、明らかに危険な様子を見て、黙って距離を取り、それぞれ射撃に適した位置へ移動するしかなかった。
「外から来た人、あなたは……怪我をしているのですか? 私たちに何かできることはありますか?」
悪魔種族と接触した経験など、まるでない。知識さえほとんどなく、村の長老たちから口伝で聞いた話が唯一の情報源だった。
デヴィットは相手の要求通り足を止めたまま、ひとまず問いかけてみるしかない。少なくとも、相手はいきなり襲いかかってくることはなかった。
エリカから任された仕事のため。
そして、相手がどうやら善意をもってやって来たらしいこともあり、ヴィンセントは苦しげに数歩後ずさり、吸血欲求を無理やり抑え込んだ。
エルフたちが驚いて見守る中、その身体はゆっくりと人間の姿へ戻っていく。衣服はぼろぼろで、身体をまともに隠すことさえできない姿だった。
「……食べ物……それか、血が要る……!」
掠れた唸り声に、見入っていたエルフたちは我に返った。
デヴィットがどうすれば助けられるのか考えていると、短髪の小柄な影が彼を追い越し、勢いよく前へ飛び出していく。
「血なら、ここにたくさんあるよ!」
元気いっぱいの声と同時に、アリソンは腰の革袋を素早く外して中の水を捨てると、短剣を抜き、ためらいもなく自分の細く白い腕を切りつけた!
鮮血が溢れ、小さな流れとなって正確に革袋へ注ぎ込んでいく。
「アリソン! 何をしてるんだ!」
デヴィットが慌てて駆け寄った。
目の前で起きている馬鹿げた行動が信じられなかった。アリソンは考える間もなく、自分の血を流し始めたのだ!
腕から流れる血を革袋へ落としながら、アリソンは顔を上げた。笑みを浮かべた顔には、むしろ不思議そうな色が満ちている。
「外から来た人を助けるんでしょ? 血が必要なら、私のをあげればいいじゃない」
「母樹よ……! お前は……はぁ。残りは僕に任せろ。先に傷を治してこい」
ここまでしてしまった以上、デヴィットも革袋を取り上げるしかなかった。 自分も短剣で腕を切り、アリソンを後ろへ押しやって仲間に治療させる。
革袋が半分ほど満ちた重みを感じた頃、デヴィットの足元に生えていた植物が突然伸び始めた。何枚もの葉が重なり合い、切り傷のある腕を覆う。ほどなく血が止まると、デヴィットは革袋に栓を戻し、離れた場所からヴィンセントへ投げ渡した。
吸血衝動と必死に戦いながらも、ヴィンセントは二人の美しく整った容姿を持つエルフが見せた善意を確かに見ていた。
ただ、植物を操るあの力には内心驚かされた。
そしてようやく、エルフ族がなぜ森の中でこれほど強いのかを理解した。
投げられた革袋を受け取ると、ヴィンセントはためらうことなく栓を開け、中に入った甘美な鮮血を大きく飲み込んだ。
自然のエネルギーを豊かに含むエルフの血が体内へ入り、自分の血流に沿って少しずつ溶け込んでいく。
理性が一つずつ戻ってくるのを、ヴィンセントははっきりと感じ取れた。万全の状態に戻るにはまだ足りない。それでも、意識を保つには十分だった。
「ありがとう。俺はヴィンセント。死亡峡谷から来た……血族だ」
相手にはすでに変身後の姿を見られている。人間だと偽って友好関係を築こうとしても意味はない。
多少状態を取り戻したヴィンセントは、エルフたちの反応を観察しながら、簡単に名乗った。
外来者の表情が落ち着きを取り戻し、両目を満たしていた赤色も消えている。それでもデヴィットは、先ほど目にした血族の吸血衝動と凶暴な姿に多少の恐れを覚えていた。
仲間たちには距離を保つよう求めたまま、自分だけゆっくりと近づき、身につけていた外套を脱いでヴィンセントへ投げ渡す。
「僕はデヴィット。静謐の森のエルフ族です。あなたの言う死亡峡谷というのは、闇の深淵のことですか? あの巨大な斜面の下にある、未知の地のことです」
「そうだ」
目の前の血族が肯定した。
つまり、相手が本当に迷宮城から出てきた存在であることが確定したのだ。
そしてそれは同時に、デヴィット自身が心の中で選んだ未来への道を、これから歩き始めるということでもあった。
千年もの間ほとんど変わることのなかった光の高原が、ついに変わり始めるのかもしれない。
そう思った瞬間、デヴィットの胸に言いようのない迷いが生まれた。
進む道を決めたはずなのに、未知の未来を前にすれば、不安を完全に拭い去ることなどできない。
返事を聞いた途端、目の前の美しいエルフの眼差しがどこか遠くを見るようになったことに、ヴィンセントは少し疑問を覚えた。
だがすぐにデヴィットは我に返り、その表情には先ほどよりもはっきりとした決意が浮かぶ。
「ヴィンセントさん。よければ、エルフと亜人が暮らす村まで来てもらえませんか。ドーマ長老とグヤ祭司があなたに会いたがっています。聞きたいこともたくさんあります」
森の外にいた時から、ヴィンセントはこの美しいエルフが自分の尾行に気づいていたのではないかと疑っていた。先ほど見た植物を操る力も考えれば、今ではその答えをほぼ確信している。
だからこそ分からなかった。
彼らは一度、自分を振り切った。それなのに今度は善意を示して助け出し、そのうえ村へまで招こうとしている。
あまりに突然の変化だった。
「俺は前にお前たちを尾行した。それに、お前の言う外来者で、悪魔種族の血族でもある。なぜ俺を招く?」
「母樹の啓示です」
デヴィットは隠すことなく、素直に答えた。
「母樹?」
それもまた、ヴィンセントの知識にはない言葉だった。
エルフに関する情報そのものが少ない。
実際に彼らと出会う機会などほとんどなく、冒険者たちの間でさえ噂は滅多に聞かれなかった。
ヴィンセントが知っているのも、ごくわずかな又聞き程度だ。
森の中ではよほどのことがない限りエルフと戦ってはならない――そんなことさえ、ろくに知らなかった。知っていれば、あのまま軽々しく森の奥までついてくることもなかっただろう。
幸い、美しいエルフはあっさり説明してくれた。
「はい。シロ大陸に暮らすすべてのエルフを庇護する、偉大な存在です。森に定住する部族は、どこも母樹の庇護を受けています。原始樹海……外から来たあなたなら、その名は聞いたことがありますよね。あそこの部族も、僕たちと同じです」
その説明に、ヴィンセントはどこか矛盾したような奇妙さを覚えた。
長い間、外から来た知性種族が足を踏み入れたことすらないこの高原で、目の前のエルフはなぜ原始樹海という名を知っているのか。
部族の伝承で受け継いできたのだとしても、その話しぶりからは、外の世界についてある程度知っているようにも感じられる。
疑問はいくつも残った。
だがヴィンセントは少し考え、今の状況でこの招待を断る理由はないと判断した。
最悪でも死ぬだけだ。
その時はエリカが必要なエネルギーを集め、迷宮城で自分を復活させることになる。
ヴィンセントは足元に落ちた外套を拾い上げ、半裸に近い身体を覆うと、静かに頷いた。




