46.ボーウェン
一日中、負傷した冒険者たちに神術を施し続け、ボーウェンはようやく長く息を吐いて立ち上がった。
治療の神術は一人ひとりに薄く分散させており、その後の処置は前線拠点の医師や助手たちが引き継ぐことになっている。それでも、長時間にわたって大人数へ立て続けに神術を使い続けた負担は大きく、老神官の身体にはエネルギーを使いすぎたことによる鈍い痛みと倦怠感が残っていた。
その感覚に、彼は心の中でふと思う。
「エリカの言った通り、本当に歳を取ったな……」
黙って自分の杖を手に取ると、周囲の負傷者たちから次々に掛けられる礼の言葉を背に、名もなき神霊に仕える老神官は医療用の天幕を出た。
杖をついているとは思えないほど足取りは速く、ほどなくして自分に割り当てられた個人用の天幕へ戻る。
こうした専門技能を持ち、特に貢献している者に対して、皇家冒険団は昔からかなり手厚い待遇を用意していた。
ボーウェンだけではない。他の医師や医療関係者も一人一張、多くても二人で一張の天幕を与えられている。ディアドラも同様だった。
天幕へ入り、布を下ろして外からの視線を遮ると、ボーウェンはすぐには明かりを点けなかった。杖を置き、きれいな場所を選んで腰を下ろす。
そして、声を潜めた。
「もう大丈夫だ、ヴィンセント」
暗闇の中では視界もぼやけ、はっきりとは見えない。外から入り込むわずかな光しかないにもかかわらず、老神官はそこで奇妙な光景を目にした。
微かなエネルギーの揺らぎが瞬き、見慣れた人影がゆっくりと目の前に姿を現していく。
「これは……なるほどな。大秘宝を手に入れたという噂も、まったくの出鱈目というわけではなかったか。エリカとドロシーも、お前と同じようになったのか? よければ、この老人にも少し聞かせてくれんか」
ボーウェンは感嘆の色を浮かべた。
この隠れる力には、さすがの彼も驚かされた。長い放浪神官としての人生でも、こうした奇妙なものを見る機会はそう多くない。
もともと連絡を取るつもりで来た以上、ヴィンセントも過度に隠すことはしなかった。
ただし、世界の心や魔王の庭といったあまりに重大な存在については伏せ、自分たちが正体不明の近古の秘宝を手に入れたこと、その力によって体質を変化させ、迷宮城の中で生きられるようになったことだけを話した。
そして、その近古の秘宝はすでに三人で使い果たしてしまった、と説明する。
「なるほどな。蒼藍帝国が狂ったように必死になるわけだ……それと、お前たちが起こした二度の天象異変は、すでに循律の塔の関心を引いている。これから先、皇家冒険団へ加わる魔法師はさらに増えるかもしれん。死亡峡谷の攻略速度も上がるだろうな」
ボーウェンの話から、ヴィンセントは血族の姿に関する噂が、今のところは抑え込まれているらしいと知った。
夜間の視界が悪い中で生まれた、誇張された怪談の一つとして扱われているようだった。
同時にヴィンセント自身も分かっていた。この抜け目のない老神官は、自分が話した内容にいくつもの矛盾があることなど、とっくに見抜いている。
それでも、互いにそこを深く追及するつもりはないようだった。
「他の国は?」
「神々の国はいまだ沈黙を守っている。四正教も、変化を観察するために何人か送り込んでいるだけだ。お前がさっき見た光騎士も、その一人だな。少々妙ではある。あそこは昔から悪魔種族の排除を目的にしているからな」
「竜と飛鳴の地はもともと閉鎖的だ。珍しく使者を出して関心を示してはいるが、今のところはそれだけで、他に目立った動きはない。お前たちにとっては好都合だろう。あの半竜人どもや、まして巨竜まで出てくれば、相当に恐ろしい脅威になる」
「鋼鉄の玉座は循律の塔と親しい。あの高貴な魔法師たちが姿を見せる頃には、鋼鉄の玉座もまず間違いなく顔を出すだろうな。最低でも護衛として、お前たちの前に現れるはずだ。見たことのない新型の器械には気をつけろ。あの二つが手を組んでからというもの、進歩の速度がますます上がっている」
「もっとも、今言った厄介事はどれも未来の話だ。今のお前たちが一番警戒すべきなのは人亜連合だろうな」
「この国は自然と武力を尊び、『冒険者の国』とも呼ばれている。巨獣兵団が迷宮城攻略に参加する可能性は低いし、そもそもここへ入るだけでも難しいだろうが……この場所にとんでもない秘宝があるという噂が広まった以上、そう遠くないうちに本物の大傭兵団がやって来るだろう」
「他の勢力については、今のところ大きな動きは聞いていない」
鋼鉄の玉座と循律の塔が、将来の調査次第では参戦する可能性がある。それ以外については、おおむね予想の範囲内だった。
ヴィンセントはエリカから頼まれていたことを思い出し、さらに訊ねる。
「蒼藍帝国はどう考えている?」
「今のところ、蒼藍帝国はこの迷宮城を単独で占有したがっているように見える。他国や他勢力が入ろうとしても、ほとんどは拒まれている。例外的に入れるのは、私のような流浪神官を含むごく少数だけだ」
「だから当面は、皇家冒険団と一部の冒険者が攻略の主力になる。他の国や勢力へ広く開放する気はないようだ」
ボーウェンはしばらく黙り込み、一日中働かせた頭をどうにか回しながら考えた。
「この中へ入るには皇家冒険団と契約し、得たものの一部を渡さなければならないとなれば、名のある冒険者や大傭兵団の大半は嫌がるだろう。今のところ連中が騒ぎもせず静かにしているのは、蒼藍帝国が一度痛い目を見て、自分から開放するのを待っているんじゃないか」
そこまで言うと、老神官は思い出したように付け加えた。
「そうだ。女皇はすでに、残る二つの迷宮城を一時的に封鎖するよう命令している。皇家冒険団の人員をすべてこちらへ集め、攻略に集中させるつもりらしい。もう間もなく到着するだろう」
「それと、四大騎士団の一つ、殲滅騎士団が壊死の大地の拠点へ進駐している」
「殲滅騎士団?」
ヴィンセントは思わず眉を寄せた。表情にもわずかに重さが増す。
正規の軍事力まで投入されるとは考えていなかった。女皇が攻略にかける決意は、想像以上に強いらしい。
「そうだ。もっとも、あれは主に野外の危険へ対処する騎士団で、迷宮城攻略そのものは得意ではない」
「ただ、装備の整った一万を超える大部隊だ。本当に損害を度外視して強引に攻略し、そのうえ名のある冒険者を何人か加えれば……この迷宮城が簡単ではないとしても、いずれ掌握されるのは時間の問題だろうな」
だがヴィンセントは、そこまで深刻には受け止めていなかった。
三体の超獣種がいる。それだけでも、四大騎士団すべてが攻略へ加わったとして、どちらが勝つかは簡単には言えない。
いずれ皇家冒険団が、この迷宮城の本当の危険さと強大さを知ることになる。その時になってまで、女皇が蒼藍帝国そのものを揺るがしかねない危険を冒して強硬攻略を続けるとは思えなかった。
おそらく最後には、三大迷宮城と同じように、自由に冒険者が出入りする場所へ変わるだろう。
軍勢が迫っているという悪い知らせを聞いても、ヴィンセントは相変わらず表情を変えず、何を考えているのか読み取れないまま静かに思案している。
ボーウェンはその隙に、奇跡に遭遇したこの寡黙な男を改めてじっくり観察した。
天幕の中は暗く、差し込む光はごくわずかだ。外には人影が行き交っている。
それでも、目の前に立つヴィンセントの姿は周囲以上にぼやけて見えた。確かにそこに立っているはずなのに、影の中へ溶け込んでしまったかのように存在感が薄い。
妙な不気味ささえある。
注意深く見れば、彼の周囲では、潮の底を流れる暗流のように、膨大なエネルギーがひっそりと蠢いているのさえ感じ取れた。
ヴィンセントは、さらに強くなっている。
老神官は少し頭が痛くなった。
もともと彼は、このように欲が薄い生命を相手にするのが得意ではない。以前なら名もなき神霊の神術や長年の経験を使って、ある程度は誘導し、影響を与えることもできた。
だが今では、それもますます難しくなっている。
ヴィンセントがまだ口を開く気配を見せないため、ボーウェンは仕方なく自分から探りを入れた。
「どうだ? これだけ脅威の話を聞いても、まだこの迷宮城に残るつもりか? エリカたちと一緒に、別の場所へ身を隠すことも考えてみたらどうだ。名もなき神霊は四正教には属していないが、神々の国にも教派の神殿はある。そちらの者に頼めば、お前たちの偽の身分くらいは用意できる。どうだ?」
ヴィンセントは一切迷わず、きっぱりと首を横に振った。
世界の心を持ち、もはや知性種族ではなくなった。
シロ大陸全土を見渡しても、この不可思議な迷宮城を除けば、三人にとって安全な場所はもう存在しない。
「そうか……。もう少しお前たちに付き合えると思っていたんだがな。残念だ」
老神官は深々とため息をついた。声には隠しきれない寂しさが滲んでいた。
神託と布教が目的だったとはいえ、本来なら流浪の孤児になっていたはずの二人の少女を、彼が育ててきたことも事実だ。
二十年以上にわたる縁がある。
もっとも、あの二人の方はあまり気にしていないようではあったが。
俯いてため息をつくボーウェンの老いた顔はひどく寂しげで、その姿にヴィンセントも少し困った。
だが、重要な情報を勝手に明かすわけにはいかない。
「もしエリカやドロシーが連絡を取りたがったら、どうすればいい?」
まだ繋がりが残るらしいと知り、神霊への布教を続けられることへの喜びと、二人の少女が自分を完全には忘れていないかもしれないという嬉しさから、老神官はすぐ顔を上げた。
「お前たちは、まだ壊死の大地の辺境拠点へ入れるのか? 今みたいに、誰にも気づかれず潜り込むことができるのか?」
「できる。ただ、危険がある。できるだけ使いたくない」
蒼藍帝国は、すでにヴィンセントが姿を消す能力を持っていることを知っている。重要な場所に、それを見破るための手段が用意されていないはずはない。
それが血族に実際どこまで通用するかは分からないが、わざわざ危険を冒して試す必要もなかった。
ボーウェンは聞き終えると、老いた顔を深くしかめた。難題を突きつけられたようにしばらく考え込んだ末、ようやく口を開く。
「なら、こうしよう。私は神官とはいえ、もう歳だ。前線に長くいるつもりはない。今の壊死の大地の辺境拠点は急速に発展している。そう遠くないうちに、新しい冒険者の街になるだろう」
「人が増えれば、蒼藍帝国でもすべてを把握することはできん。戻ったら、外縁の人目につかない場所を探して住むことにする。何か必要があれば、そこへ私を探しに来ればいい」
「分かった」
正確な場所はまだ決まっていない。それでも、エリカやドロシーが本当にこの老神官を見つけたいと思えば、方法はあるだろう。
ヴィンセントは話を持ち帰ればいい。
「他に、外のことで知りたい情報はあるか?」
ボーウェンは、三人に何が不足しているのかをよく理解していた。
「皇家冒険団の現在の状況、人員配置、攻略計画……」
もう話すことはほとんど終わったと思っていた老神官は、ただ社交辞令のつもりで尋ねただけだった。ところがヴィンセントの口から出てきたのは、簡単には答えられない要求の連続だった。
老人の顔が思わず崩れかける。
だが、ここまで話してきたことで、ボーウェンにもほぼ確信ができていた。
ヴィンセント、エリカ、ドロシーの三人は、明らかに蒼藍帝国と敵対する側に立っている。彼らが巻き込まれているのは、単なる逃亡や追跡などという程度の問題ではない。
とはいえ、そんな是非や立場の問題は、名もなき神霊に仕える老神官には関係がない。
ボーウェンはただ自らの心に従えばいい。
神霊はいつでも、そこから自分を見ている。
「分かった。私もすべてを把握しているとは言えんが……この老人に少し考えさせてくれ」
その後も二人は、天幕の中で長い時間、声を潜めて話を続けた。
老神官からヴィンセントは多くの有用な情報を得た。エリカが判断を下すには、これで十分だろう。
簡単に別れを告げると、ヴィンセントはゆっくりと慎重に布を持ち上げ、天幕の外へ出た。
先ほど医療用の天幕にいた時、光騎士の鋭い直感によって危うく窮地に陥りかけた。
自分の行動に失敗はなかったとヴィンセントは確信している。
それでも相手は、敏感に何らかの異常を捉えていた。隠匿の天賦があるからといって、細部を軽視するわけにはいかない。
時刻はすでに深夜のはずだった。
ボーウェンの天幕にあった蛍光砂時計で時間を確認していたため、今が巡回隊の警戒が最も緩む頃だと分かっている。
ヴィンセントは音もなく、来た時に通った簡素な関所まで移動し、見張りのすぐ目の前を問題なく通過した。
第十一層の前線拠点を離れ、来た時と同じ方向へ進み、通路の突き当たりを曲がる。
歩みを進めるほど、背後の火明かりは遠ざかり、やがてその姿を照らせなくなっていった。
再び闇へ戻ったことで、ヴィンセントはずいぶん気が楽になった。思わず小さく息を吐く。
拠点から十分に距離を取ったところで、天賦「隠匿」を解除した。
ボーウェンの天幕では短い休息を取ることができたとはいえ、一日中、長時間にわたって天賦「隠匿」を使い続けた負担は決して小さくない。
気が緩んだ、その瞬間だった。
背中の骨と血で形作られた翼を大きく広げ、すぐに帰ろうとしたところで――鋭い風切り音が響いた。
反射的に首を傾ける。
飛来した鋭利な何かが肩口から首筋にかけての肉を大きく抉り取った。
あと一瞬遅れていれば、頭部をまともに破壊されていた。
強烈な勢いで掠めた一撃に身体を持っていかれ、ヴィンセントは思わず数歩よろめく。
だが、ようやく体勢を立て直したその時には、背後から柔らかな身体が密着していた。
片腕を背中へ強く捻り上げられ、そのまま地面へ押さえ込まれる。
「ヴィンセント。光神の下で、あなたは隠れられない!」




