40.死
防護結界が展開され、最後の逃げ道が断たれようとしていた。
アンダが再び迫る。
腕の中からも背中からも、温かな血が絶えず流れ出しているのが分かる。周囲には松明を掲げた巡回隊員が次々と現れ、包囲と警戒を固めていた。さらには皇家冒険団の主力まで異変に気づき、こちらへ急行している。
怒号と罵声が飛び交い、炎の光が揺れる。
周囲を見回したヴィンセントは、生まれて初めて感じるほどの重圧に襲われた!
これほどの危機を前に、過去のさまざまな記憶が荒れ狂う波間の光景のように脳裏を駆け抜ける。その刹那、体内の血液が制御を離れて猛烈に流れ始め、膨大なエネルギーを放出した。
骨ばった血翼の表面を走る肉色の細い脈が鮮烈な赤い光を放ち、それが一本一本、全身へと繋がって、奇怪な鮮紅色の紋様を形作っていく。
周囲のすべてが――遅くなった。
あの奇妙な超高速の領域が、再び現れた!
ヴィンセントが最も身につけたいと望みながら、これまで使い方の入口にさえ辿り着けなかった天賦「超速」が、ついに危機の中で発現したのだ!
これが最後の機会だと悟り、ヴィンセントは超速度の世界の中で、強引に天賦「飛行」を発動する。
骨ばった血翼に集まったエネルギーが、一瞬で爆発した!
鮮紅の光が天へ駆け上がり、頭上で閉じ切ろうとしている分厚い光の障壁へ向かって飛ぶ!
すべては、瞬きする間の出来事だった。
超速度の領域の外にいる者たちから見れば、一瞬前まで怪物は二人を連れたまま包囲の中にいた。
だが次の瞬間、鮮紅の光が激しく輝いたかと思うと、その姿はたちまち虹のような光となって空へ駆け上がり、防護結界が完全に閉じる直前、その外へ飛び出していた!
暗い空を横切り、未来の災厄を予告するかのように遠ざかっていく鮮紅の流星。
それを見上げながら、老バダは沈んだ表情で考え込んでいた。
自分の傷を簡単に処置するとアンダのそばへ歩み寄り、低い声で言う。
「お前……最後は、まだ止める機会があっただろう」
問いかけではあったが、その口調は確信に近かった。
「命を一つ借りてる。でも、私も全力は尽くした」
真正面から答えず、女野蛮人にしては珍しく遠回しな返事をする。
アンダは負傷した腕を垂らしたまま合金の大槌を拾い、背中へ戻した。
そして飛び去っていったいい男を見て、地面に倒れて死んでいるジェットを見て、慌てふためく皇家冒険団の者たちを見回す。
「迷宮城の攻略なら、挑み甲斐のある面白いことになると思ってたんだけどな。ほんと、つまらない……」
感慨のようでもあり、ようやく答えを得たようでもあった。
それだけ言うと、アンダは周囲が止めるのも構わず、その場を立ち去った。
壊死の大地の前線基地で唯一、まともに付き合えた仲間が去っていく背中。
そして反対側からは、皇家冒険団副団長ドゥノが血相を変えて駆けつけてくる。
周囲に渦巻く喧騒の中、老バダは突然、強い疲れが胸へ押し寄せてくるのを感じた。
もう、少し疲れた。
散乱した丸太の山へ腰を下ろし、懐から新たにいくつもの傷が増えた合金製のパイプを取り出す。
ゆっくりと煙草を詰め、火を点ける。
そして再び夜空を眺めながら、寂寥とした表情で一つ、また一つと煙の輪を吐き出した。
壊死の大地の空。
多くの者が見上げる鮮紅の流星となったヴィンセントは、天賦「超速」の状態で飛行能力を使い続けるうち、体内のエネルギーが凄まじい勢いで失われていくのを感じていた。
同時に、理性も少しずつ消えていく。
意識を保てなくなれば、怪物となった自分は間違いなくエリカとドロシーの血を吸い尽くし、干からびた死体に変えてしまう。
それだけは絶対にあってはならない!
ヴィンセントは自ら天賦「超速」の状態を解除した。
速度は大きく落ちるが、その場で理性を失うよりはいい。
しかしその分、世界の心へ戻るまでにかかる時間はさらに長くなる。
そして腕の中にいるエリカの身体は、ますます冷たくなっていた。
飛行を続けながら、普段は沈黙を崩さないその顔に、珍しく焦りが浮かぶ。
だが、腕の中ですでに何の反応も見せなくなった妻を、見ることもできなければ、見る勇気もなかった。
ただ温かな血がいまだ流れ続けていることだけを感じながら、ヴィンセントは世界の心がすべてを取り戻してくれることを願うしかなかった。
前線基地の野営地から迷宮城までは、決して短くない距離がある。
全速力で飛び続け、ヴィンセントは光神が完全に姿を現す前に、ようやく目的地へ辿り着いた。
まずドロシーを地下河の岸辺へ降ろす。
続いてすぐにエリカを抱えたまま川へ飛び込み、凍えるほど冷たい水の中を記憶にある道筋に沿って進み、あの奇妙な部屋へ戻った。
そして、ぴくりとも動かない妻を巨大な光球の中へ慎重に置く。
時間が、ゆっくりと流れていった。
巨大な光球に包まれ、浮かんでいるエリカには何の変化もない。
それでもヴィンセントは諦めず、ただ静かに目の前の光景を見つめ続けた。
そして、ついに――
湛藍の光が、再び咲き誇った!
巨大な光球から放たれた幾筋もの光が地下河へと伸び、広大な黒い深淵を再びまばゆく照らしていく。
やがてそれらは巨大な一条の極光の柱となり、爆発するように雲を突き破った!
空一面が、その色に染め上げられる。
変化が始まったことを悟り、ヴィンセントは奇妙な部屋を出ると、地下河を抜けて岸へ戻った。
そして顔を上げ、空を覆う壮麗で幻想的な光景を見つめる。
ようやく分かった。
五大国度まで騒がせたという天象異変とは、これのことだったのだ。
自分がいくつもの綻びを残し、疑われたのも無理はない。
そしてエリカが事情を知った途端、自分に逃げるよう求めた理由も。
これほど天地そのものを変える巨大な力を、無視できる国や勢力など存在しない。
「ほ……ほんとに……綺麗……。そう思わ……ない……? お義兄さん……」
ヴィンセントが自然の異変、その美しさと壮大さに目を奪われていたとき。
瀕死のドロシーもまた岸辺の乱れた岩に身体を預け、空を見上げていた。
ヴィンセントは振り返る。
もともと可愛らしかった顔は血に汚れ、小柄な身体の背には何本もの太い矢が突き刺さり、その先端が胸側へうっすら突き出しているものさえあった。
飛行している間から、彼女もまた大量に血を失っていることには気づいていた。
それでもヴィンセントは無視し、飛び続けることを選んだ。
エリカと比べれば、ヴィンセントにとってドロシーは結局のところ、一つの名前と――妻の妹でしかなかった。
二人が言葉もなく幻想的な景色を眺めていると、ドロシーが堪えきれず何度か咳き込んだ。
口元を押さえた手を見る。
掌は血で真っ赤になっていた。
なのに頭に浮かんだのは――なるほど、これがお姉ちゃんがいつも感じているものなのか、ということだった。
そう気づいた瞬間。
ドロシーはまた笑った。
お姉ちゃんと同じになれた。
「お義兄さんって……たまに、すごく馬鹿みたいなのに、本当は細かいところまでよく考えてるよね……。私をここに置いたのは……私がお姉ちゃんの最後の機会を奪うのが怖かったから……でしょ?」
溜まっていた血を咳とともに吐き出したことで、ドロシーは一時的に少し話しやすくなった。
だが、視界に映るものはすでに霞み始めている。
この小柄な女に対して、いつも沈黙を選んできたヴィンセントだったが、今の姿を前にしてまで欺くつもりはなかった。
低い声で答える。
「……お前は頭がいい」
「でも……まだ……お姉……ちゃん……ほど……頭……よく……」
もっと目の前の男と話していたかった。
だが再び込み上げてきた血が喉を塞ぎ、ドロシーは残りわずかな息を力なく喘ぐことしかできなくなる。
自分の背後をずっとついてきた小柄な女の前まで歩み寄り、ヴィンセントはしゃがみ込んだ。
じっと、その顔を見る。
彼女と出会ってから今までにあった、すべてを見つめるように。
厳密に言えば、ドロシーがヴィンセントと共に過ごした時間は、エリカよりも長い。
エリカには古傷があり、任務へ出るときは、勝手についてくるにせよ同行を求めるにせよ、いつも自分のそばにいたのはドロシーだった。
どれほど顔を変えようと。
どれほど悪事を働こうと。
どれほど残酷であろうと。
彼女だけはヴィンセントに対して、いつも甘えるように同じ一言を呼びかけてきた。
お義兄さん。
強い意志を持ち続けてきたヴィンセントの顔にも、このときばかりは珍しい迷いが浮かんだ。
それでも最後には手を伸ばし、ドロシーの頬をそっと撫でる。
すでに焦点を失い始めた瞳を見つめながら、彼女が今まで一度も聞いたことのないような声音で静かに尋ねた。
「エリカと俺のそばに、いたいのか?」
「俺と同じ怪物になっても?」
「これから人間ではなくなっても、構わないのか?」
だがこのときのドロシーには、もう言葉すらはっきり聞こえていなかった。
朦朧とした意識の中、ただ大きな手が自分の頬に触れていることだけが分かる。
そこから伝わる温もりと匂いが、どうしようもなく嬉しかった。
途切れ途切れに届く問いかけは、まるで遠い山の向こうから誰かが叫んでいるようだった。
それでも、とても心地よく聞こえる。
お義兄さんの声だと覚えていたから。
嬉しくて、ドロシーは思わず、自分にできる一番素直な笑顔を浮かべた。
その直後。
首筋に鋭いものが突き刺さる痛みを感じた。
ただでさえ失われていた血が、急速に吸い取られていく。
それとともに、命もまた急速に消えていった。
最後に残った記憶の中で、ドロシーは自分が抱き上げられたことを感じた。
お姉ちゃんと同じように、抱かれている。
二人は一歩ずつ、湛藍の光を放つ地下河へ入っていった。
同じ頃。
帝国辺境、壊死の大地の前線野営地。
作戦部の会議施設には、何度も激しい怒鳴り声が響き渡っていた!
「なぜだ! 誰か説明しろ! なぜ対象を逃がした!」
ドゥノの老いた顔には何本もの青筋が浮かび、それは首筋にまで走っていた。
机を何度も叩きながら、怒鳴り続けている!
室内は静まり返っていた。
理由ならいくらでも挙げられる。
こちらと対象では情報にあまりにも大きな差があった。
そもそも対象は、すでに人間ですらなかった。
確認できただけでも変身、隠匿、飛行といった能力があり、まして鮮紅の光を爆発させたあとの、あの恐るべき速度まである。
だが、激怒している副団長を今この場で正面から刺激したい者はいなかった。
「老バダ! お前たち二人は異変を見つけていた! なぜ最初に作戦部へ知らせず、自分たちだけで止めようとした! そのせいで、最後には対象を逃がしたんだぞ!」
隣にいる臨時顧問へ振り向き、ドゥノは問い詰めた。
相手がこれほど大きな失敗を犯した以上、以前のように丁重に扱うつもりはもうなかった。
いつか責任を押しつける相手にされるだろうとは予想していた。
老バダはすぐには答えない。
むしろ少し考え込み、蒼藍帝国で爵位を得て引退しようと思ったこと自体、もしかするとそれほど素晴らしい考えではなかったのかもしれないと感じていた。
怒り狂うドゥノを無視し、最初にここへ来た目的そのものを半ば諦めた老バダは、会議中だというのにパイプを取り出し、勝手に煙草を吸い始めた。
皇家冒険団の各組の組長、副組長たちは、それまで叱責されて俯いていた。
そんな老バダを見ると、まるで鬱憤をぶつける相手を見つけたかのように一斉に立ち上がり、礼儀も規則も弁えない老冒険者を次々と怒鳴りつけ始めた。
四方八方から浴びせられる非難の中で、逆に最初に怒鳴っていたドゥノは少しずつ冷静さを取り戻していく。
帝国監察使ディアだけは、最初から最後まで何も言わず、そのすべてを観察していた。
「もういい!」
ついにドゥノが騒がしさに耐えかねて一喝した。
同時に、老バダもふうっと煙を吐く。
会議施設がようやく静まったのを見てから、のんびりと言った。
「理由が欲しいなら、理由は簡単だ。対象が姿を現すまでは、俺もアンダも、あいつらがすでに宿舎から逃げる準備をしていたなんて知らなかった。ただ、対象の妻の妹の様子がおかしいと思って、追いかけただけだ」
「戦いの最中に知らせることはできただろう!」
ドゥノは簡単には引き下がらず、問題の核心を突く。
老バダはパイプを軽く叩き、燃えた煙草の残りをそのまま机の上へ落とした。
さらに新しい煙草を詰めて火を点け、一口吸ってから、ゆっくり答える。
「俺は役に立たない老人だからな。ここにいる誰よりも年寄りの老人だ。あれだけ強い皇家冒険団でさえ対象を止められなかったのに、どうして俺が戦いながら知らせを送る余裕まであったと思える?」
「アンダはどうした! 野蛮人の中でもかなり強い戦士だ。まさか、あいつまで役立たずだったと言うつもりじゃないだろうな」
老バダは肩をすくめるように答えた。
「あいつは、もう全力を尽くしたと言ってた。不満があるなら自分で聞きに行けばいい。シロ大陸じゃ誰だって知ってるだろ。野蛮人は道理を話し合うのが大好きだからな」
だが、野蛮人と道理を話し合うのが好きな種族や生命など、どこにもいなかった。
「バン!」
ドゥノが再び机を強く叩く。
その顔色が一変した。
「俺を馬鹿にしているのか! それとも帝国を脅しているつもりか!」
深刻な非難の言葉が出た瞬間、帝国監察使ディアを除く皇家冒険団の出席者全員が立ち上がった。
それぞれの手が武器へ伸びる。
全員の視線が、悠々とパイプを吹かしている老人へ集中した。
「事実を言っただけだ」
老バダはそう答えた。
それでも敵意を解かない一同を見回し、老いた顔に困ったような笑みを浮かべる。
「蒼藍帝国が俺をどうしたいのかは好きにすればいい。ただ、その前に考えておいたほうがいい。十大傭兵団の一つである槍と剣と火がどう反応するか。遊騎兵ギルドが、ほかの冒険者たちがどう反応するか。そして、この件をさらに大きくして、帝国に何の利益があるのかをな」
一触即発だった空気から、目に見えて戦意が薄れていった。
ドゥノさえ歯を強く噛み締めたまま、何も言わない。
皇家冒険団は、あくまで皇家冒険団にすぎない。
蒼藍帝国そのものを代表できるわけではなかった。
その様子を見て、老バダはさらに一押しすることにした。
すでに去った仲間の名を借り、付け加える。
「そうだ。アンダがもう一つ言ってたような気がする。もし自分に道理を聞きに来るなら、蒼藍帝国は十分気をつけろ、とな」
パイプを咥えたまま、老バダは淡々と続けた。
「なぜなら――野蛮人の一族も、血染めの薔薇も、お前たちと繁生会の過去を一度だって忘れたことはないからだ」




