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47.激戦

 強い力で地面に押さえ込まれながら、ヴィンセントには自分がどうやって見つかったのか分からなかった。だが、エネルギー不足に加えて負傷までしたことで、すでに吸血衝動が起こり始めていた。


 敵の拠点の目の前で理性を失えば、本当に怪物として殺されることになる。


 やむを得ず、ヴィンセントは自ら血族の姿へ変身し、崩れかけた理性を抑え込んだ。一刻も早く、ここから離れなければならない。


 今夜はどこか様子がおかしい。


 そう感じていたディアドラは、医療用の天幕の外で覚えたあの異様な感覚がどうしても気にかかり、一人で巡回を増やしていた。


 そしてある警戒線の端へ向かっていた時、あの不可解な予兆が再び現れた。


 物陰から様子を窺っていた彼女の目の前で、信じがたいことに、指名手配されている男の姿が突然浮かび上がったのである。


 ディアドラの胸には、驚きと怒りが同時に込み上げた。


 あの夜については、これまでにも様々な噂を耳にしていた。だが実際にその場を見たわけではなく、どれだけもっともらしい話であろうと、あくまで参考程度に留めていた。


 最終的に蒼藍帝国も、指名手配犯が近古の秘宝を盗み出して逃亡したのだと公式に断定し、悪魔種族が現れたといった話は事実ではないとしていた。


 それが今、本人が目の前にいる。しかも本当に姿を消す能力を持ち、背中には奇妙な翼まで生えていた。


 先ほどヴィンセントが逃げようとした時、もはや阻止が間に合わないと判断したディアドラは、手にしていた長槍を全力で投げつけた。


 それで相手を負傷させると、そのまま技巧「突進」で一気に距離を詰め、地面へ押さえ込んだのである。


 しかし、その直後に起きた変化は、職務に忠実な光騎士をさらに驚かせた。


 押さえつけていた指名手配犯の身体が突然変化し、瞬く間に獣の頭と人の身体を持つ、筋肉に覆われた怪物へと変貌したのだ。


 エネルギーによる強化を受けたその膂力は、野蛮人にも匹敵するほどだった。ディアドラは次第に押さえ込みきれなくなっていく。


 少し前まで、多少腕の立つ冒険者に過ぎなかったはずなのに。これほど短期間で、どうしてここまで変わることができるのか。


 あの秘宝は、いったい何なのか。


 それ以上考えている暇はなかった。


 ディアドラは急いで自分に力を増す神術を施した。


 金色の光が全身を包み、暗かった洞窟を明るく照らし出す。


 続いて呼吸を素早く整え、体内のエネルギーを技巧「怪力」に乗せて巡らせた。


 神術と技巧。二重の強化によって、起き上がろうとしていた巨体を再び地面へ押し伏せる。


 力と力のせめぎ合いは激しかった。


 この状態では、ディアドラは援軍を呼ぶどころか、息を吐いて少しでも力を緩めただけで、その分だけ身体を押し返されてしまう。


 だが、全力を尽くしても限界はあった。


 光騎士はもともと総合的な能力を重視しており、力だけに秀でた戦士ではない。まして今のディアドラは負傷している。


 指名手配犯が獣のような低い咆哮を上げた瞬間、爆発的に膨れ上がった力に押し切られ、ついに弾き飛ばされた。


 数歩、後ろへ退く。


 血を流しているヴィンセントは、そのまま反撃しようとはしなかった。ただ逃げることだけを考えていた。


 全身を赤い光が這い回り、背中の骨と血で形作られた翼が大きく開く。その身体が素早く宙へ浮かび始めた。


 それを見たディアドラは、ボーウェンから傷について忠告されていたことも忘れ、強く地面を踏みつけた。足元が砕ける。


 押し飛ばされた勢いを無理やり止め、再び技巧「突進」を使って追いすがった。


 ようやく拘束から逃れたヴィンセントにも、迷いはなかった。


 理性を失いかけながら、すぐに天賦「飛行」を使う。


 以前よりはかなり慣れてきている。しかし、飛び上がる瞬間に生じるわずかな停滞だけは、まだ完全には消せていなかった。


 改善しきれなかったその欠点が、今になって牙を剥いた。


 身体が地面から浮いた直後、ヴィンセントは背後から低い気合いの声を聞いた。


 負傷しているにもかかわらず、この光騎士がこれほど強い執念で追ってくるとは思っていなかった。


 しかも動きは速い。


 次の瞬間、背中へ強烈な一撃が叩き込まれた。野蛮人ほどもある巨体が、その蹴りだけで吹き飛ばされた。


 何度も地面へ叩きつけられ、転がりながら、長く血の跡を残していく。


 実戦経験の豊富なディアドラは、今が好機だと分かっていた。


 全身を覆っていた包帯が大量の血を吸い、ほどけ落ち始めていることにも構わず、大きく跳躍する。


 そして重鎧の重量と全身の落下力を乗せ、倒れた怪物の腹部めがけて膝を突き落とした。


 強烈な膝蹴りが腹を深くへこませる。骨の砕ける音が響いた。


 獣のような口から、大量の血が吐き出される。


 今度こそ、ディアドラは相手に立て直す機会を与えなかった。


 とはいえ、目の前の男の状態が尋常ではないことも分かっている。完全に殺すつもりはなかった。


 両拳を強く握り締める。


 神術と技巧による二重の強化を維持したまま、怪物の手足の関節だけを狙い、正確に拳を叩き込んで破壊していく。


 ゴキッ――。


 骨の折れる音が、四度続けて洞窟に響いた。


 素早い連打を終えたディアドラも、そこで一度動きを止め、大きく息をした。


 昼間の石炎魔との戦いで負った傷は、あまりにも重い。


 わずかな戦闘だけでも、もう身体が持たなくなり始めていた。失血が続き、視界にも軽い眩暈が混じっている。


 それでも、戦闘の音はかなり大きかった。


 近くの巡回隊なら、すぐにこちらへ来るはずだ。


 その時、ディアドラは重傷を負った怪物の身体が、少しずつ縮んでいくのに気づいた。やがて元の姿へ戻る。


 胸と腹はひどく陥没し、四肢は折れ曲がり、口と鼻からは血を吐いていた。 人間の姿へ戻っても、もはやまともな形を留めているとは言い難い。


 だがディアドラは忘れていなかった。


 先ほど獣頭人身の怪物が見せた反撃の力を。


 相手が逃げることを焦りすぎていなければ、ここまで簡単に倒すことはできなかっただろう。


 足元の指名手配犯は、もうまったく動かない。


 その変化を不思議に思う一方で、ディアドラは息が止まっているのではないかとも疑った。


 人間ならば、これほどの重傷を負えばいつ死んでもおかしくない。


 先ほどは完全に怪物を相手にする基準で攻撃してしまったのだ。


 慎重に近づき、身を屈める。


 男は死体のように地面へ横たわったまま、動く気配がない。呼吸音も、ほとんど聞こえなかった。


 警戒しながら手を伸ばし、心臓の鼓動を確かめる。


 非常に弱い。


 それでも、確かにまだ動いている。


「ディアドラさん! そちらにいるんですか! 返事をしてください!」


 その時、グリフィスが人を連れて駆けつけてきた。


 しかし暗くて先がよく見えないため、いきなり踏み込むことはせず、離れた場所から大声で呼びかけている。何もなければ、そのまま近づくつもりらしい。


 声を聞いたディアドラは反射的に振り返り、手を振った。


「こっちです! 早く人を――」


 彼女は気づかなかった。


 地面に横たわっていた男が、すでに目を開いていることに。


 突然、生臭い風が鼻先を掠めた。


 ディアドラは危険を察知した瞬間、振り返ろうとさえしなかった。そのまま前へ転がって距離を取ろうとする。


 だが、間に合わなかった。


 首筋に鋭い痛みが走った。


 呼び声を聞いて急いで駆け寄ってきたグリフィスたちも、ようやく現場を見通せる距離まで来たところで、一斉に足を止めた。


 全員の顔に、信じられないものを見た表情が浮かぶ。


 上半身を赤く染め、包帯の多くが外れ落ちた清麗な女。


 重鎧をまとい、かつて最前線で戦っていた強大な光騎士が――


 四肢を逆方向に折られたまま、腹と腰の力だけで身体を起こしたヴィンセントに、首筋を深く噛みつかれていた。


 大量の血が飛び散り、噴き出している。


 目の前の光景は、血生臭く、そして異様だった。


 だが、その場にいる者たちが救援へ飛び込めずにいた理由は、さらに恐ろしいものだった。


 ヴィンセントの口元から、何かを吸い上げるような音が聞こえている。そして目に見えて重傷だった身体が、恐ろしい速度で回復していく。逆向きに折れていた手足の骨が繋がり、再生する。


 さらに身体そのものまで変化を始め、再び巨大な獣面の筋肉質な怪物へと変わっていった。背中では骨と血の翼が大きく広がっている。


 強大な光騎士へ噛みついたまま暗い洞窟の中へ浮かび上がるその姿は、まるで詩歌に語られる悪魔そのものだった。


「早く! 全員でかかれ! あの悪魔を足止めしろ! 俺は攻略組の人間を呼んでくる!」


 グリフィスはそう叫びながら、素早く踵を返して走り去った。


 小隊長の命令を受けた残りの巡回隊員たちは、恐怖を感じながらも長槍を構え、前へ出るしかなかった。


 その時だった。


 まだ光騎士へ噛みついている獣面の悪魔が、鋭い縦長の瞳をこちらへ向けた。


 ただ見られただけで、隊員たちは何歩も後ずさった。


 援護に来た味方があまりにも頼りにならない。


 大量に血を失い、意識を失いかけていたディアドラには、もはや怒るだけの余力も時間もなかった。


 残された最後の力を振り絞り、自分自身を中心に攻撃神術を発動する。


 震える声で、かすかに唱えた。


「天罰!」


 猛烈な白光が、一瞬にして炸裂した。


 巨大な洞窟が、昼間のような明るさに包まれる。


 巡回隊員たちはたちまち視界を奪われ、慌てて長槍を振り回しながら後退した。


 白光は激しく炸裂したのと同じように、すぐに消え去った。


 四方は再び闇に包まれる。


 ようやく視界を取り戻した時、そこにいたのは地面へ倒れ、完全に意識を失った光騎士だけだった。


 先ほどまでいた巨大な獣面の悪魔は、どこにもいない。


 数人の巡回隊員は互いに顔を見合わせた。何が起きたのか分からない。だからこそ、誰も迂闊には動けなかった。


 しばらくして、異変を察知した攻略組の数十人をグリフィスが連れて戻ってきた。しかし現場に残っていたのは、何を聞いても答えられない巡回隊員たちと、瀕死の光騎士だけだった。


 支援に駆けつけた攻略組の隊長は、深い怒りと苛立ちを覚えた。


 だが今できることは、負傷者を急いで拠点へ運び、後の対応を考えることだけだった。


 一方、第十二層へ通じる宙吊りの石道では、ヴィンセントがよろめきながら歩いていた。


 顔には苦痛が浮かんでいる。


 もともと負傷があまりにも重かった。無意識のまま吸血して補給したことで、力に満ちた光騎士の血が身体を一気に回復させたものの、最後に至近距離で受けた攻撃神術によって、再び大きな傷を負っていた。


 普通の人間に対しては、強烈な光と火傷を与える程度でしかない神術「天罰」。しかし悪魔種族に対しては、それに加えて凄まじい腐食作用を発揮する。


 光を浴びた場所から白煙が立ち昇り、肉が次第に壊死していく。しかも腐食は止まらず、身体の奥深くへと侵食し続けていた。


 もっとも、その神術のおかげでヴィンセントはようやく暴走状態から理性を取り戻すことができた。


 もし本能のまま行動を続けていれば、その場にいた者たち全員を殺して血を吸い尽くし、干からびた死体にしていたかもしれない。


 だが、そこまで続ければ攻略組の援軍も到着している。


 再び包囲されれば、無事に脱出できたかどうかも分からない。


 理性を取り戻した直後の短い時間を逃さず、ヴィンセントは傷ついた身体を引きずりながら、記憶を頼りに第十一層の出口へ走った。


 だが、ここまで来たところで、もう耐えられなくなった。


 低い獣の咆哮を上げる。


 再び巨大な獣面の悪魔へ変身すると、一気に下方の暗い深淵へ飛び降り、そのまま地下河川へ飛び込んだ。


 ほどなくして、それまで澄んだ青色をしていた水面に、大量の赤い血が広がっていった。


 一日中、天賦「隠匿」を使い続け、そのうえ激戦まで繰り広げたヴィンセントは、その後になってようやくゆっくりと水面へ浮かび上がった。体力もエネルギーも尽き果てている。


 そのまま河の中で意識を失った。


 水面を漂いながら地下河川の流れに運ばれ、少しずつ暗闇の奥へと流されていった。


 時間が過ぎていく。


 やがて朝を迎え、光神が姿を現した。


 峡谷の間を、一人の美しい女が飛んでいた。身体にぴったりと張りつく軽装に短い衣服。大きく露出した白い肌と豊かな身体の曲線が、強い色気を放っている。


 本来なら恐ろしいはずの骨と血の翼さえ、彼女の妖しい魅力をさらに引き立てていた。


 鮮やかな赤い唇を尖らせ、女は飛びながら何度も不満そうに呟いている。


「お義兄さんったら、どこに行ったの? お姉ちゃんはこの近くにいるって言ってたのに。また一人でこっそり出ていって……きっと女のところに行ってたんでしょ? そんなの、駄目なんだから……」


 胸の中で不満を募らせながら探し続けていたドロシーは、ようやく目立たない地下河川の岸辺で、気を失っているヴィンセントを見つけた。


 途端に、それまでの不満などすべて忘れてしまった。


 嬉しそうに一気に加速し、全速力で飛んでいく。


 地面へ降りると、ドロシーはヴィンセントの身体を観察した。全身に目立った傷はない。ただ顔色が少し青白くなっている。


 エネルギーを使いすぎた時の症状だと分かり、もう少し休めば回復すると判断した。


「ふふっ、お義兄さん、変身しちゃったんだ。また新しい服を用意してあげなきゃ……」


 周囲に誰もいないことを確かめると、ドロシーは人間の姿へ戻った。


 元の小柄な身体になると、そのまま昏睡しているヴィンセントの裸の胸へぴったりと身体を押しつける。


 すぐ目の前にある顔を見つめた。


 それだけで胸が高鳴る。


 そして我慢できなくなったように、唇を少し開いて顔を近づけ――そのまま口づけた。


「んんっ! これ……これよ。すごく……すごくいい……!」


 盗み食いの味があまりにも気に入り、ドロシーは名残惜しそうに何度も口づけを重ねた。最後にはそのまま、お義兄さんの胸の中へ横になる。


 ヴィンセントの腕を自分の身体へ回し、抱き締められている形に整えた。


 出発前、エリカから一刻も早く連れ帰るよう言われていたことなど、完全に忘れている。


 空の光は、この冷たい地下河川を完全に照らすことまではできない。 それでも今のドロシーには、心も身体もひどく暖かく感じられた。


 安心しきった様子で、一番心地よい姿勢を探す。


 頭をお義兄さんの首元へ預けると、上から微かに温かな呼吸が触れてくるのも感じられた。


 何よりも安心できるその腕の中で、ドロシーは目を閉じた。


 そしてそのまま、深い眠りへ落ちていった。

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