第9話 日曜の声
公用車の中は、静かだった。
フロントガラスの向こう、道の端の狭い空き地に、ぽつんと立ったマンホールポンプの制御盤。ふだんなら小さな運転ランプが灯っているはずのそれが、今はうんともすんとも言わずに黙り込んでいる。
こいつが、諸悪の根源だ。
日曜の朝、けたたましく鳴った電話に叩き起こされて、俺はここまで飛んできた。局所的な停電で、ここの下水道のマンホールポンプが動きを止めた。低い土地に溜まる汚水を、汲み上げて送り出してやる、いわば下水における重要な中継地点だ。
そいつが停電で黙り込めば、汚水は行き場をなくす。放っておけば、汲み上げられない汚水がじわじわと溜まっていき、いずれは道路に溢れる。
とはいえ、そうなる前に、と手は打った。業者に連絡して、バキュームの手配済だ。
溜まった汚水を先のマンホールまで運んでもらって、時間を稼ぐ。あとは電力会社が停電を直すのを待つ。それだけだ。
それだけ、なんだが――
つまり、俺にできることはもうない。
手配は済んだ。上司は職場で待機。ほかの職員には、最悪の事態に備えて自宅待機の連絡がいっているはずだ。
現場にいるのは俺一人。俺にできるのは、ただ待つこと。黙り込んだ制御盤が、他人の手でまた動き出すのを。
俺は近くの自販機で買った缶コーヒーを、一口すすった。砂糖もミルクもたっぷり入った、甘ったるいやつだ。ブラックは苦手でな。
疲れた体には、これくらい甘くないとやっていられない。
窓の外を、休日の親子連れがのんびりと通り過ぎていく。若い父親と小さな娘。手を繋いで買い物袋を提げて、なにやら楽しげに笑い合いながら。
…………。
俺はもう一口、甘いのをすすった。
ふと、あの丸くて硬い、金属の頭が目に浮かぶ。
……あれと手を繋いで買い物、か。
あのメカニカルな五本の指で、俺の指を、にぎ、にぎ、と握って。
想像したら、なんだかふっと笑えてきた。
そういえば――
俺はスマートフォンを手に取っていた。
休日に呼び出されたうえ、ここには俺一人。おまけに、待つことが仕事なら、ちょっとくらいスマホを見たって責められるいわれはない。
画面に映っているのは、自宅の居間。ベビーカメラを通して見えるリアルタイムの映像だ。
画面の中。心結はベビーベッドで静かにしている。ウサ耳を、ぴんと立てて。時折、五本の指を、にぎ、にぎ、と、意味もなく動かしている。「ぴゅい」と声を上げているのが、音のない画面越しにも、なんとなくわかる。
……平気そう、だな。
朝、家を出る前に、灯油は満タンにしてきた。だから、当分腹を空かせる心配はない。半日はもつ。あの子は、放っておかれることにかけては、滅法強い。
強いんだ。俺がそばにいなくても。
……その、平気そうな様子を眺めていると、安心する。安心するんだが――その安心の底のほうに、なにか、ちくりと刺さるものがある。
俺がいなくても。この子は、こんなにも平気なのか。
……いや。手のかからない、いい子じゃないか。それでいい。それで、いいんだ。
スマホを置いた。……そうして、五分もしないうちに、また手に取っていた。
思えば、昨日もろくな日じゃなかった。
土曜。俺は意気揚々と、この子を公園に連れ出して――そうして、見事にこけた。
若い父親にベビーカーを覗かれ、憐れむような目で「可愛い赤ちゃんですね」と言い残されて、逃げられた。
誰にも、娘だとは、認めてもらえなかった。
あの疲れがまだ、腹の底に残っている。そこへ、今日のこれだ。
二日続きの休みの、片方は社交の大失敗で。もう片方は、下水のマンホールポンプに、朝から張りつかされて。
……我ながら、ずいぶんと味気ない週末じゃないか。
どれだけ、経ったか。
ふいに、フロントガラスの向こうの制御盤に、ぽ、と運転ランプが灯った。低く、ぶうんと唸りが起こる。
……停電が復旧したらしい。
ポンプの電圧を示す針が動き、再稼働したことを示している。上がる一方だった水位計の数字が、ゆっくりと下がり始める。
――間に合った。
が、……別に俺がなにかをしたわけじゃない。電力会社が、電気を直した。ポンプが自動的に動き出した。俺はその脇にただ突っ立って――いや、座って甘い缶コーヒーをすすっていた。それだけだ。
達成感もなにもない。ただ、せっかくの休みの日中が、マンホールポンプに食われた。その事実だけが残っただけだ。
後始末を済ませ、公用車を返し、家に着く頃には日が暮れていた。明日は月曜。……また、いつもの一週間が始まる。
玄関を上がる。
リビングに戻るとベビーベッドの上で、心結がこちらを向いた。ウサ耳が心なしか垂れている。「ぴゅるるる」と弱く鳴いた。
まだゴーグルに赤い電池のマークは出ていないが、腹をすかせていることが、さすがにわかるようになった。
「待ってろよ。すぐに腹いっぱいにしてやるからな」
哺乳瓶片手に部屋の隅の灯油のポリタンクに向かうと、いつもの手つきで給油口へ。
とくとく、とくとく、と。
……疲れきった頭で、半ば機械的に、瓶を満たしていく。
「ほら、ロボ子。飯だぞ」
ベビーベッドに戻って哺乳瓶の乳首をくわえさせる。
心結と名付けてからも、どうにも名前は呼びにくい。ついついロボ子と口にしてしまう。
哺乳瓶が空になると、俺はそのままどさりとソファに腰を下ろした。着たままだった作業着を脱ぐ。
……疲れた。今日は、本当にただ疲れた。特別ななにがあったわけでもない。ただじわじわとすり減らされた、それだけの一日。
早いところ飯を食って、風呂に入って、寝てしまおう。
明日もあるんだ。
満タンになって、上機嫌のロボ子が俺のほうへ、ころりと寝返りを打った。
そうして、あの横一文字の小さな口が――開いた。
「ぱ……ぱ」
…………。
俺は脱いだ作業着を手にしたまま固まった。
今のは。……今のは、なんだ。
「ぴゅい」でも、「ぴゅるるる」でもない。メカ音じゃない。
たどたどしくて、舌っ足らずで。だが、紛れもない――人の言葉だった。
聞き間違いだ。そうに、決まっている。
俺はこの子をまじまじと見返した。
「ぱぱ」
今度は、はっきりと。
ウサ耳を、ぴんと立てて。青い光を、いつもより明るく灯して。心結がもう一度、俺をそう呼んだ、その瞬間。気づいたら――
「……心結」
俺の口から、その名がこぼれていた。
決めて呼んだんじゃない。
考えるより先に、勝手に口が動いていた。
どうにも気恥ずかしくて言えずにいたその名前が、今はなんの力みもなく、するりと出てきた。
ソファに座り込んだまま、俺はしばらく動けずにいた。
……思えば、俺の選んだものは、ことごとく間違っていた。
信じきっていた妻には、他人の子を押しつけられて、逃げられた。人を疑うということを知らなかった。それが間違いだったんだと、あの夜、俺は思い知った。
……信じたのが、間違いだったと。
でも。
たった今、覚えたての言葉で俺を呼んだ、この金属の娘。
血の一滴も繋がっていない。人ですらない。誰にも娘だとは認めてもらえない。
そんな子を、それでも育てると決めた――その一つだけは。
……間違ってなかったのかもしれないな。
報われた、とは少し違う。この子がなにかお返しをしてくれたわけじゃない。ただ、この子は俺を呼んだ。ほかの誰でもない、俺を。それだけで、こう思えたんだ。
――ああ。あれは、間違いじゃなかったんだと。
昨日公園で、あんなに欲しかった、たった一言。誰かに、この子を娘だと認めてほしかった。
……その一言を、一番認めてほしかった当の本人が、一番近くでくれた。
画面越しなんかじゃない。立ち上がって腕を伸ばせば届く、すぐそこで。
柄にもなく、目の奥がじんと熱くなりかけて、俺は慌ててそっぽを向いた。
いい歳をした四十二歳の下水道課の男が、子供に「ぱぱ」と呼ばれたくらいで、ソファで一人、顔を赤くして、鼻をすすっている。
……人には、とても見せられた姿じゃない。
「……もう一回、言ってくれないか」
照れ隠しに、そうせがんでみる。
心結は、青い光をぱちぱちと瞬かせて、それから[^^]と目の表示を変え、ウサ耳をゆらりと揺らした。
……くそ。もったいつけるだけで、呼んではくれないのかよ。
そう少し残念に思っていると――
「ぱぱ♪」
……ずるいぞ、おまえ。




