17.独りの暗闇
涼風が薄暗い通路を吹き抜けていた。時に弱く、時に強くなる風には、響く音にもどこか一定の規則性がある。道中それを観察していたヴィンセントは、この先が出口へ通じているという考えをさらに強めた。少なくとも、迷宮城の何らかの罠には思えなかった。
装備の大半を失い、残っているのは長剣一本だけ。火を起こす手段もなく、仮にあったとしても迂闊に明かりを灯すことはできない。傷を負った今は「暗視」で体力を消耗することも避けたかったため、ヴィンセントは石壁に手を触れながら、慎重に歩き続けた。
ゆっくり進みながら、ヴィンセントは別の技巧――「自己治癒」を使い始めた。テレサ世界に満ちる豊富なエネルギーが、意志の導きに従って背中から腰にかけての傷へとゆっくり流れ込んでいく。滞っていた傷が少しずつ解けていくような軽い感覚が、次第に全身へ広がった。
ヴィンセントには、自分の身体が徐々に癒えていることがはっきりと分かった。
以前、アカヤが推測した通り、ヴィンセントは多くの実用的な技巧を身につけ、そのすべてを厳しい鍛錬によって磨いてきた。
物心がついた頃から各地を流浪し続けた彼にとって、毎日の生活そのものが、生死を懸けた冒険のようなものだった。
まだ幼かった頃の敵は、飢え、暑さと寒さ、病、野獣、そして知性種族だった。
少年と呼ぶには少し大きくなった頃には、野外での生存、魔獣、邪悪体、そして知性種族が敵となった。
成人し、それなりの実力を持つ冒険者となってからは、任務、未知の危険、そして相変わらず知性種族が敵だった。
知性種族にとって最大の敵は、知性種族だ。
それが、シロ大陸で三十年ほど生きてきたヴィンセントの出した結論だった。
だからこそ、生き残るために、彼は知性種族からさまざまな技巧を必死に学んだ。
敵の武器こそ、敵の心臓を貫くための最良の手段だった。
多くの先輩たちは、ヴィンセントに忠告したことがある。技巧を数多く身につけても、一つ一つを極められなければ、かえって十分に力を発揮できない。すべてを鍛える時間が足りなくなるばかりか、冒険者の隊に加わった際にも、専門性に欠けると評価されることになる。
当時、ヴィンセントは反論しなかった。だが、知性種族を信用していなかった彼は、人知れず鍛錬を続けた。
一日に数時間の鍛錬で技巧を極められないのなら、半日を使う。半日でも足りないのなら、眠る時間を除いたすべてを鍛錬に費やす。
若かった頃のヴィンセントは、文字通り命懸けで鍛え続けた。常に自分の身体を使ってさまざまな技巧を試し、身体に蓄積する傷、痛み、鍛えた戦士さえ倒れるほどの極度の疲労に耐えた。彼自身でさえ、二度と思い返したくないほどの無茶な日々だった。
その狂気にも近い時期、ヴィンセントは毎日のように顔を青ざめさせ、額には冷や汗を浮かべ、全身を震わせていた。身体も日を追うごとに痩せ細り、普段なら問題なくこなせる傭兵団の雑用さえ満足にできなくなった。当時の団長は、彼が急病にかかったと思い、団から追い出そうとしたほどだった。
だが、どれほどの困難であろうと、ヴィンセントは乗り越えてきた。
成人した頃には、常人には想像もできないほどの努力を重ねたヴィンセントは、すでに相当な実力を持つ冒険者となっていた。自分を拾ってくれた傭兵団のためにいくつかの大きな任務を成し遂げた後、ある日、彼は何も告げずに姿を消した。
ヴィンセントはずっと覚えていたからだ。
知性種族にとって最大の敵は、知性種族だ。
自らを放逐するように孤独な流浪を続ける中、この寡黙な冒険者は、閉ざされた「竜と飛鳴の地」を除く四大国すべてを巡った。その間、彼を本当に口の利けない人間だと思った者も少なくなかった。
いじめられ、嘲笑され、排斥される。そんなことが何度も繰り返された。どこへ行っても同じだった。
何も、幼い頃と変わっていないように思えた。
ただ一つ違うのは、今のヴィンセントには、そうした扱いを許さないだけの実力があることだった。
それが変わったのは、数年前。
強い気迫をまとった金髪の女が、ヴィンセントの前に現れた。鮮紅の瞳から向けられる眼差しは、審判するようでもあり、憐れむようでもあり、何かを計っているようでもあった。
女は十数分ものあいだヴィンセントを眺め続け、ようやく一言だけ口にした。
「これからは、私についてきなさい」
目的もなく、行く当てもない。長年の流浪には、ヴィンセントでさえ疲れていた。そこで彼は、その言葉を一つの雇われ仕事だと受け取り、それからずっと女のそばにいることになった。
金髪の女には、一つの計画があった。
五大国の中で、蒼藍帝国は明確な階級制度を持ち、なおかつ法による保障も比較的守られている唯一の国だった。だから世襲爵位さえ得ることができれば、そこで安定した暮らしを送ることができる。
二人は、家を持つことができる。
家。
ヴィンセントは、それまでそんなものを考えたことすらなかった。だが金髪の女にそう言われた時、このままそうして生きていくのも悪くないと思った。
そして、二人は結婚した。
それから金髪の女は、幼い頃から抱えていた古傷のため、冒険者として活動できなくなった。その代わりにヴィンセントが受ける帝国の任務を選び、どう任務をこなして功績を積むべきかを教えた。実領の村を得てからは村に残ってすべてを取り仕切り、彼が後顧の憂いなく任務へ向かえるようにした。
彼女の能力と、彼の実力。その二つが組み合わさったことで、各地を流浪していた二人は、ほどなく蒼藍帝国の従男爵と従男爵夫人になった。
五年間。
二人はここまで共に努力し、多くの心血と代償を払ってきた。そして今、夢を叶えるまで、あと一つの任務を残すだけとなっていた。
一つの家。
その目標を果たすまで、ヴィンセントは倒れるつもりなどなかった。幼い頃の苦難も、大人になってからの苛烈な鍛錬も、これまで積み重ねてきたすべての努力は、この時のためにあった。
必ず生きて帰る!
強い意志に呼応するようにエネルギーが活発になり、身体の回復も少しずつ速まっていく。ヴィンセントは試しに拳へ力を込め、小さく振ってみた。まだ身体の何か所かには痛みが残っていたものの、多くの傷口はすでに血が止まり、状態の悪化も収まっている。少なくとも短時間であれば、正面から戦うことに大きな問題はなさそうだった。
ただ、治療という点では、技巧はやはり神術ほど実用的ではなく、各種の医術にも及ばない。
厳密に言えば、技巧によるエネルギーの運用は、自らの身体が持つ修復力を加速させる手段にすぎない。大量の失血、骨折、身体の切断、重傷、大きすぎる傷口といった負傷には十分な効果を発揮できず、やはり専門家による治療が必要になる。
探索隊が出発する前、冒険者たちが神官の同行を望んでいたのもそのためだった。神官がいれば、危険や事故による損失を大幅に減らすことができる。
だが、蒼藍帝国は昔からそうだった。金貨で解決できることは問題のうちに入らない。この冒険者たちが全滅すれば、また次の一団を募集すればいい。貴重な神官や魔法師、さらには戦地医師まで、帝国は正規部隊にしか使おうとしなかった。
蒼藍帝国の任務へ何度も参加してきたヴィンセントは、そのことをよく知っていた。
だが同時に、もう一つの重要なことも知っている。
蒼藍帝国は、褒賞を惜しまない。むしろ気前がいいと言ってよかった。
今回の探索隊は成果を上げている。そのうえヴィンセント自身も殿として残り、仲間たちが生き延び、重要な情報を持ち帰るための機会を作った。
無事に迷宮城を脱出して野営地へ戻ることさえできれば、自分を待っているのは正式な男爵位である可能性が高い。
ヴィンセントは、そう信じていた。
その信念を胸に、彼はさらに長いあいだ、涼風が吹いてくる方向へ歩き続けた。
長時間暗闇の中にいたことで、ヴィンセントの五感は以前にも増して鋭敏になっていた。風の中に、一つの匂いが混じっている。それは野外や開けた場所に特有の、爽やかな匂いだった。そして進めば進むほど、その匂いははっきりしていった。
目的地へ近づくにつれて、ヴィンセントは逆に歩みを遅くした。彼は何事も急いで終わらせようとはしない。忍耐強く、慎重だった。だからこそ、他人には不可能な任務も成し遂げることができた。
足音をほとんど立てないように進みながら、「気配抑制」と「身軽」を使い始める。
やがて、遠くから届く眩しい光が、まぶたを刺激し始めた。同時に匂いにも気づく。濃くはない。だが確かに、かすかな悪臭が風に乗って漂ってきた。
食獣人の臭いだった。
手を添えていた石壁が曲がり角へ達したところで、ヴィンセントは足を止めた。息を潜め、意識を集中し、今度は「暗視」と「鷹の目」を使う。
奥深い通路の少し先には、大きな洞口があった。そこから光が差し込み、その眩しさの中、一体の食獣人がヴィンセントへ背を向けて地面に座っている。身体をしきりに揺らしており、どうやら食事中らしい。
食獣人の様子を観察した後、さらに周囲も確認する。ほどなく、ヴィンセントの頭の中で作戦がまとまった。
「暗視」と「鷹の目」を解除し、再び「気配抑制」と「身軽」を使う。記憶しておいた位置と聴覚、嗅覚だけを頼りに、音もなく漂う幽霊のように静かに近づいていった。
食事中の食獣人は、最後まで何一つ気づかなかった。背後から長剣をうなじへ突き入れられ、そのまま上から下へ腹まで貫かれ、一撃で絶命した。
食獣人を倒しても、ヴィンセントはすぐに外へ出ようとはしなかった。もう一度周囲を念入りに調べ、しばらくしてからようやく、二体目も三体目も存在しないことを確認した。
老バダの理論によれば、高位個体である上位食獣人が存在する以上、この階層の食獣人は通常、二、三体ほどで一組になっているはずだった。だが、ここには一体しかいない。
それが意味することは一つだった。
すでにこの階層の迷宮を離れる境界近くまで来ており、上位食獣人の支配が弱まっている。
冒険者にはさまざまな種類と専門分野がある。大規模討伐、迷宮攻略、重要物の護衛、各地への輸送、野外探索、未知地域の開拓など、その仕事は多岐にわたる。
大半の冒険者は、同じ種類の任務を繰り返し請け負う。それによって専門性を高め、任務を成功させ、生き残る可能性を上げることができる。専門の傭兵団の多くも、そうして形成されていた。
遊騎兵ギルドも通常、厳格な制限こそ設けないものの、冒険者が受けようとする任務について基本的な選別を行っている。
しかし蒼藍帝国は、迷宮城の権益を他者と分け合うことを避けるため、遊騎兵ギルドを通さず、裏で多額の報酬を提示して冒険者を募集する。その結果、任務を受けた冒険者の専門分野と、実際の任務内容が一致していないことも少なくなかった。
平凡な冒険者では、その違いは分かりにくい。だがアンダとジェットは、その最も分かりやすい例だった。
一人は正面からの強攻を得意とする圧倒的な力を持つ野蛮人。もう一人は基本的な技巧しか使えないひよっこ。その二人が同じ探索隊へ編入されていた。それも、老バダが安易に先へ進もうとしなかった理由の一つだった。
もし十分な数の探索に長けた者が揃っていたなら、敏感な斥候、機転の利く弓使い、強力な攻撃役、信頼できる盾持ち、さらには魔法師や神官までいたなら、たとえ上位食獣人が伏撃を仕掛けていたとしても、あれほど遅くまで異変に気づけないことはなかっただろう。
老バダ一人に隊全体を見渡させるだけでは、到底足りなかった。
ヴィンセント自身も十数回ほど迷宮城の探索任務へ参加しており、多少の経験はあった。それでも十分とは言えない。かつて先輩たちから指摘された弱点が、ここで現れていた。
ただ、迷宮城についての基本的な知識までないわけではない。
迷宮城の中で、このように群れから外れて異常な単独行動を取る個体は、大きく二種類に分けられる。
一つは、強大な力を持ち、変異を目前にしている個体。
もう一つは、群れから離れて身を潜めている個体。
後者は支配者からの命令を避けるため、迷宮の辺縁部で暮らしていることが多い。
ならば、ここが外界へ通じる出口である可能性は極めて高い。
ヴィンセントは長剣を引き抜き、刃についた臭い血を振り落とした。さらに食獣人の死体で丁寧に拭ってから、剣を鞘へ戻す。
出口が目の前にあると分かっても、いつも無表情なその顔に変化はなかった。
ヴィンセントは振り返ると、ゆっくりと、それでも確かな足取りで光の中へ歩み出した。




