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36.各自の準備

「おい、あの素人のガキだぜ」


「もういい、面倒を起こすな。あいつを見ると緑皮鬼の巣にでも入ったみたいで、吐き気がしてくる」


「お前らも少し考えてみろよ。どこかの隊が適当に頷いてあいつを入れたとして、任務中に何かあっても、何がどうしてそうなったのか誰にも分からないぞ」


「やめとけ。そこまでする必要はない。みんな冒険者なんだ、関わらなきゃいいだけだ」


 多くの冒険者たちは声を潜めて話していたが、それだけ大勢が噂していれば、当人の耳にも少なからず届いてくる。


 ジェットは無表情のままカウンターへ行き、酒を一本と食事を買うと、すぐにその店を出た。これ以上誰かと口論や喧嘩を起こせば、娯楽区にあるどの飲食店からも出入りを断られてしまう。


 どうしてこんなことになったのか、ジェットには今でも分からなかった。


 大勢の前で正義告発が認められ、自分の訴えが正しいとされたはずなのに、結果として皆から忌み嫌われるようになったのは自分のほうだった。新しい隊に入れてもらおうとしても、他の冒険者たちはことごとく彼を拒んだ。


 あちこちで頼み込んで回る途中には、挑発してくる者にも何度となく出くわした。まだ素人にすぎないジェットは、しばしば野営地の片隅で全身傷だらけになるまで殴られた。


 医療施設の料金そのものは高くなかったが、任務中でもないのに何度も病室を出入りする彼は、すっかり笑いものになっていた。


 さらにジェットを腹立たせたのは、陰で手を出してきた連中について後から訴えても、相手に下されるのは私闘に対する軽い処分だけだったことだ。グリフィス兄さんに改めて頼んでもどうにもならず、結果として彼を挑発する者はさらに増えていった。


 今やジェットは、帝国辺境の野営地で最も名の知れた冒険者となっていた。並ぶ者はいないほどに。


 周囲から聞こえてくる噂話に、ジェットは考えれば考えるほど腹が立ってきた。


 それでも、自分は以前より成長したのだと思い、胸の中の不満と怒りを必死にこらえる。今日の昼食を持って個室宿舎へ戻りながら、今後は町の入口まで出向いて仲間を探したほうがいいのではないかと考えていた。新しくやって来た冒険者なら、まだ噂に惑わされていないかもしれない。


 そのときだった。宿舎区画の入口を通りかかった彼の耳に、心の奥深くに刻まれた聞き慣れた女の声が届いた。それも、低くすすり泣く声だった。


 胸の高鳴りを抑えきれず、ジェットは声をたどった。規則を破って女性用の個室宿舎区画へ入り、忍び足で抜けていくと、雑用の品が置かれた倉庫の前へと辿り着く。


 人影のない辺鄙なその場所で、彼は心の中の天使を見つけた。


 両腕で膝を抱え、地面に座り込んでいる。顔は膝の間に深く伏せられ、いつもなら鮮やかで人目を引く桃色の髪さえ光を失ったように見えた。小柄な身体は泣くたびに震え、押し殺した嗚咽は聞く者の胸を締めつける。いつも笑っていた可愛らしい姿は、そこにはなかった。


 その光景を目にした瞬間、ジェットの胸に言いようのない激しい感情が湧き上がった。ここ数日のあいだに受けた仕打ちまで重なり、彼は考えるより先に、これまでならできなかった大胆な行動に出た。


 早足で近づくと、勇気を振り絞って片手で相手の小さな手を握り、もう一方の手を細い肩へ置く。そして宣言するように、力強く大声で言った。


「ドロシー、どうしたんだ? 誰かに何かされたのか? 俺に言ってくれ。絶対にそいつらに報いを受けさせる! 俺は不公平や不正を見過ごしたりしない!」


 すすり泣いていた可愛らしい女は、突然響いた大声に驚いたようだった。涙に濡れた顔を上げ、首を横に振ると、ひどく弱々しい声で答える。


「な……何でもないの。ただ……目に砂が入っただけ……」


 血が頭に上ったジェットは、まるで発情した牡牛のように相手の手を強く握り、大声で言った。


「嘘をつくな! 俺はこの帝国辺境で唯一、正義告発を通した人間なんだぞ! そんな馬鹿みたいな理由、信じるもんか!」 


「わ、私の手……痛い……」


 小さな痛みの声に我へ返り、興奮していたジェットは慌てて手を放した。だが、先ほどまで握っていた柔らかな感触が名残惜しく、もう一度おそるおそる手を伸ばし、心の中の天使の手の甲へそっと重ねる。


 ドロシーが拒まないのを見ると、その柔らかく心地よい感触にジェットはさらに大胆になった。真剣な表情で、強く言い聞かせるように続ける。


「教えてくれ。どんなことだって俺は知りたい。絶対に困ってることを解決してやる。前に君が俺のために証言してくれたみたいに!」


 その豪語に心を動かされたかのように、ドロシーはもう片方の小さな手で頬の涙をそっと拭った。だが、すぐには答えず、先にこう口にする。


「ありがとう、ジェット。ずっと私に優しくしてくれたのは、あなただけ。前の正義告発のときも、私、あなたのことをすごいと思ってた。ただ……」


「分かってる。ヴィンセントは、何だかんだ言っても君のお義兄さんだからな。周りからどう見られるかも、男爵への昇爵が取り消されることも気にせず、俺のために立ち上がってくれた。それだけで君の心がどれだけ優しいか十分に分かるよ」


「それに比べて……前の仲間たちのほうがよっぽど最低だった!」


 話せば話すほどジェットは興奮し、このところ受け続けた仕打ちへの鬱憤まで一気に噴き出しそうになる。ドロシーはそれを見ると、慌てて小さな手で相手の手を握り返し、優しい声で宥めた。


「怒らないで。善い人ほど誤解されやすいものだから。でも私は、いつかみんなもあなたの素晴らしさと優しさに気づくって信じてる。私があなたを分かっているみたいに」


「ありがとう、ドロシー。俺……」


 握り合った手から柔らかな温もりが伝わってくる。涙を浮かべた可憐でか弱い顔がすぐ目の前にあり、ジェットの鼻にはほのかな香りまで届いていた。さらに桜色の柔らかそうな唇を目にすると、欲望が一気に胸を満たす。


 ジェットは思わず目を閉じ、そのまま唇を重ねようとした。


 だが、小さな手に「ちょうどよく」押し返された。


 ドロシーは恥ずかしそうに俯き、声を潜める。


「だ……駄目、そんなこと……」


「ご、ごめん。さっきは……ちょっと興奮して……。そ、それより、さっきの話を続けよう。何があったんだ? どうして一人でこんなところで泣いてたんだ?」


 心の中の天使が見せる、拒むようでいてどこか誘うような態度に、ジェットはますます夢中になった。だが、自分の正義漢としての体面もある。ひとまず本題へ戻るしかなかった。


「お……お義兄さんと、お姉ちゃんのことなの。二人が……二人が……」


「二人がどうしたんだ?」


「二人……私のこと、もう要らないって。男爵への昇爵が取り消されたのは私のせいだって思ってるの。でも……でも私だってずっと任務に参加して、一生懸命、お姉ちゃんのためにもう一度功績を稼ごうとしてたのに……」


 話すうちに、ドロシーの涙は止めどなくこぼれ始めた。彼女はそのまま手を引き戻し、両手で顔を覆って声を上げて泣いた。


 事情を聞いたジェットは、丸い顔を一気に真っ赤にし、激怒して怒鳴った。


「くそっ! なんでそんなことができるんだ! ヴィンセント自身の努力が足りなかっただけじゃないか。それに君のお姉さんなんて、何もしてないくせに爵位だけ欲しがってるんだろ! そんな二人、下水道の蛆虫より気持ち悪い!」


「駄目だ。君みたいにいい人が、そんな理不尽な目に遭っていいはずがない! 俺が絶対に訴えてやる。あの二人の醜い本性を全部暴いて、君が受け取るべき功績も報酬も取り戻してやる!」


 そう言うなり、ジェットは怒りに任せて立ち上がり、その場を離れようとした。


 だが、また小さな手に引き止められる。


「やめて。私……大ごとにしたくないの」


「でも……」


「大丈夫。誰かに聞いてほしかっただけ。泣いたらもう平気だから」


「そんなの、あまりにも不公平だよ。だったらディアドラさんに頼んでもいい。あの人は双子教会の光騎士なんだ。きっと君のために正義を守ってくれる!」


 ディアドラという名前を聞いた瞬間、ドロシーの弱々しかった表情がわずかに冷え固まった。


 だが、それもすぐ元に戻る。


 ただ今度は声が少し低くなり、かすかな殺気さえ帯びていた。


「いい。必要ない。それより……ジェット、ひとつお願いしたいことがあるの」


 自分の高揚した正義感に浸っているジェットは、ドロシーの変化にまるで気づかなかった。心の中の天使から頼みごとをされたことに舞い上がり、即座に答える。


「もちろんだ。何でも言ってくれ!」


 倉庫の木造小屋の傍らで、可愛らしい女は、まるで悪魔の囁きのような、人の心を惑わす言葉を静かに紡いでいった。


 その夜、闇神はすべてを静寂のうちに沈め、星の光さえ瞬かなくなり、ただ闇だけが大地を覆っていた。


 個室宿舎では、エリカがすでに出発の支度を整えていた。必要な物もすべて準備してある。窓の外へ向けていた視線を戻し、ヴィンセントへ顔を向けた。


「運がいい。今夜はほとんど明かりがない。出発できる」


 昨日、血族の天賦能力を目の当たりにしたエリカは、すぐさま逃亡計画を立てていた。


 悪魔種族となったヴィンセントが、蒼藍帝国に珍奇な研究対象として扱われることは間違いないと考えたからだ。まして彼は、迷宮城の世界の心という、これまで聞いたこともないほどの大秘宝まで手にしている。


 世界の心の能力については、今やほとんど古い文献にしか記録が残されていない。実物が発見されたという話すら聞いたことがなく、ましてヴィンセントの経験から考えれば、体質を改変し、死から蘇らせる効果まで備えている可能性があった。


 生まれながらの権力者や、高い地位にある者の中には、死から逃れられるという誘惑に抗えない者もいる。


 そんな相手に善意があるかどうかも分からないまま、自分自身を賭け金として運命を委ねるなど、エリカに言わせれば最も愚かな選択だった。


 そして、彼女が立てた逃亡計画は単純だった。


 まず表向きの準備を整え、次の段階では迷宮城の攻略に参加するつもりだと見せかける。こちらを厳しく監視している皇家冒険団を欺き、すぐに手を出したり警戒を強めたりさせないためだ。


 その次に、夜陰に紛れて野営地を脱出する。


 無事に野営地の範囲を離れさえすれば、ヴィンセントの飛行能力を使い、山峡の上方にある隙間から誰にも気づかれず直接迷宮城へ飛び込める。皇家冒険団がまだこちらの情報を掴みきっていないうちに、情報差を利用して一気に包囲を抜ける。


 それがエリカの計画だった。


 そうすれば帝国から指名手配されることにはなる。だが、今後の運命を他人に握られることは避けられるうえ、こちらには世界の心とヴィンセントの血族としての能力がある。


 エリカは、それだけの価値は十分にあると考えていた。


 妻から出発を告げられ、ヴィンセントは簡素な荷物を胸側に背負い、腰には両手剣を一本だけ括りつけた。防具は何ひとつ身につけていない。変身して飛ぶとなれば、伸縮性のある衣服ならともかく、金属製の防具は邪魔になるだけだった。


 エリカもまた、密かに逃げ出す以上、もともと身体の弱い自分に重い装備を身につけることを拒んだ。いつもの服に軍用外套を羽織っただけで、黒烏傭兵団が運んできた品々は、金銭に至るまで迷いなくすべて置いていく。


 二人は余計な言葉を交わさず、それぞれ片手を差し出して握り合った。


 ヴィンセントの体内で血液が脈動する。


 天賦「隠匿」が発動し、二人の姿は次第に消えていった。


 夜の闇そのもののように、影も形もなく。

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