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22.エリカ

 蒼藍帝国では数十年前から、政策による積極的な奨励のもと、人口が大幅に増え続けていた。領土拡張にも非常に熱心で、国内各地の重要な資源、交通の要衝、地形などを発展の中心に定め、そこを基点として次々に都市を築いていった。


 しかし、どれほど力を注いでもシロ大陸はあまりにも広大だった。都市と都市の間には、まだ開発されていない比較的安全な土地が数多く残っている。蒼藍帝国はそれらを各地の貴族や名家、功績を立てた者たちへ与え、褒賞とすると同時に国力のさらなる発展を図った。その政策は、他国からも多くの人材を帝国へ引き寄せている。


 複数の恩恵を組み合わせたこの政策は大きな成果を上げ、今や蒼藍帝国は五大国の中で最大の領土と最多の人口を有する国となっていた。


 そんな広大な領土の中、長大な山脈の麓に、できてまだ数年しか経っていない小さな村がある。人口千人にも満たない目立たない村だが、帝都バランドから水運都市ヤロックへ向かう経路上に位置しており、商人や旅人、冒険者が途中で休息を取るには悪くない場所だった。


 村の名はカンダベス。


 その所有者は、ヴィンセント従男爵だった。


 カンダベスは近辺で最も高い山脈を背にしており、鬱蒼とした森が村の近くまで延びている。山中からは澄んだ川が蛇行しながら流れ下り、村人たちの主な水源となっていた。農地も、それなりに肥沃だった。


 村の中にあるのは、建てられて間もない簡素な木造家屋ばかりだ。周囲の原野は、村人たちが数年にわたって懸命に働いたことで、大小さまざまな農地へと開拓されている。高空からは時折、爽やかな山風が吹き下ろし、村へ通じる道では外から来た旅人が二人三人と疎らに行き交う姿もよく見られた。


 特別なものはない。


 ただ、穏やかで静かな場所だった。


「おい……聞いたか? うちの領主様、本当に男爵様になったらしいぞ!」


「遅い遅い、その話はもう古い。さっきまた帝国の使者が来て、うちの男爵様は従男爵に戻ったそうだ」


「なんでそんなことに……男爵様はいい人なのに。俺はずっと、正式にカンダベスの領主になってくれればって思ってたんだが」


「お前、本当に何も知らないんだな。うちの男爵様は迷宮城で死んだらしい。それで前に爵位を贈られたんだよ」


「なに! じゃ……じゃあ、なんでまた取り消すんだ? それに……これからカンダベスはどうなる? まさか、あの奥方が……」


「しっ! 余計なことを言うな。家に入ってからゆっくり話そう」


 農作業を終えた住民たちは、それぞれ集まってさまざまな噂を語り合っていた。疑問を抱く者もいれば、心配する者もいる。不安を覚えている者は、さらに多かった。


 村の中央には、この場所で最も広い敷地を持つ木造の大屋敷がある。


 その居間の上座に、一人の女が座っていた。


 肩には軍用の外套を羽織り、金髪を無造作に垂らしている。目を閉じ、すらりと長い両脚を組んで卓上へ乗せ、両手を下腹部に置いた姿は、休んでいるようにも見えた。


「奥様、現在、農地の作付けは順調です。今年の食糧生産にも問題はなく、余剰分を外へ売る余裕もあります。近隣の都市へ派遣した者たちも、多くの流民を村へ招き入れることに成功しました。カンダベスも、近いうちに再び拡張できるかと……」


 女から返事はない。


 変わらず目を閉じたまま休んでいた。


 白髪が増え、すっかり老いの目立つようになったボーウェンは、そんな様子に胸の内でため息をつくしかなかった。


 彼には、相手のことがますます分からなくなっていた。


 そのせいで老神官は、あの頃、天より授かった神託の意味を自分は取り違えていたのではないかとさえ疑っている。二人の少女のそばに残るという選択は、正しくなかったのかもしれない。


 一人は明らかに意に介さず、もう一人は明らかに利用している。


 姉妹はよく似ていた。


 二人とも強烈な傾向と欲望を持っているというのに、彼女たちにとって神霊さえ、力を借りるための駒にすぎない。


 もっとも、それこそが名もなき神霊の望んだものなのかもしれない。


 そうでなければ、神術による導きが、あの二人にだけ今まで一度もなかった反応を示すはずがない。


「……まとめますと、カンダベスの発展は順調です。それから、昨日、商人のアーノルドが個人名義で正式に村へ進出したいと申請してきました。専属商人になりたいとのことで、私の判断では、おそらく……」


 ボーウェンがそこまで言った時、上座に座っていた女が突然目を開いた。


 現れた一対の鮮紅の瞳は、深く美しく、煌めく宝石のようだった。


 彼女はそのまま、ボーウェンの言葉を引き継ぐ。


「夫が死んだと知って、まず商業の力でカンダベスを支配する。その後で私に再婚を迫れば、爵位と領地まで手に入る。ついでにドロシーも寝床へ連れ込める、とでも考えているんでしょう」


「うむ……私も、そう判断している」


 何と言えばいいのか分からず、老神官ボーウェンも頷いて同意するしかなかった。


 だが、その先の指示はなかった。


 金髪の女は傍らに置かれた煙草と巻紙を手に取ると、適当に巻いて火をつけ、唇にくわえて深く吸い込んだ。白い煙を吐き出しながら、静かに天井を見上げる。


 そんな平静な姿を目にして、長年彼女と過ごしてきたボーウェンには分かった。


 実際には、静かな水面の下で激流が渦巻いている。


 また何かが起こる。


 その忌々しい予感に、胸がざわついて仕方なかった。


 それでも老神官は結局何も言わず、もう一度首を振ってため息をついた。


 ほどなくして、金髪の女は卓上から長い脚を下ろして立ち上がった。


 煙草をくわえたまま、急ぎもせず大屋敷を出ていく。


 悩みの尽きない老神官に残されたのは、軍用の外套を翻しながら遠ざかっていく後ろ姿だけだった。


「はぁ……」


 それを見送りながら、ボーウェンは見る目のないあの商人のために、黙って祈り始めた。


 光神よ。


 今日もカンダベスは穏やかな晴天に恵まれ、暖かな光がすべての者を照らしている。


 だが、懸命に働いていた住民たちが心の中でその恵みに感謝していたところへ、あの奥方が大屋敷から出てきた。


 その瞬間、彼らの顔色が一変した。


 光を受けた長い金髪はひときわ眩しく、風に煽られて奔放に舞っている。だが、褐色の肌と静かな表情はそれとは対照的な落ち着きを感じさせ、何を考えているのか容易には読み取れなかった。


 ただ一対の鮮紅の瞳だけは強い光を宿し、揺るぎない意志を露わにしている。


 どんな障害にも目を向けず、ただ真っ直ぐに目的へ進んでいく。


「奥方だ……な、何をするつもりなんだ?」


「男爵様がいないんだ。何か起きるんじゃないか?」


「まだ知らないのか? 男爵様は戦死したんだ。奥方が爵位を継ぐらしい。はぁ……いいことなのか悪いことなのか」


 煙草をくわえ、軍用の外套を羽織った長身の女が通り過ぎると、住民たちは誰もが反射的に頭を下げ、声を出そうとしなかった。


 奥方自身は、そんな恭しい態度など必要ないと言っている。


 だが、彼女の進む道を塞いではならない。


 それだけは、誰もが知っていた。


 村の入口には、カンダベスで唯一の酒場を兼ねた宿屋がある。


 今はそこが丸ごと貸し切られ、数十人の傭兵が居座っていた。小さな店内を埋め尽くして騒がしく飲み食いする彼らに、店主は傍らでおそるおそる給仕を続けている。


 その中で、一人の小太りの男と、一人の大柄な傭兵が主卓についていた。


 二人は上機嫌に笑いながら、食事と酒を楽しんでいる。


「アーノルドさん、このたびはご馳走になりました。また同じような仕事がありましたら、ぜひ黒烏傭兵団をご贔屓に」


 大柄な傭兵は満面の笑みを浮かべていた。


 今回の任務は実に簡単だ。


 魔獣も野盗もほとんど出ない小さな村で、目の前の太った商人を守っていればいい。それだけでゆっくり休めるうえに報酬まで出るのだから、団員たちは皆、大喜びだった。


 向かいのアーノルドは、それ以上に楽しそうだった。


 すべて思い通りだと言わんばかりに大きな腹を叩き、高らかに言う。


「心配はいらない。これからも貴傭兵団にはいろいろ頼みたいことがある。嫌でなければ、このままカンダベスに残って守備隊になることを考えてみてもいい。小さな村ではあるが、黒烏鴉が帝国の公的機関に名を連ねられるんだぞ……」


 それを聞くと、大柄な傭兵も多少心を動かされた。


 つまり自分たちの傭兵団が、蒼藍帝国に認められた半ば公的な人員になれるということだ。さまざまな保障や補助も受けられる。


 任務を渡り歩くほどには稼げないだろう。


 だが、長く安定した暮らしができる。


 明日をも知れぬ生活を続けずに済む。


「それは……少し考えさせてください、アーノルドさん。ご存じでしょうが、傭兵団にはいろんな人間がいます。意見が一つにまとまるとは限りません。それに……本当にあなたが、この村のことを決められるんですか?」


 大柄な傭兵は少し不思議そうに尋ねた。


 カンダベスの主人は、確か自分たちと同じ冒険者だったはずだ。


 しかも功績によって従男爵の地位を得たほどの腕利き。


 目の前の太った商人ではない。


 誰より早く情報を手に入れ、すでに今後の計画まで立てていたアーノルドは、正面から答えようとはしなかった。


 ただ意味ありげに笑う。


 わざわざ答えを漏らして競争相手を増やすほど愚かではない。


 雇える小規模な傭兵団など、いくらでもいるのだから。


 雇い主が説明する気はないと察した大柄な傭兵も、頃合いを見て笑い、気まずさをごまかした。


 そして再び仲間たちへ声をかけ、陽気に酒盛りを続ける。


 だが、その時。


 耳のいい大柄な傭兵は、背後から聞こえてきた小さな店主の怯えきった声を捉えた。


「お、奥様、どうしてこちらに……わ、私はわざと規則を破ったわけでは……ただ……アーノルドさんが勝手にこの人たちを連れて入ってきて……」


 大柄な傭兵は振り返りながら立ち上がった。


 その瞬間、一瞬だけ心を呑まれる。


 そこに立っていたのは、一人の金髪の女だった。


 三十歳ほどだろうか。


 歳月によって深く刻まれたものが、静かな顔立ちに威厳を与えている。何故か従いたくなるような強い気配があり、奔放な金髪と軍用の外套からは、自身への揺るぎない自信と、困難を前にしても動じない余裕が滲んでいた。


 顔立ちは美人というほどではない。


 だが、精悍で鋭く、目を逸らすことのできない存在感がある。


 とりわけ、煌めく宝石のような鮮紅の双眸には、人の魂さえ奪いかねないような吸引力があり、容易には視線を外せなかった。


「おや、エリカじゃないか! どうしたんだ? 俺がカンダベスへ進出して専属商人になる申請に、わざわざ返事をしに来たのか? それなら、お前の人生で一番賢い選択だぞ。俺の財力と商会との繋がりがあれば、こんな小さな村なんてすぐに栄えさせてやれる!」


 相手の姿を見るなり、アーノルドは前に立っていた大柄な傭兵を押しのけた。


 待ちきれないとばかりに笑顔で歩み寄り、脂ぎった太い手を伸ばして金髪の女の手を掴む。


 何故なのか、大柄な傭兵はその光景に妙な不快感を覚えた。


 そっと周囲の団員たちを見る。


 皆、呆気に取られた表情の中に、どこか似たような感覚を滲ませていた。


 伸ばされた汚い手を、エリカは避けなかった。


 ただ静かに、自分の左手を取らせる。


 好き勝手に握られ、撫で回されても、そのままだった。


「アーノルド。前にも警告したはず。カンダベスは小さな村で、外来者が大勢入り込めば治安に影響する。私の許可を得る前に、あなたもこの者たちもここにいるべきではない」


「あの……こちらの奥方は、カンダベスの守備隊長でいらっしゃいますか?」


 どう呼ぶべきか分からなかったが、軍用の外套と腰の軍刀を見た大柄な傭兵は、店主の呼び方に倣って慎重に尋ねた。


 理由が何であれ、こういう人物を敵に回したくはない。


 それに、蒼藍帝国では領内で騒乱を起こした者への処罰が非常に重い。


 村へ入る時、太った商人からこんな規則があるとは聞かされていなかった。


 だが、金髪の女が答えるより先に、アーノルドが突然顔色を変え、怒ったように怒鳴った。


「馬鹿か! まったく見る目がないな! こいつが守備隊長なわけがないだろう。エリカは従男爵夫人だ!」


 大柄な傭兵が驚きを見せる暇もなく、アーノルドは今度は急に悲しげな顔になった。


 太った顔を歪め、どう頑張っても流れてこない涙を絞り出そうとしながら続ける。


「ああ、だがヴィンセントの旦那には最近、残念なことがあったそうだな。今は……従男爵様と呼ぶべきかな」


 そこまで聞けば、それなりに世慣れた大柄な傭兵にも、今回の任務がどうしてこれほど楽なのか分かってきた。


 村の主人は、自分たちと同じ冒険者だった。


 それだけに、いくら楽な任務でも気分のいいものではない。


 表情には居心地の悪さが浮かんだ。


 だが、一度引き受けた仕事だ。


 もはや自分の一存では決められない。


 一歩引き、丁寧な口調で言った。


「申し訳ありません、従男爵様。すぐに団員たちを村の外へ出します。村外で大人しく待機させ、問題は起こさせません。その……『護衛』任務が終わり次第、こちらを離れます」


 大柄な傭兵は「護衛」という言葉だけを、わざと強く口にした。


 この太った商人と共謀しているわけではない。


 そう誤解されたくなかった。


 エリカはそれを聞くと、大柄な傭兵へわざわざ視線を向け、それから頷いた。


 左手を好き勝手に弄ばれ続けているにもかかわらず、その声は変わらず平静だった。


「出ていく時、アーノルドも連れていって」


 金髪の女が自分との接触を拒まなかったことに浮かれていたアーノルドは、突然自分の名を呼ばれたうえ、村から強制的に追い出されると聞き、妄想と現実の落差にたちまち怒りを爆発させた。


「どうして俺が出ていかなきゃならない! エリカ、俺は規則を破っていない! こんな小さな村の規則が多すぎて、むちゃくちゃなんだ! 輪と足跡商会の会員をこんなふうに扱ってみろ。バランドへ戻ったら苦情を入れてやる! この村には二度と商人が来なくなるぞ!」


 大柄な傭兵は、荒野の小村にいるこの金髪の女が激怒して相手の罠にはまることを心配し、善意から仲裁しようとした。


「従男爵様、規則を破ったのは俺たち黒烏傭兵団です。今すぐ皆を連れて出ていきます」


 エリカは何も言わない。


 左手は依然として、得意になっているアーノルドに握られたままだ。


 その状態で、もう一度大柄な傭兵と、周囲にいる数十人の傭兵たちを見回した。


 いつの間にか、怯えきっていた店主の姿は消えていた。


 突然――


 刃の光が走った。


 まだ笑みを浮かべていたアーノルドの右腕と肩、そして頭の半分が地へ落ちた。


 エリカの左手だけは、強く握り締めていたその手に掴まれたままだった。


 斜め半分を失った太った商人の死体から、大量の血が噴水のように激しく噴き上がる!


 すべてが速すぎた。


 その場にいた誰一人として反応できない。


 何が起きたのか、頭で理解することさえできなかった。


 ただ血の雨を浴びながら、呆然と目の前の光景を見つめている。


 金髪の女の右手には、鋭利な軍刀が高く掲げられていた。


 刀身は鮮血に染まっている。


 今しがた太った商人を斜めに斬り裂いた痕跡だった。


「商人アーノルド。悪意をもって人を集め騒ぎを起こし、当地の領主を襲撃した。私、従男爵エリカは、帝国法令に基づきその場で処刑した」


 エリカは左手にぶら下がった太った手を持ち上げ、軽く揺らす。


「これが証拠」


 右手を一振りして刃についた血を払い、エリカは太った商人の手を大柄な傭兵へ放り投げた。


 そして、ごく自然に命令を下す。


「当地の領主による治安維持を助けることは、任務違反にはならない。死体をバランドへ持ち帰って報奨を受け取って。首都の治安官には私から連絡しておく」


「はい!」


 何故か大柄な傭兵は、反射的に背筋を伸ばして返事をした。


 エリカは扉を押し開け、宿屋から出ようとしていた。


 身体の半分近くを血で染めた金髪の女は、背後から聞こえた力強い返事に足を止める。


「悪くない。カンダベスの守備隊になってもいい。考えておいて」

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