38.機会
焦りを押し殺し、逃走が発覚したうえ、状況まで次第に制御を失いつつある中、エリカはまず冷静さを取り戻した。技巧「暗視」と「鷹の目」を併用して野営地の外縁を注意深く見回し、木屋の陰に一人の老人がいるほか、周囲には誰もいないことを確認する。
「私の指示に従って。いつでも動けるようにして」
エリカは低い声で言った。額には薄く汗が浮かび、褐色の肌にもかすかな青白さが滲んでいる。これ以上、技巧を何度も使える身体ではなかった。
ドロシーは返事をせず、ただ従順そうに笑いながら後ろについてきた。
妹を連れて老人のもとまで行くと、相手は積み上げられた丸太の上に腰を下ろしていた。濁った老眼は女野蛮人とヴィンセントへ向けられ、手にしたパイプからゆっくり煙を吐いている。
エリカもその隣に腰掛けると、軍用外套から煙草入れを取り出し、自分の分を一本巻いて火を点けた。
「ヴィンセントから聞いている。あなたが老バダ。生体迷宮の関門を一つ攻略したことがある、有名な冒険者」
一口煙を吐きながら、エリカも老人と並んで戦いを始めようとしている二人を眺める。口調は平静で、まるで友人と世間話でもしているかのようだった。
老バダはそこでようやく、隣に座った見知らぬ金髪褐色肌の女をちらりと見た。続いて、その後ろでおとなしくしているドロシー、さらに遠くで死んでいるジェットへ目をやってから、老いて掠れた声で尋ねる。
「逃げる必要があるのか? 秘宝を手に入れたとしても、遊騎兵ギルドなら冒険者を守ってくれる」
「答えは、すぐに分かる」
「それより先に聞きたい。どうやって私たちが逃げると見抜いて、ここまで追ってきたの? 皇家冒険団の馬鹿どもはまだ気づいていないはず。そうでなければ、今ごろ数百人に囲まれている」
煙を肺へ入れると、わずかな朦朧感と痺れが激しい痛みをかなり和らげてくれた。
エリカは、これならあと一太刀くらいは振るえると感じた。
その考えを見抜いたかのように、老バダはパイプを軽く振り、中へ煙草を少し足した。再びアンダとヴィンセントの対峙へ目を向けてから、ゆっくりと口を開く。
「俺はお前たちを止めないし、戦うつもりもない。ただ静かに引退したいだけの老人だ」
「それはいい。私も戦うのは好きじゃない」
エリカは同意した。
だが、もう片方の手は始終、腰の軍刀の近くに置かれたままだった。
煙の輪と白い靄が漂う中、二人はしばらく言葉を交わさなかった。
互いに考えがあるようにも、互いに何かを企んでいるようにも見える。
雷鳴が轟く直前のような静けさだった。
一方、目の前に立つ大柄な女野蛮人を前にしても、ヴィンセントは剣を抜かなかった。眉をひそめて言う。
「俺はただ、ここを離れたい」
「ドン!」
合金製の巨大槌が無造作に地面へ投げ捨てられた。
アンダは全身の筋をほぐしながら、棘付きの拳甲を嵌めた両手を何度も開いては握り、ゆっくりと馴染ませていく。
「迷宮城では、私が道を切り開いた。だから他の連中は私に命を一つ借りてる。お前は殿を務めた。だから私も、他の連中も、お前に命を一つ借りてる。私はそう考えてる」
「なら、俺たちを行かせてくれ」
ヴィンセントは簡潔に返した。
彼自身は、人情や貸し借りなど考えたこともなかった。
あのとき残ったのも功績を得るためであり、最も効率のいい方法を選んだだけだ。そもそも当時、自分以外に残って殿を務められるだけの実力を持つ者はいなかった。
「悪いな。お前に命を一つ借りるより先に、私たちはもう皇家冒険団に雇われてた。あいつらは馬鹿でろくでもないが、私に不義理をしたわけじゃない。だから、このままお前を行かせるわけにはいかない」
いつも真っ直ぐで遠慮のないアンダが謝罪を口にしたのは、これが初めてだった。
彼女には彼女なりの原則がある。
「安心しろ。老バダとは話をつけてある。私たちは誰にも知らせてないし、私も合金の大槌は使わない。お前が私に勝てたら、その時点で任務は失敗扱いだ」
ヴィンセントが少し離れた木屋の下に座る老人を見ると、老バダは同意するように頷いた。
「もちろん、戦いが短時間で終わらず皇家冒険団に気づかれたら、それはお前たち自身の問題だ。だから……全力で来い!」
最後の言葉を聞き、ヴィンセントの表情に迷いが浮かんだ。
人間の姿のままでは、この強大な女野蛮人には勝てない。
少なくとも、血族としての能力が完全に成長しきるまでは無理だ。
勝つ可能性があるとすれば、あの獣のような姿へ変わるしかない。
だが、自分がもう人間ではないという事実を晒せば、状況はまるで違うものになる。
逃げるだけなら、せいぜい悪名を背負い、指名手配される程度で済む。
変身能力まで見せれば、待っているのは五大国度からの終わりなき追跡だった。
蒼藍帝国だけではない。知性種族のあらゆる勢力が彼を放っておかない可能性がある。
そうなれば、二人は普通の暮らしへ戻る機会を失う。
また決断できずにいるヴィンセントへ、ちょうどそのとき、力強く迷いのない女の声が届いた。
「ヴィンセント、迷わないで。もう、私たちに残された機会はない」
声の主はエリカだった。
指には巻煙草を挟み、口から白い煙を吐き出している。
自分たち三人に残された時間が、もうほとんどないことを彼女は分かっていた。
その言葉を聞き、ヴィンセントの迷いも消えた。
軽く頷くと、腰の両手剣を外し、上半身の服と簡素な荷物も脱ぎ捨てる。
アンダは止めようとせず、余裕を保ったまま迎撃の構えを整えた。
野蛮人は人間よりも生まれつき身体能力も天賦もはるかに優れている。だが、それですべてに必ず勝てるわけではない。
冒険者として生きていれば、弱者が強者を倒す話などいくらでも耳にする。
知性種族が強大な魔獣や邪悪体へ挑み、各地にさまざまな伝説を残していることこそ、その何よりの例だった。
だからアンダは、これまで常に最高の状態で挑戦者を迎え撃ち、決して気を抜いたことがない。
それでもなお、各地を巡り、危険へ挑むことを好んできた女野蛮人は、テレサ世界の不可思議を甘く見ていた。
もともと自分より細身だった人間が、低い唸り声を漏らす。
その全身に、身体の内側から外へと幻想的な血赤色が浮かび上がり、暗い夜の中で異様な姿を見せ始めた。
四肢の筋肉が急速に膨れ上がり、体格は瞬く間にアンダと変わらないほど巨大になる。
さらに背中の皮膚が裂け、一対の骨ばった血翼が大きく開いた!
もはや人のものではない凶悪な獣面。
人を喰らうために生えたかのような、細長い牙。
それを目にしたアンダの表情は一気に険しくなった。
「いい男、お前……まだ私の言ってることが分かるか?」
「……わ……かる」
言葉は途切れ途切れだった。
ヴィンセントはまだ血族の真の姿に慣れていない。理性を保ちながら吸血衝動まで抑えなければならず、今の段階では人間の姿と同じように自由に振る舞うのはかなり難しかった。
「そうか……これがお前が何もかも捨てて逃げようとしてる理由ってわけだな。迷宮城で何があったのかも、私は聞かない。だから……」
約束を守り、目の前のヴィンセントがすでに怪物そのものの姿となっていても、アンダは素手のままだった。
ただ片手を前へ出し、掌を上に向けて四本の指を自分へ向かって動かし、相手を招く。
「来い!」
怪物の体内を巡る血赤の色彩は、まるで何かの律動を帯びているかのように流れていた。女野蛮人の言葉が終わった瞬間、それが一気に強く輝く!
同時に、人型の怪物が突進した。
長く鋭い爪を備えた五指が、アンダの頭へ向かって力任せに振り下ろされる!
突撃を前に、アンダは息を詰めて迎え撃った。
血族の速度は確かに速い。
だが、まだ見切れる。
襲いかかる爪を避けず、雄叫びとともに拳を振り抜き、正面から迎え撃った!
拳と爪が激突する。
「ドン!」
後から動いたアンダの拳が先に届き、怪物の掌を直撃した。
棘付きの拳甲が掌にいくつもの小さな穴を穿ち、血が飛び散る。
強烈な拳の威力は怪物を一歩後退させ、ヴィンセントは背の血翼を大きく広げて一度羽ばたかせて、ようやく勢いを止めた。
だが、全身を巡る血赤の色彩が蠢くと、掌に開いたいくつもの穴はすぐさま塞がっていった。
経験豊富なアンダはそれを見て、このように自己修復能力の高い相手には、激しい連続攻撃を叩き込まなければ効果が薄いと悟る。
「うおおおっ!」
野蛮人特有の技巧が発動した!
アンダの身体はさらに膨れ上がり、爆発しそうな筋肉の塊が次々と隆起し、脈打つ。
怪物が先ほどの一撃による後退の勢いをまだ立て直せていないうちに、一気に突進して懐へ入り込み、雨のような短い拳打を連続で叩き込んだ!
左で受け、右で捌き、上へ弾き、下へ押さえ、正拳を叩き込む。
恐ろしく速い連撃が空気を次々と炸裂させ、雷鳴のような轟音を連続して響かせる。
ヴィンセントには息をつく暇さえなかった。
長年の冒険者としての本能だけを頼りに、咄嗟に両腕を上げて守る。
視界を埋め尽くすのは、押し寄せる無数の拳影だった!
守り続ければ、いつかは崩れる。
一度の防御で、ヴィンセントが交差させていた両腕を強烈な一拳が弾き開いた。その一瞬、開いた隙間からアンダの顔が見える。
直後――
雄叫びとともに、技巧「怪力」と「爆発」を重ねた短打が真正面から叩き込まれた!
女野蛮人の凄まじい力に、血翼の怪物の身体が宙へ打ち上げられる。
頭を大きく振られ、身体を回転させながら飛ばされ、そのまま空き地に積まれていた雑物の山へ激突した!
轟音とともに、鮮血が地面へ広がる。
「いい男、まさかこれで終わりじゃないだろうな」
全身を汗で濡らし、熱い息を吐きながら、戦意の高まったアンダはようやく興奮し始めたところだった。
雑物の山から、鋭い爪の生えた獣の手が伸びる。
続いて、血翼の怪物もゆっくりと立ち上がった。
だが今や牙は一本折れ、顔の半分が陥没している。
ひどく無惨な姿でありながら、かえって一層凶悪に見えた。
「いいぞ。まだ力があるなら全部使え! もう誰かが近づいてきてるのを感じる。お前には……もう時間がない!」
言い終えると同時に、アンダは再び先手を取って攻め込んだ。
野蛮人にあるのは、いつだって攻撃、攻撃、そして攻撃だけだ!
そのとき、怪物の背にある骨ばった血翼が突如として大きく開いた。
無数の見えないエネルギーが糸となり、アンダの両手、両脚、腰、首、胴体の各所へ一気に侵入し、体内の血液を操り始める。
完全な不意打ちだった。
全身の力が突如として拘束され、振り抜こうとしていた拳が空中でぴたりと止まった!
血翼の怪物はその機を逃さない。
五本の鋭い爪を揃え、心臓めがけて容赦なく突き刺す!
肉を貫く音が響いた!
だが間一髪、アンダは左腕に凄まじい力を爆発させ、見えないエネルギーの拘束を強引に振りほどいた。
辛うじて左手を胸の前へ戻し、攻撃を受け止める。
鋭い爪はその分厚い掌を貫通したが、それによって軌道も逸らされた。
そして敏感なアンダは気づいていた。
血翼の怪物が自ら力を出す瞬間、見えないエネルギーによる拘束も弱まる。
右腕も続いて拘束を破り、今度は自分の頭へ突き出されたもう片方の爪を掴み取った。
そのまま大きな脚を持ち上げ、怪物の腹部へ力任せに蹴り込む!
怪物の身体は弓のように折れ曲がり、再び後方へ吹き飛んだ。
そしてもう一度、雑物の山へ激突する!
戦いで流していた熱い汗が、危機による冷たい汗へ変わる。
アンダは左手に開いた穴を見つめた。
そこからは温かな血が絶え間なく溢れ出している。
だが、強烈な危機と負傷は、この女野蛮人をさらに昂らせただけだった!
抑えきれない興奮のまま、ついにアンダは天を仰ぎ、長い戦いの雄叫びを上げた。
膨れ上がる戦意。
猛烈な咆哮は大気を震わせ、その激しさは周囲の大地さえ微かに揺らす!
こうなれば、皇家冒険団が異変に気づかないはずもない。
血を撒き散らす左拳を強く握り締め、アンダは目を輝かせて大声で叫んだ。
「来い! 次が、お前に残された最後の機会だ!」




