23.欲望の神
金色の陽光の下、そよ風が静かに吹いていた。
農作業の時期を迎えた畑では、大勢の村人がいつになく熱心に俯いて働いている。そばを通り過ぎる、血に染まった軍用外套へ顔を上げようとする者は一人もいなかった。
金色の長髪を持つ人影が大屋へ入っていくと、村人たちはようやく揃って小さく息を吐いた。
だが、扉が閉まった途端、エリカは激しく咳き込んだ。
滑らかな額にはうっすらと汗が浮かび、普段は静かな顔にも苦痛の色が滲んでいる。
「奥様、神術で少し楽にしましょうか」
傍らにいたボーウェンが、心配そうに声をかけた。
エリカは首を横に振った。
ようやく息を整えると、自分で煙草に火をつけ、身体への激しい反動がもたらす痛みに耐えながら、ゆっくりと主座まで歩いて座り直す。
「昔、あなたも調べたでしょう。四正教の光神でさえ、幼い頃に残ったこの傷を元に戻せなかった。小さな教派の『名もなき神霊』に、今さら何ができるの?」
エリカは再び長い脚を卓上へ乗せた。
痛みで少し色を失っていた顔を徐々にいつもの静けさへ戻しながら、何の遠慮もなく口にする。
神霊を貶すような言葉を耳にし、ボーウェンは慌てて心の中で許しを乞うと、真剣な表情で説明した。
「神霊は万能ではありません。神霊に上下もありません。ただ、敬虔な生命を導く存在なのです」
エリカの口から白い煙がゆっくりと吐き出された。
煙草の刺激で身体の苦痛がわずかに和らぎ、立ち昇る煙がその顔を朧に覆っていく。
「残念だけど、私には向いていない」
ボーウェンはその答えに特に反応しなかった。
二十年近く説き続けても、一度として成功していない。今さら突然頷いて入信するとも思っておらず、ただ困ったように諭した。
「奥様、もうさまざまな技巧を使うのはおやめください。その身体では持ちません」
エリカは煙草を深く吸った。
わずかに濁った毒素が肺の中を巡り、やがて苦痛まで巻き込むように白い煙となって吐き出される。
「必要なら使い続ける。死ぬまで」
「そこまでする必要がありますか?」
ボーウェンは続けた。
「アーノルドとは普通に話し合うこともできたはずです。少なくとも、彼は輪と足跡商会に名を連ねる商人でした。彼らを敵に回したところで、あなたにもカンダベスにも何の利益もありません。蒼藍帝国の法廷でさえ、あなたの側に立つとは限らないでしょう」
話しているうちに、それまでの恭しくへりくだった態度は次第に消えていった。
少し腹を立てたボーウェンは、いつもの調子へ戻ってエリカを諭している。
何しろ、長年にわたって彼女の命を救い、導き、教えてきたのは彼だった。
煙草を吸い終え、身体が少し落ち着いてきたエリカは目を閉じて休んだ。
両手を下腹部の前で重ねたその姿は、まるで一度もこの家から出ていなかったかのように悠然としている。
身に着けた軍用外套が、大量の鮮血に染まっていることを除けば。
「支持? 真実さえドロシーに簡単に左右されるような帝国の支持なんて、私には必要ない」
それを聞き、ボーウェンも口を閉ざすしかなかった。
数日前、帝国の使者が珍しく二度目となる訪問でこの小さな村を訪れ、昇爵撤回について正式な説明文書を渡した時、老神官は本気でエリカが突然相手を斬り殺すのではないかと心配していた。
その時には、自分まで指名手配され、逃亡生活へ入る覚悟を済ませていたほどだ。
幸い、名もなき神霊の加護があった。
「分かりました。それで、これからどうするつもりです?」
「あと一歩で世襲爵位を手に入れ、安定した生活を送れたとはいえ、結局のところ、あなたは男爵ではありません。このままではカンダベスはいつ別の者へ渡されてもおかしくない。まして、輪と足跡商会まで敵に回してしまいました」
少し考えてから、ボーウェンはさらに続ける。
「それとも……もう一人、男を探しますか? せっかくこの小領地があるのです。下位の爵位を持つ貴族の中から、直接相手を選んではどうでしょう?」
長年、幕僚兼助手として傍にいたため、ボーウェンはすでに習慣のように彼女へ意見を出していた。
エリカが再び目を開く。
まだ完全には消えていない煙の向こうから、鮮紅の双眸が白髪の老人を真っ直ぐに見つめた。
ボーウェンは、どこか居心地の悪さを覚えた。
「あなたは……どうしてドロシーが、もう手に入っていた世襲爵位を捨てたのか分かる?」
そう問われたボーウェンの老いた顔には、何とも言い難い気まずさが浮かんだ。
姉妹がヴィンセントと出会ってからのことを、彼はずっと傍で見てきた。
その問いの答えを、当事者本人へ直接口にするのはあまりにも難しい。
老神官の考えていることが分かっているかのように、エリカはゆっくりと言った。
「嫉妬でも、恨みでもない。あの子はヴィンセントを愛している。でもそれ以上に、私が泥の中へ叩き落とされるところを見たがっている」
「私が惨めになることなら、私に自分の存在を意識させることなら、あの子は何だってする。あなたの再婚の提案は、まさにあの子が一番見たがっている結果よ」
エリカは淡々と続ける。
「この世界に、ヴィンセントのように私と合う人はもう二人といない。そんなことをしても、私はもっと厄介な泥沼にはまるだけ」
そこまで言うと、エリカは冷たく笑った。
「ふっ……さすが、あなたが育てた教え子ね。抑えの利かない欲望に満ちている」
最後にもう一度老人へ向けられた鮮紅の双眸には、すでに明確な警告が宿っていた。
「そ、それは……偶然かもしれません。あの子がどうしてああなったのか、私にも分かりませんし、何か誤解があるのかもしれない。帰ってきたら、皆で座ってゆっくり話せばいいでしょう」
何かを見抜かれたかのように、ボーウェンは老いた顔に狼狽を浮かべ、慌てて話を逸らした。
エリカは再び目を閉じた。
老神官のとぼけた態度を相手にせず、平然と告げる。
「話す必要はない。ドロシーはもう帰ってこない。あなたが一生望んできたことは、結局叶わない」
言い訳を考えていたボーウェンは、その言葉に飛び上がるほど驚いた。
両目を大きく見開き、今にも眼球が飛び出しそうになる。
老いた顔には力が入り、血管が浮き上がるほど激昂して、その姿はひどく狂気じみていた。
「帰ってこない!? そんなはずがない! あの子にはあなたがいる、この領地だってある! せめて……せめて、あなたが惨めな姿になっているのを見に戻ってくるでしょう!? そうでしょう!?」
エリカは低く何度か笑った。
精悍な顔には、容赦のない嘲りが浮かんでいる。
「『名もなき神霊』という名で自らを覆い隠す、欲望の神」
「その教えに従ってあなたが育てた子供が、どうして何もかも自分の望み通りに動くと思えるの?」
その瞬間、何の変哲もなかった老神官の身体から、濃密で危険な気配が噴き出した。
神術がエネルギーと共鳴し、強烈な波動が大屋の空気を震わせ、低く唸りを上げる。
ボーウェンは狂ったように自分の身体を揉み、掻きむしり、全身へ次々と血の跡を刻んでいった。
しばらくして、掻きむしっていた両手が最後に顔を撫で下ろした瞬間、その表情がまるで仮面を取り替えたかのように変わった。
何事もなかったかのように、最初の恭しい態度へ戻っている。
「奥様、大丈夫ですよ。師である私には、まだあなたがいる」
「あなたも同じように、名もなき神霊から神託を授かった者です。このまま何もかも失って甘んじるはずがない。私はそう信じています」
「健康を取り戻すことだけはできません。しかし、それ以外なら何でもできます。たとえ高位の爵位を持つ貴族を神術で惑わせることになっても……あなたの師として、私が試してみてもいい」
ボーウェンは両目を見開いた。
「さあ! あなたの欲望を口にしなさい!」
その瞳には混乱が満ち、目には見えない、人を惑わせ魂を絡め取るような力まで漂っていた。
ボーウェンは誘い込むように、低く囁き続ける。
だが、返ってきた答えは静かな一言だけだった。
「ここを離れて」
震えていたエネルギーが、ぴたりと止まった。
老神官の目にも正気が戻り、信じられないものを見るように呟く。
「な……何を、言っているんです?」
「ボーウェン。あなたはもう老いている。今ならまだ、次の継承者を探せる。これ以上遅くなれば、その機会もなくなる」
それが、エリカが老神官へ残した最後の忍耐と善意だった。
「あなたは! すべてを取り戻したくないのですか!?」
「アーノルドの死が招く問題を、解決したくないのですか!?」
「ドロシーに、自分のしたことを後悔させたくないのですか!?」
「あなたには何の欲望もないのですか!? そんなはずがない! あなたは名もなき神霊に選ばれた者なのですよ!」
老神官は激しく声を張り上げた。
知性生命に欲望がないなど、彼には信じられなかった。
絶対に、信じられない。
次々と投げかけられる問いに、エリカはただ穏やかに一言だけ返した。
「ヴィンセントを戻せる?」
激昂していた声が、再び止まった。
それだけは、ボーウェンには本当にできなかった。
彼が信奉する神霊にも、できない。
「あなたもドロシーも、私のことを一度も理解していない。ヴィンセントのことも」
「離れて」
白髪を垂らして俯く姿は、そのまま老神官の心情を映しているかのようだった。
もともと皺だらけだった顔には、さらに老いと落胆が刻み込まれている。
彼は名もなき神霊の教えを広めることへ一生を捧げると誓っていた。
神託が降りたあの日には狂喜したというのに、二十年以上にわたって努力を重ねても、結局何一つ成功させることができなかった。
ドロシーは失敗した。
エリカは、それ以上の失敗だった。
自分の一生は、名もなき神霊に何一つ貢献できなかった。
「心に光明も闇もない。大地も深淵もなく、豊穣も天行もまた存在しない。あるのはただ名もなき神霊のみ。常に心の内に在る!」
「欲望の神と私は、あなたを見つめています」
それだけを残し、老神官は立ち止まることなく扉を押し開け、外へ出ていった。
この小さな村を離れるつもりだった。
神霊が、きっと自分を導いてくれる。
彼はそう信じていた。
大屋の中では、再び白い煙が漂い始めた。
時折、小さな咳の音が混じる。
エリカは苦痛に耐えながら目を閉じ、人のことを、そしてこれからのことを考えていた。
その眉が、わずかに寄せられていた。
蒼藍帝国辺境、死亡峡谷。
ヴィンセントが洞口から外へ出て顔を上げると、各地を渡り歩いてきた冒険者である彼でさえ、言葉を失うほどの光景が広がっていた。
左右には、空を覆い隠すかのような壮大な山壁が高く聳えている。
その下には、底の見えない巨大な黒い深淵。
骨まで削る冷たい刃のような強風が吹き荒れていた。
突き出した崖の上に立つヴィンセントは、その中では目にも留まらない一粒の砂ほど小さい。
ただ呆然と、天地を埋め尽くす神業のような造形を見つめるしかなかった。
山壁と山壁の間には、複雑に縦横へ交差する無数の石道が宙に架かっている。
それぞれが異なる深い洞口へと繋がり、さらに下へ、下へと続き、やがて底知れない暗闇の中へ消えていた。
この光景から、ヴィンセントは一つの推測を立てる。
巨大な黒い深淵の底に、この迷宮城の中心があるのかもしれない。
その時、山間を吹き抜ける強風が再び襲いかかり、観察と驚きに意識を奪われていたヴィンセントを冷たく現実へ引き戻した。
これほど巨大な迷宮城を見るのは、彼も初めてだった。
蒼藍帝国が長期的な攻略を計画したのは、正しい判断だったのだろう。
観察を終えると、今度は現実の問題が浮かび上がってきた。
目の前の石道は明らかに次の階層へ続く通路であり、地上へ戻るための出口ではない。
ここから外へ出ることはできなかった。
一人きりで、装備も満足に揃っていない。
引き返すにも、さらに奥へ進むにも危険がある。
「ここで救援を待つか……」
ヴィンセントは険しい顔で周囲を観察しながら考えた。
崖から張り出した岩場の近くには、岩の一部がちょうどよく窪んでできた天然の水溜まりがあり、中には透き通った水が満ちている。
先ほど洞窟の中で水気を感じたのは、少し前に雨が降ったためらしい。
この水溜まりがあるなら、本当に飢えた時には第一層へ戻り、単独でいる食獣人を狩ることもできる。
特別な処理をしていない食獣人の肉は酸味と臭みが強く、ひどく硬い。
それでも、食糧にはできた。
知性生命の中には、邪悪体も知性を持つ人型の存在だとして、食糧にすることを嫌い、拒む者も少なくない。
だが、ヴィンセントはそこまで複雑には考えなかった。
食獣人が獣も人も食べるのなら、人や獣が逆に食獣人を捕食してもいい。
双方にとって公平で、ごく自然なことだった。
皇家冒険団が第一層を突破してここまで救援に来られるとすれば、何日ほど待つ必要があるだろうか。
ヴィンセントがそう考えていた時、不意に「シューッ」という異音が耳へ入った。
即座に長剣を抜く。
ヴィンセントは警戒しながら周囲を見回したが、山間を吹き荒れる強風のせいで音の出所を特定できない。
慎重に、あらゆる方向へ視線を走らせ続ける。
突然、異音が背後から急速に接近した!
考えるより早く、ヴィンセントは素早く振り返る。
同時に両手で長剣を高く掲げ、技巧「怪力」の力を乗せて一気に振り下ろした!
だが、何の効果もなかった。
長剣が何かを斬ったのではない。
幾重もの白い糸に絡め取られていた。
長剣から強い引っ張る力が伝わってくる。
唯一の武器を白糸に奪われそうになったヴィンセントは大きく声を上げ、両腕へ技巧「怪力」を乗せた。
同時に両脚へ技巧「突進」の力を通して加速し、身体を反転させ、宙に架かる石道の中央へ向かって全力で走り出す!
反対方向へ一気に爆発させた力が白糸を伝わり、山壁に身を潜めていた襲撃者をついに強引に引きずり落とした。
「ドン!」
襲撃者が崖の上へ落ちる。
そこで初めて、ヴィンセントは相手の姿をはっきりと確認した。
人間の三分の二ほどはある漆黒の身体。
縦に並んだ六つの碧緑色の複眼が絶えず動き、八本の太く長い脚には毛が生えている。
丸く大きな胴体の背には、さらに鎌の刃を思わせる二本の多関節の長腕が伸びていた。
口器の中には鋭い牙が並び、先ほどの白糸はそこから吐き出されている。
「鎌蜘蛛……どうして突然!? ここは迷宮城の階層と階層の間にある安全区域のはずだ。守衛はそれぞれ縄張り意識を持っている。普通なら境界を越えてくるはずがないのに……」
予定を乱され、内心では戸惑いながらも、ヴィンセントは慎重に構えるしかなかった。
まさかこんな場所で、魔獣と遭遇するとは思っていなかった。




